ゴースト・リンク⑧

○ 第八章  果たされた約束

 霊前のお供え物って、無駄だと思っていました。
 この世に身体のない人が、どうやって味わうというのでしょう。だけどママは、パパの月命日には、大好きだったティラミスを欠かしたことがありません。
「どうして?」
 ってわたしか訊いたら、ママは必ず、
「今にきっとわかるわよ」
 と言って、お供え物のティラミスを、私と朝日に振る舞うのです。
 甘くほろ苦い味が幸せな気分にさせてくれるのは確かです。たぶんパパの想い出には、グランメがよく作ってくれた、うんと素朴なティラミスのイメージがつきまとっているのでしょう。朝日なんて、お供え物を食べたあと、パパそっくりの口調で「美味い!」と言うんです。もしかしたらパパは、朝日の身体を借りて、大好物を味わっているのかもしれません。
 そうなんです。
 パパは今でも家族と共に生きています。だってわたしたちは、パパのことを思わない日は、一日だって無かったんですから。


 結局、家に帰ることは叶わなかった。
 ママは酸素マスクをはずせないまま朝を迎え、一晩で十歳は老け込んだように見える。
 朝の回診と入れ代わりに、石戸がベッドサイドへやって来た。赤い目は、廊下のソファの寝心地が悪かったせいだろうな。
「そろそろ、おいとませねばなりません」
 申し訳なさげに頭を下げる石戸に、つい居丈高な調子で問い返してしまう。
「いっしょに、家へ行ってくれるんじゃあなかったの?」
「申し訳ないが、正午までには狭山へ行かねばなりませんので」
「大切な用事なんですね。私の家から、なにが持ち出されたのか確かめるのなんかより」
「まあ、大事と言えば大事な用件です。お通夜式の準備ですから」
「あ……すみません」申し訳ない気分が口調を和らげる。「じゃあ、お身内の方が亡くなられた……」
「いや、そうではなくて純粋に仕事です。生活の糧を得るための」石戸の顔に憐憫の色が浮かぶ。「わたくし、こう見えても天台宗の僧侶ですから」石戸の顔には苦笑いが浮かんでいた。「テレビから追放されてからというもの、正直、生活はうんと苦しくなりましてね、大手の葬儀屋さんの求めに応じて、あっちの街でお経をあげ、こっちの街でお通夜式を執り行う……まあ今風に言えば派遣の坊主に成り下がったってわけですよ」
 テレビ画面の中の石戸には、能楽のシテ役みたいな、金ピカ衣装を着たイメージがつきまとっていた。なのに、わたしの前に現れた姿は、かなりかけ離れている。質素な作務衣に雪駄、家賃数万円のアパートとのギャップが、たった今埋められた。
「今さら、こんなことを申し上げるのも心苦しいのですが」石戸は真顔で告げた。「クスリから手を引きなさい。私、瀬島という男を侮っておりました。やつは牟田口から情報を得ることが叶わないと知るや、さっそく東子ちゃんの家へ踏み込んでいった」
「それが、どうして手を引くことにつながるのかしら」
「わかりませんか? やつは、たった数時間のうちに捜索令状を手に入れたのですよ。わかりやすく言えば、令状を取るためには、どんな罪でもでっち上げることができるということです。もしかしたら瀬島という男、警察内部に、意のままに動く人間関係を構築しているかもしれない。いや……そう思って、まず間違いないでしょうな」沈黙してしまったわたしを、石戸はまっすぐに見つめていた。「老婆心ながら謹んで申し上げる。クスリから手を引きなさい。やつらには敵わない。下手したら東子ちゃんの命が危ない」
 私はベッドに視線を投げた。
「ねえ、ママは、それでいいの?」
 ママは片手で酸素マスクを持ち上げると、かすれた声で訴えた。
「石戸さんに賛成。東子の身になにかあったら私、嫌だからね」
 ここはひとつ、うん、と言っておかないと収まりそうになかった。
「わかったわよ。ママが安心するんなら、そうする」
「ありがとう、東子。お礼に、パパとの馴れ初めを、すこしだけ話してあげるわ」ママは遠い目を空中に投げた。「ちょうどシダレザクラが満開の頃だった。私、意識だけになって、小石川の後楽園を散歩していたの。池の上にさしかかったら、そこにクスリで幽霊化したパパがやってきた……。赤い色をしていなかったわ」
「赤じゃなきゃパパ、何色だったのよ」
 酸素マスクに覆われた口元がほころぶ。
「とても綺麗な金色。まるで神様みたいに見えたわ。でなきゃ、自分から声をかけたりはしなかったもの」
 そう言ってママは目を閉じた。呼吸が荒くなり、警報が鳴りはじめる。
「もしもあの時、わたしと出会わなかったら。パパは死なずに済んだかもしれない。こんな悲しい思いをせずに済んだかもしれない」
 私はこぶしを握りしめた。
「そんなこと言わないでよ。パパとママが出会わなかったら、わたしも朝日も生まれてこなかったんだよ」
 ママには答える力が残されていなかった。ただ、力なくうなずくだけだった。
 それを待っていたかのように、石戸が進み出る。
「送っていきますよ。家のことが心配でしょうから。美由紀さんの車をお借りするお礼にね」そう言って石戸は、ベッドサイドに置かれたキーを手にとった。

 先に病室を出たのは私の方だった。足音がついてこない。空っぽのエレベーターに乗り込んで振り返ると、石戸はまだ廊下の途中を歩いていた。しきりと周囲を気にしている。それは、エントランスを抜けて、車に乗り込むまでつづいた。
 エンジンが始動し、カーエアコンから埃だらけの風が吐き出される。
「プロジェクトには、得体の知れないやつもいましたが」石戸はようやく口を開いた。「みなさん紳士的で、頭の回転も速い方ばかりでした」
「その人たちって、やっぱり政府のお役人?」
「だと思いますが、本当のところはわかりません。名刺の肩書は厚労省の課長補佐とか文科省の局長とかになっていましたけど、防衛省や警察庁の方がひとりもいなかったのが余計に意図的に思えます。で、彼らのことなんですが、白倉先生がお亡くなりになられたあと、次々に……」
「パパのように殺された」
「いえいえ」石戸は鳩のような笑い声を漏らした。「みなさん、連絡がとれなくなりました。電話をすれば不通、賀状を送れば戻ってくる。ようやく、ひとりを見つけたかと思ったら、北海道の端っこにある小さな役所におりましてね。その方が言うには、プロジェクトに参加したメンバーのほとんどが、左遷あるいは免職になったそうです」
「理由は?」
「それがね、はっきりしないんです。北海道に飛ばされた方は、女性問題らしいですけれど。わたしがなにを言いたいか、もうおわかりですね」
 無言でうなずく。パパがもし命を失っていなかったとしても、プロジェクトの関係者と同じように大学を追われていたに違いない。
 石戸はステアリングをさばきながら、口の中でぶつぶつと呟いていた。それが聞き取れる言葉になった時には、駅前の赤信号が見えていた。
「今にして思えば、霊感商法で逮捕されたのも、闇の権力に嵌められたのかもしれませんな。警察での取り調べでは、私しか知らない架空名義の口座番号とか、盗聴を恐れて筆談した内容に至るまで、まるで見た来たかのように次々と言い当てられましたよ。あれは幽霊じゃなければできないこと……と、愚痴をこぼしてもしかたありません。後悔先に立たずってやつです。この歳になったら、もはややり直しがききません」
 石戸の口元は自嘲気味に笑っていたが、バックミラーを見つめる眼光は鋭かった。
「グレーのセダンがついてきてます。たぶん尾行です」
「警察?」
「には違いありませんが、あれに乗っているのは正義と共にある連中ではない。己の栄達のためには、殺人だって厭わない集団なんです」石戸はパーキングブレーキを引き上げながら、駅前の雑踏を見渡した。「こんな衆人環視の街中なら心配いらないが、自宅に戻ったら朝日くんといっしょにいるといい。できうる限りひとりならぬよう、ご注意ください」

 石戸への別れの挨拶もそこそこに、家へ飛び込む。
 すかさび飛びついてくるハチローの歓迎をパスし、弟の名を叫ぶ。だけど返答がないのはハナからわかっていた。三和土にナイキの外履きがなかったからだ。
 玄関はロックされていたし、ざっと見たところ、リビングから持ち出されたものはなさそうだった。だけど、本来そこにはないものが、ダイニングテーブルの上に乗っていた。
 押収品の目録だった。警視庁の印の上に、蛍光色のマークペンで大きく“バカ”と書きなぐられている。見覚えのある汚い字だ。
 つながらない。LINEメッセージに切り換える。
《今、なにしてる?》
 返信は期待していなかった。ケータイを目録に持ち替え、この家からなにが持ち出されたのか確かめる。筆頭に書かれていた『麻酔学臨床マニュアル』──パパの書斎にあったんだろう──に目を這わせたその時、着信を告げるメロディーが流れた。
《メシ食ってんだけど、俺》
 すかさずリターン。
《メッセじゃなくて電話して。大至急よ》
 声を聞くまでは安心しないつもりだった。文面だけでは、瀬島らが朝日を騙っているかもしれないのだから。
 数十秒後、ワンコールで通話ボタンを押す。
《なんだよ急に……。電話しろなんてさぁ》
「あんた朝日だよね。ほんっとうに、弟の朝日なんだよね?」
《しっかりしてくれよ姉ちゃん。かわいい弟の声を忘れたんかよ》
 文句たらたらの声が終わらぬうちに質問をかぶせる。
「今、なにしてんの?」
《さっきも言ったと思うけど》
「言ってない。メッセなら届いた」
 朝日は舌打ちにつづけた。
《産業道路沿いのリンガーハットで昼メシ食ってんだよ。わかった?》
「あんた、ひとりで?」
《いんや、部活のみんなといっしょだけど》
「そんなら、いいわ」
 一方的に通話を切る瞬間、わたしの目と意識は、目録の中ほどに釘付けになっていた。
【品目:日記帳  押収場所:長女自室 】
 もはや確かめずにはおれない。二階の自室へ駆け上がり、机の引出しから螺鈿が施された平箱を取り出す。パパが外国から買ってきてくれたものだ。かつて、この中に入っていた南洋真珠のネックレスは、形見分けとしてグランメにあげてしまった。代わりに入れたものがある。
 力が抜けていく。無かった。ビロード張りの底で眠りに就いていたはずの日記帳は、青臭い秘密を守ってきたキーといっしょに持ち去られていた。
 箱を閉じる。色あせたプリクラが貼ってあった。大阪のテーマパークへ行った時のものだ。わたしが右側、ママが左側に、当時まだ背の低かった朝日はママに抱っこされて、そして中央には、懐かしいパパの笑顔が咲いていた。
 わたしは、プリクラを貼ったケースを抱いたまま、床に仰向けになった。こうすれば涙がこぼれない。そう思ったからだけど、なんの意味もなかった。
 パパ、助けてってお願いしたじゃない──
 頬を、ぬめっとしたなにかが舐めていく。                    「ハチロー……。わたしを慰めてくれるの?」
 ただひたすらに、頬にこぼれた涙を拭き取るハチロー。犬ながら分別のある彼が階段を昇ってくることはまずない。
 もっと泣きなさい。気の済むまで──
 ビーグル犬の澄んだ瞳が、そう言っているような気がした。
 流した涙のぶんだけ、心の底にひそんでいたものが浮上してくる。
 わたしの不幸の元凶──╴パパを奪った瀬島。これは、あいつからの宣戦布告。あからさまな挑戦なんだ──
 わたしは心とともに起き上がった。売られた喧嘩に、拳を振り上げなかったことなんて一度もないのだから。
 ケータイを取り出し、電話に相手が出るなり低く告げる。
「もしもし良介。今すぐ迎えに来て。あなたに頼みたいことがあるの」



 ビーグル犬は、数ある犬種のなかでも、とりわけ体臭がきつい。
 わたしがハチローを連れて車に乗り込んでも、良介は「おや?」という表情を見せただけで、なにも言わなかった。だけど、今頃は後悔しているんだろうな。ハチローは後部座席で丸くなっているだけで、けっこう野性的な体臭を放ちつづけているんだから。
 良介に、
「艇庫に向かって」
 とだけ告げて口をつぐむ。会話を楽しむどころの気分ではない。考えなきゃならないことは山ほどある。とりわけ大きな疑問は、やっぱり、クスリがどこにあるか──
 牟田口とパパの関係から、瀬島がクスリにたどり着けてもよさそうなものだ。なのに、未だに探しているということは、よほど巧妙な場所に隠されていることになるけれど──
 わたしは何度かかぶりを振り、ちいさく「よし」と気合を入れた。すべては、艇庫に着いてから。先輩たちに顔がきく千鶴さんなら、なにかをつかんでいるんじゃないのかな。そう思うと、なんだか急にさっぱりした気分になってきた。
 いつのまにか車は、荒川の土手を走っていた。前も後ろも一本道。見た限りでは、尾行は貼りついていない。安堵のため息につづけて私は言った。
「ねえ、訊かないの?」
「なにを」
「ハチローを連れてきた理由」
「うん。深刻そうな顔してたから、きっとなにか理由があるんだろうとは思ってた」
「犬、車に乗せても平気なんだ」
「そんな、たいそうな車じゃないし」良介はひとしきり笑った。「それにハチローとは旧知の仲っていうか、まったくの初対面ていうわけでもないし」
 あっけらかんと答える良介。運転していなければ、臆面もなく抱きついていたかもしれない。ママと石戸が背を向けた今、瀬島の接近を敏感に嗅ぎ分けるハチローは、良介と同じくらい頼りになるやつなんだもの。
「この前告白したこと、本当に信じてる?」
「身体から自由に魂が抜け出せるって話のことかな」
「私、気が変になったと思わなかった?」
「べつに……。僕の胸ん中で、移植された心臓といっしょに、東子のパパが息づいているってのより、ずっと信じられるけどね」
「ならいいんだけど」
 良介は信じてくれている、それだけで十分だった。

 荒川の土手を降りて、国道との交差点にさしかかる。艇庫は目と鼻の先だ。
 もうすぐ千鶴さんに会える──
 期待が膨らみかけたその時、急に身体を内側から揺さぶる寒けに襲われた。ハチローも背中の毛を逆立てて警戒態勢に入っている。
 目の前は赤信号。良介の車の真うしろには軽トラック、そのうしろはタクシー、さらにそのうしろにはみ出したグレーのボディー。悪寒が走る。日赤病院をあとにしたあと、石戸がバックミラーの中にみつけたのはグレーのセダンじゃなかったか。
「真っ直ぐ行って」わたしは迷わなかった。
「なんでだよ。ここを曲がれば艇庫じゃないか」
「いいから、このまま行って!」
 良介は首をひねりながらも、リクエストに応じてくれた。
 案の定──ということにしておく。軽トラックとタクシーはそれぞれ右折、左折したけれど、グレーのセダンは距離をおいて土手下の道を直進して来る。風を入れるふりをして窓を開け、緩いカーブでうしろを振り向く。
 ダメだ。ほぼ真上に昇った太陽がフロントウィンドーに反射して、乗員の顔を確かめることができない。さらに直進すること数分、幸か不幸か渋滞につかまった。完全に車が停止するのを待って、もういちど振り返る。
 見えたのは、タバコ片手に鼻くそをほじるバーコード頭のオヤジ。乗っているのは、真夏には暑苦しい臙脂色の軽自動車。ハチローの視線も、今は宙をさまよっている。だけど、杞憂とはほど遠いのはわかっていた。警察の尾行は、対象に勘づかれないよう複数台の車両で行われる。こんなこと誰だって知っている。
 結局、オリンピックコースをぐるっとひと回りして艇庫にたどり着いた。
 艇庫の様子をうかがうより早く、水面の上から声がかかる。
「白倉、こっちだよ!」
 桟橋へと舳先を向けたクオドルプルのコックス席で、千鶴さんが大きく手を振っていた。すかさず桟橋へ駆け寄り手をさしのべてやると、千鶴さんが飛び移ってきた。
「サンキュー、白倉」私をハグして、白い手のひらを突き出した。「さっそくで申し訳ないんだけど、会計として部員ひとりにつき千円を徴収いたしまーす」
「なんですか、千円って」
「香典だよ。ニュースで知ってるよね、監督のこと」
「牟田口先生、自殺しちゃったんでしたね」
 わざとらしく肩を落としてみせる。すると千鶴さんは、
「事故なんだろ?」
 風評被害を恐れた大学側が箝口令をしいたのか、それとも瀬島の隠蔽工作か。いずれにせよ、千鶴さんを欺くことには成功している。
「……そう……でしたね。今回のは事故なんですよね」
 不本意ながら調子を合わせた私に、千鶴さんは不意打ちを食らわせてきた。
「『今回のは』って白倉、監督が昔、自殺未遂を起こしたことがあるって、知ってんのかい」
「え?」渡りに舟であることに、すぐには気づかなかった。「もしかしたら五年前のことでしょうか」
「それそれ」千鶴さんは、ポンと掌を叩いた手でわたしを指さした。「五年生と六年生なら、ボート部員じゃなくても、みんな知ってるよ。五年前の隅田川対校レガッタでさあ、監督は職員対抗のエキシビションレースに出場したんだけど……」
「ちょっ、ちょっと待ってください」
 私は両手で千鶴さんの語りに待ったをかけながら、ハチローを連れて近づいて来る良介に視線を投げた。彼の背後をグレーのセダンが横切っていった。
「その話、LINEで送ってもらっていいですか?」
「かまわないけど……、どうして?」
「私、もの覚えが悪いんでそのぉ、メモ代わりにしようかなあなんて」
 千鶴さんは、首から下げていたケータイをスワイプする。
「なにを調べてんのか知らないけど、気をつけなよ」
「やっぱり、ヤバイことなんでしょうか」
「べつにヤバイってほどでもないんだけど、ほら、最近は少子化で不景気だろ。私立の医学部なんて、志願者数がじり貧でしょうが。イメージ悪化を防ぐとかなんとかで、職員や学生の不祥事を口にするのは御法度になっていたってわけ。まあ、死んじゃったんだから、思い出話として語るには許されると思うんだけどね」
 親指を動かしはじめた千鶴さん。その日焼けせぬよう管理された脚に、ハチローがじゃれつきはじめた。
「あら、かわいいわねえ。良ちゃんちの犬?」
「わたしんちのです。そんなことより……」良介が口ごもっているすきに、私は性急に言った。「やっぱり良介のケータイに送ってください」
 尾行がついているくらいだ。盗聴されている可能性は分に考えられる。
「へえー、良ちゃんを呼び捨てにできるようになったんだぁ」千鶴さんはハチローの首を抱きしめながら、笑顔で見上げてきた。「で、なんで良ちゃんのケータイかなあ」
「電話は問題なく使えるんですけど、アプリの具合がちょっと悪くて……」
「わかった。で、すぐに送ればいいのかな」
 千鶴さんはディスプレィをこちらに向けた。わずかな時間だったけれど、すでに文面を完成させていたらしい。
「できたら三十分後くらいにしていただけると、とても有り難いんですけど」
「どうしてよ」
「ついさっきバッテリーが切れて、充電してたんだよね、そうだよね」
 良介に目配せする。
「そ、そう。申し訳ないんだけど……」
 出任せの片棒を担がせられた良介は、言葉尻を濁して背を向けた。
 わたしは、艇庫の中央に鎮座する新艇だけを見ていた。
「良介、お願い。なにも言わずに、これからダブルスカルに乗って。もちろん、わたしといっしょに」
「かまわないけど……。どうしてだよ。さっきから秘密が多すぎやしないか?」
「わかってる。だけど、ここでは話せないのよ。お願い、わたしの言う通りにして」
 しばらく押し黙ったまま見つめていた良介だったが、
「わかったよ。東子の好きにしたらいい」
 そう言ってうなずく良介の背後を、グレーのセダンがさっきとは逆方向へ駆け抜けていった。

 ダブルスカルを艇庫から引っ張りだすのに、大きな力は必要ない。わたしと良介だけで軽々と持ち上がる。問題なのは、トリコロールのユニフォームを乗せたエイトが、こちらへ近づきつつあることだ。距離にして、あと五百メートル。悪いことに、コックス席にはあの粘っこい性格の三木が座っているらしい。水面を渡ってくる「キャッチ!」の声が彼のものだった。
 ダブルスカルを水に浮かべる。どちらからともなく、私はハチローを抱き抱えてストローク(船尾)席へ、良介はバウ(船首)席へ乗り込んでいた。
 桟橋を離れ、水面にオールの先端を入れる。最初のひと漕ぎでわかった。
 この船、すごい──
 新艇にありがちな、ぎこちなさが全くない。全身の力のすべてが、まったくロスすることなくオールの先端へと伝わっていく。かなりグレードの高い、つまり高価な船なのだろう。どおりで、千鶴さんが文句たらたらになるわけだ。
 三木が舵を握るエイトがゴールラインを越えるより先に、ダブルスカルは処女航海へと旅立つことができた。水面の上なら、良介との会話を誰に聞かれることもない。舳先を西へ、競艇場の方へ向ける。国立艇庫の陰に、例のグレーのセダンが停まっていた。双眼鏡で唇を読まれるなんてことはないだろうけれど、クスリの射程距離が三百メートルだってことを考えたら、もっと離れたほうがよさそうだった。
「良介、ライトパドルいくよ、そぉれ!」
 ブレードで水面を垂直にキャッチして、全身が伸びきったところでフィニッシュ。ブレードを水面と平行に返し、ふたたびキャッチ。ただこれだけの繰り返しだけど、はじめてクルーを組んだ場合、タイミングが合わずにオール同士が衝突したり、転覆することも稀ではない。なのに良介は、完璧に合わせてきた。
「パドルいこう。さあいこう、そぉれっ!」
 身体が有酸素モードに切り替わるまでのウォーミングアップのつもりだったのに、わたしはピッチを最大限に上げていた。調子に乗っていたんじゃあない。ただ、ひたすらに嬉しかった。シングルスカルで漕ぐのより、何倍ものスピードが出ている。わたしたちの右舷、コースの南側をすれ違っていくエイトの船上から、三木の怒りと驚きに満ちた視線に見送られても動じることはない。
 もう、わかってしまった。私にとって、誰がいちばん大切な人なのか──
「ありがとう、イージー・オール」
 漕ぐのをやめても、かなりの惰性で艇は進みつづける。ほんの一汗かいただけなのに、競艇場の観戦スタンドが間近に迫っていた。
「気持ちいいね」わたしがバウ側へ振り向くと、良介は白い歯を見せた。
「まったくだ……。ところで、さっきから、ぶつぶつと『三百メートル』とか言っているけれど、近くにクスリの幽霊がいるってことなのかな」
「尾行されてんのよ、わたしたち」
「どこ?」良介は声をひそめた。
「迎えに来てもらってから、ずっと。見えるかな、グレーの車が。運動公園の向こう側……今、聖火台の陰になった」
 良介は、荒川の上からやってくる日差しを手のひらで遮った。
「見えた。グレーというよりシルバーだな」
「あの車に、クスリを持ったやつがいるのよ」
「マジかよ」
 わかっている彼が嬉しかった。けれど、そんな鷹揚な気持ちは禁物だ。千鶴さんがメールを送ってくるまで、あと十五分ほど。
 再び渋滞の最後尾についたセダンを睨めつける。
 メッセージの内容は、瀬島には絶対に見られたくない。だからこそ、こうしてわざわざ水面の上にいる。なのにあの車は、幽霊でひとっ飛びの距離を保ちながら、つかず離れず追いかけてくる。
「三百メートル、できれば五百以上、離れていると安心なんだけどな……」
 思わず漏れたつぶやきに、良介が即座に反応した。
「わかった。要は岸から三百メートル以上離れていりゃあいいんだろ?」
「そうだけど」 
 良介は親指で背後を指さした。
「笹目川の水門が開いている。あそこからなら、荒川の本流へ出られるんじゃないか?」
 競艇用レースコースの向こう、たしかに水門は開いている。
「でも、私たちのボートは入域禁止のはずよ」
 良介のオールが水面を叩く。
「心配することないよ。どうせ競艇の開催日じゃあないんだし。今なら、スタンドの前を突っ切っていけるんじゃないの」
「そ、そう……かなあ」
「わかったら、さっさと漕ぐ。ライトパドル用意、さあいくぞ!」
 たった今、イニシアチブは良介に移った。さっきとは別の意味で嬉しかった。頼られるより、頼っていたい。だって、私は女の子なのだから。



《自殺かどうかは怪しいけど、五年前、監督が行方不明になったのは事実。隅田川対校レガッタのエキシビションレースに出場した監督は、いつまで待ってもスタート地点に戻ってこなかった。関係者総出で捜したけど見つからない。そのうち、大井埠頭に無人のシングルスカルが流れ着き、警察や消防を巻き込んでの大騒ぎになった。なのに翌日、監督はお台場で元気な姿で発見され、関係各所から大目玉を食らったとさ、ちゃんちゃん》

《つまり自殺じゃなくて、事故として扱われたということですか?》

《わからない。だけど、たいしたお咎めなく若くして教授になれたんだから、そうだったんじゃないのかな》

 顔をくっつけるようにして文面をのぞきこむ良介に言った。       「お台場って陸つづきになってるよね。『発見された』って言い方、おかしくない?」
「そうだよなあ」良介は、宙を泳がせていた目をわたしに向けた。「朝の天気予報なんかで、レインボーブリッジといっしょに、ちいさな島が映ってないか? あれもお台場じゃなかったっけ」
「ちょっと待って」
 地図アプリを起動して、レインボーブリッジすを検索する。ほどなくして、画面を斜めに横切るレインボーブリッジが航空写真で表示された。
「本当だ。島になってる」表示された地名に目を走らせる。『第六台場』と読めた。「距離は……陸地から五百メートル以上は離れているみたいね」
 牟田口が最初に幽霊化したと思われる場所、第六台場。滅多に人が立ち入ることのない、周囲の陸地から隔絶された土地。首都東京にポッカリ空いた空白地帯。その特殊性こそが、瀬島が未だにクスリを発見できていない理由に思えてきた。穿った見方をするならば、牟田口がデータディスクの内容を読んで──ねちこい性格だろうから、きっと読んだはず──幽霊の射程距離やプロジェクトの性格をも承知していたとしたら──
 良介がわたしの顔をのぞきこむ。
「決まり……かな?」
「わからないけど、行くしかないよね」
 強くうなずくわたしの背後から、
「泥棒ーっ!」
 荒川の岸辺からの叫ぶ者がいた。
「父親が横領犯なら、娘は泥棒ってかー?」誰なのか、わかっていた。「新艇に、こ汚ねえ犬を乗せんじゃねーよ、バカァ」
「あいつは、無視しときゃいいよな」良介が鼻を鳴らす。
「だね」わたしもキッパリうなずく。
 三木は問題じゃない。わたしも良介も、土手の上をしつこく追走してくるグレーのセダンを睨みつけていた。
 良介がぽつりと言った。
「さっきのメッセージ、盗み見られてないよな」
「大丈夫だと思う。岸から十分に離れているんだもの」
「あっちが無理したら、見れたりして」
「クスリの幽霊は、肉体から三百メートル以上離れたら、死んじゃうんだって」
 良介は静かにうなずいてから、わたしを見据えた。
「どうする?」
「わたし、これから幽霊になってみるわ」
「東子ひとりで、お台場へ行くってのか?」
 わたしは、首を横に振った。
「わたしが囮になって、あいつらを何処かへ連れて行くわ。そのすきに、良介はお台場へ向かうの。わたしの意識が帰ってくるまで、身体のほうは頼んだわよ」
「ってことは、僕ひとりで漕いでいけってわけかい。東子の身体とハチローというでっかい荷物を乗せて」
「そうなるわね」
「軽く言ってくれるよな、まったく」良介はオールで川面を叩いた。「お台場っていったら、隅田川の河口だぜ。ここからだと、二十キロ以上はある」
「あーら、漕いでいく自信、ないの?」
「……やってやるよ。心臓も頑張っているみたいだし、っていうか、激しく動いてもぜんぜん平気だから」
「そう、よかった」
 わたしはオールを引き上げると、シートに前かがみになって目を閉じた。仰向けになったほうが身体の安定はいいはずだけど、そうしなかったのは良介のローイングを邪魔しないため。彼ならば、脱力しきったわたしの身体を、水中に落下させるようなヘマはこかないだろう。
 信じきった瞬間、わたしの意識は上空へと舞い上がっていた。
 隅田川河口へ向けて漕ぎはじめた良介の目の前を、さりげなく横切って見せる。だけど気づかない。見上げているのはハチローだけ。
(良介のこと、頼んだからね。悪い幽霊がやって来たら、教えてあげるんだよ)
 甲高い犬の返事を背に、土手沿いの道へ向かう。
 眼下に、グレーの車が停まっていた。赤い幽霊の姿は見えない──と思ったのも束の間、鈍色に輝く車の天井から、赤い糸くずのような塊がしみだしてきた。こっちを見ている、と思った。
 良介が向かうべき隅田川とは逆に、荒川の上流を目指す。とりあえずは、グランメの店がある川越へ向かおう。できる限りゆっくりと、そして尾行に気づかないふりをして。
 追跡者が見失わないよう、太い道路の上を選んで飛んで行く。時折、方向を変えるふりをして背後をたしかめる。案の定、赤い糸くずは一定の距離を置いてついてくる。ご丁寧にも、眼下に広がる町並みに隠れるようにして。

 わたしのミスリードは、荒川の川面が金色に輝くまでつづいた。
 六時を指し示す川越工業高校の時計台を背に、わたしははじめて、あからさまに振り返ってみた。喜多院の近くの路上にグレーのセダンを見つけたわたしは、ほくそ笑みながら目を閉じた。
 肉体を意識する。
 一瞬、というわけにはいかなかった。やっぱり戻るべき肉体との距離があるせいなんだろうな。最初に体外離脱したときのような暗いトンネルの先に光が現れる。その中央に見えたのは、激しく尾を振るハチローだった。
「ここ、どの辺りなの?」
 起き上がりざまに、オールをつかむ。
「たった今、永代橋を過ぎたばかりだ」
 もはや隅田川の河口と言ってもいいくらいだ。
「早かったね」わたしは、蹴り脚に力を込めて言った。
「これからは、もっと早いさ。なんたって、東子が漕いでくれるんだから」
 そう言われて力が入らないわけはない。夫唱婦随なんて柄にもない言葉が浮かび、ひとり顔を赤らめる。でも、なんだか嬉しいというのが本音だった。
 ふたりっきり──ハチローもいるけど──のサンセット・クルージング。週末のせいか、観光船が頻繁に通りすぎていく。そのデッキにたたずむカップルから、好奇の視線を浴びせられても平気、むしろグッと胸を張りたい気分だった。
 やるだけやった。もちろん失ったものも大きい。だけど良介がいる。彼と生きる人生は、これまでに失くしたものを帳消しにしてくれるどころか、何倍もの利息をつけて返してくれる──根拠はまったくないのだけれど、そんな気がしていた。
 川の両岸には、これまでに見たこともない光景がわたしを出迎えてくれた。複雑に絡み合った工場のパイプさえ美しく思えるのは、良介がいっしょにいればこそなんだろう。この世界のすべてがわたしを祝福している、そんなファンタジーに酔いしれるわたしに、良介が現実を突きつけた。
「レインボーブリッジを過ぎたから、もうそろそろだ」
 頭上の吊り橋を照らす光を受けて、石垣に守られた第六台場が黒々とした姿で浮かんでいた。
 良介は、わたし以上に慎重だった。台場を前にして停泊し、あたりに目を凝らしている。
「もしかしたら、瀬島に泳がされているのかもしれない」
 わたしは、一笑に付すだけの理由があった。
「大丈夫だよ。ハチローは眠ったままだもの」
 それでも納得しない良介に、現在地のマップを表示させたケータイを突きつける。
「ほら、第六台場にいちばん近いお台場公園からでも、縮尺で四百メートル以上は離れているんだから」
 良介はようやく納得したらしく、オールを握りなおした。
 海面へ降りる階段がつけられている辺りは、こぢんまりとした浜辺のよう。そこに降り立った良介に、まだ艇に残っていたわたしが“もやい綱”を渡そうとしたその時、艇体の空洞に身体を丸めていたハチローが飛び出してきた。良介の横を駆け抜け、台場に繁る灌木の中へと消えていく。同時に、ここをねぐらにしていた水鳥たちが、一斉に飛び立っていった。
「待って、ハチロー」
 水鳥が残した糞の臭気だろうか。生臭さを堪えながら、台場の闇に分け入っていく。すると、見当違いの方向から「ウオン」と聞こえた。
 声を頼りに藪をかき分ける。台場を守っている石垣の際で、船の科学館からの明りにビーグル犬の目が輝いていた。わたしが近づくと、ハチローの尾の振りは千切れんばかりになり、さらに激しく吠えたてる。
 ここ掘れワンワン──
 そんな意味に受け取れた。
 わたしと良介は、ハチローに顔を舐められる経費を支払いながら、ためらうことなく素手でお台場を掘りはじめた。柔らかい土を退けてしまうのは造作もない。すぐに指先が何かに触れた。良介もわたしと同じ感触を得てつかんだものを「せーの」で、抜き出す。
 幾重にもビニール袋で覆われたそれは、わたしたちが期待したとおりの形状と数だった。箱に彫られた柄はアジサイとボタン。
 パパを知らないハチローが、まっしぐらに木箱にたどり着いたのは何故?──
 箱を見つけ出した喜びも束の間、胸の内をよぎる素朴な疑問は、ハチローの咆哮によってかき消された。低い唸り声は、わたしたちから見て斜め上方、ゆりかもめの鉄橋へ向けられている。距離にして百メートルはない。その、ほぼ中ほどに、拡声器を構えるシルエットがうごめいていた。
《白倉東子、窃盗の疑いで訊きたいことがある。わたしが行くまで、その場を動くな》
 ひび割れてはいたが、声は間違いなく瀬島だった。力の限り、濡れ衣に反論する。
「わたしが、いつ盗みをしたっていうの?」
《被害届が出ている。本日午後三時過ぎ。場所は埼玉県戸田市だ。おまえは無断で、新型の競技艇を盗み出した。違うか?》
「そんな……」
 鉄橋の上でほくそ笑んでいるだろう瀬島の顔に三木の顔が重なって、憎しみが何倍にもなっていく。
「東子、どうするよ、これ」
 良介の右手には虹色に輝くデータディスク、左手にはアンプルの束が握られている。
「壊して、そんなものがあるから、わたしたちは不幸になるの」
「わかった。じゃあ遠慮なく……」
 良介が、足元に転がる岩を持ち上げたその時、闇に響いた銃声に、それまで闖入者の来訪に耐えていた水鳥が飛び立っていった。
 一瞬、バランスを崩しただけのように思えたけれど、良介は仰向けに倒れたっきり動かない。
「良介、良介ってば……」
 駆け寄ったわたしは、ただただ良介の肩を揺さぶりつづけた。挙げ句、動かない身体の傍らにへたり込み、そして叫ぶ。
「嫌ーっ!」


 ハチローが顔を舐めていた。
 うるさいくらいに舐めていた。
 だけど、追っ払う覇気は残されていない。
「じっとしていろよ、白倉東子。おまえには、訊きたいことが山ほどあるんだ」
 声だけで誰がやって来たのかはわかっている。レインボーブリッジを背にしたシルエットは拳銃を構えていた。でも、そんなことに興味は無かった。撃ちたければ撃てばいい、とさえ思いつかなかった。
 瀬島は、笑いを交えて言った。
「グレーの車が、お前らを尾行していただろう。あれは、わざと見つかるように走らせた囮だ。わたしがマークしていたのは、おまえの身体の方だ。ミスリードしているつもりが、逆にミスリードされていたわけだ」
 勝ち誇る瀬島の声は、都会の騒音に同じ。
 大切なのは良介。
 わたしには良介が必要だった。
 至近に横たわる良介。投げ出された左手の先には、彼が破壊し損ねたアンプルが転がり、右手にはパパの研究成果を無かったことにするための岩が握られていた。
「こんなものがあるから。こんなものが!」
 わたしは、良介の指から岩をもぎ取り、アンプルを目掛けて大上段に振りかざす。
「やめろーっ!」
 銃声で目が覚めた。刹那、何者かに背中を突き飛ばされる。
 弾丸に貫かれたはずだった。なのに痛みは微塵もなく、かわりに顔面には鉄錆臭い飛沫がまとわりついていた。
 血──
 目の前にハチローが倒れていた。銃弾に穿たれた腹部が上下するたびに、泡まじりの血液が口から吐き出されていく。
 瀬島は銃口をわたしに向けたまま、ハチローの身体を回り込むようにして良介に近づき、
「苦労させやがって。このディスクさえあれば、クスリはいくらでも作れる」
 足元から拾い上げたディスクを閃かせた。瀬島の手の中で、拳銃の禍々しいパーツがゆっくりと引き起こされていく。
 恐怖に耐えきれず、目を瞑った瞬間、
「このっ、クソ犬!」
 瀕死のハチローが、瀬島の手首に食らいついていた。激しく振り回されるたびに、腹部の銃創からボタボタと音を立てて彼の命が流れ落ちていった。
「やめて。もう充分でしょ?!」
 わたしは、瀬島の腕にしがみついていた。
 怖かった。だけど自分が死ぬことに対してではない。パパと入れ代わるようにしてやってきたハチロー。良介が送り込んでくれたハチロー。彼は、パパに負けるとも劣らない最愛の家族のひとり。その命が失われることが、怖かったんだ。
 ハチローの目は、もうなにも見てはいなかった。それでも瀬島に食い込ませた牙を離さない。ハチローの最期の力を借りたわたしは、拳銃をもぎ取れないまでも、銃口をそらすことには成功していた。
 乾いた銃声が闇をつんざく。
「畜生!」
 地面に転げ回る瀬島が、わたしの目にはバーチャルな映像のように映っていた。だけど彼の太股を撃ち抜いた黒い現実が、わたしの両手で射撃の余韻をたなびかせている。
 次の瞬間、わたしは唸り声とともに、瀬島から奪った拳銃を暗い海へと投げ捨てていた。
「許さんぞ、てめえ」
 瀬島が立ち上がる。彼を縛っていたハチローは、足跡だらけの土の上で断末魔の呼吸をつづけている。
 恐怖は現実になった。
 足を引きずりながら、迫り来る瀬島。へたりこんでしまったわたしは、かぎ型に曲げられた瀬島の指を、喉元に受け入れてしまった。
「お遊びはやめだ。今すぐ、絞め殺してやる」
 ほんの数秒で、息苦しさは無くなった。まるで体外離脱する時のように全身の感覚が失せいてく。
 遠ざかっていく意識のなかに、瀬島ではない男の怒声が飛びこんできた。
「東子、おい東子!」
 薄く開いた視界は、瀬島を羽交い締めにする良介を捉えている。
「良介……あなたまで天国に行っちゃったの?」
「なにを寝ぼけたことを言っている。僕は生きている。さっきは石垣に頭をぶつけただけ。気を失っていただけなんだよ!」
 と言われても、まだ現実との境界が曖昧だった。
「ぼーっとしてんな、やることがあるだろう?!」
 次第に焦点が定まっていく。その中心に見えていたのは、瀕死のハチローの周囲に散らばるアンプルのきらめきだった。
「ハチローの命を無駄にすんな」
 ようやく理解した。だけど、腰が砕けて四つんばいになってしまう。それでも、なんとかハチローの傍らにたどり着き、虚ろに開かれた瞳に「ありがとう」と告げる。彼が旅立ってしまう前に、抱きしめてやりたかった。そのためには、一刻も早くアンプルを砕いてしまわなければならない。わたしの両手は、岩を頭上高く持ち上げた。
「させるか!」
 瀬島は身をよじって、良介の呪縛から逃れようとする。だけど太股の銃創への膝蹴り、たった一発でおとなしくなった。悪人の悲鳴に被せて、良介が叫ぶ。
「そこじゃあダメだ。こいつの目に届かないところで始末しろ」
 うなずき、ディスクとアンプルを拾い上げる。すると、
「いいか東子、捨てるんじゃないぞ。徹底的に破壊するんだ」と良介が付け加えた。
 やっぱり、四つんばいでしか移動できない。
 ハチロー、良介、ママ、朝日、石戸さん、そしてパパ。わたしが頑張らなくっちゃ、みんなの頑張りが無駄になっちゃう──
 良介のうめき声が追いかけてきた。
 振り向くと、一本背負いを決められた良介の腹部に、瀬島の拳がめり込んでいる。海老のように身体を折り曲げたきり、良介は動きを停めた。
「白倉東子、逃がしはせん!」
 足を引きずりながらも、瀬島はわたしの跡を追って来た。が、すぐにバランスを失い、頭からのめる。ズボンの裾を、良介がつかんでいた。
「……逃げろ東子。早く」
 瀬島と良介がせめぎ合う気配が遠ざかるにつれ、徐々に脚に力が入っていく。灌木をかき分け、ツルをぶった切り、枯れ枝を踏み折る。強い潮風が頬をなめていくそこはもう、湾口に向いた台場の端だった。
 アンプルは全部で三十本ほど。そのすべてを石垣の上に並べ、ひとつひとつ、石ですり潰すようにして破壊していく。残るはデータディスクだけ。折り曲げ、踏みつける。だけど、良介が望むように、女の力で完膚無きまでに破壊するなんてできやしない。
 しかたなく、半分に折り曲げたディスクを、なるべく遠くへ放ってやる。
 赤い色が、視界の端をよぎった。
 幽霊化した瀬島だ。ディスクが沈んだ付近の海面に漂っていたかと思うと、周囲をぐるりと見渡し、ついには、わたしに視線を固定した。
 意識の中心に、気味の悪い声が響く。
(ほう、幽霊にならなくても、わたしが見えるのか)
「おかげさまでね。だけど、もう遅いわ」
(そうでもないさ……。クスリを持ってきておいてよかったよ。最後の一本だったが、おかげで、どの辺りにディスクが沈んだか、この目で確かめることができた)
「見つかるもんですか」わたしは、胸と顎を反らした。「仮に見つかったとしても、折り曲げて踏んづけてやったわ」
 赤い光のなかに、不敵な笑みが浮かぶ。
(警察の力をなめんなよ。ディスクの一枚くらい、探し出すのは造作のないことだ。たとえ折り曲げてあったとしても、データの復元は可能……)
 瀬島の意識に異変が起こった。まるで窒息したかのように胸元を掻きむしり、赤い色を激しく明滅させはじめた。苦悶に歪む唇が、憎々しげに吐き出す。
(おまえら、わたしになにをした?!)
 なにもしてはいない。したとすれば、良介だ。
 瀬島の意識の姿は、徐々に淡くなっていく。船の科学館が透けて見えた、かと思うとシャボン玉がはじけるように、淡い精神の姿が闇に溶け込んでいった。
 予感があった。
 ICUに漂っていた牟田口の魂と同じことが今、瀬島の身の上に起こったんだって。
 瀬島が霧消した海面に背を向ける。
 良介の姿はなかった。そこに転がっていなければならない瀬島の脱け殻も
 灌木の隙間に、良介のうしろ姿があった。背後から近づいていく。
「良介……。終わったのね」
「そうだな」
 良介の指が、まっすぐ隅田川の上流に向かってさし上げられた。竹芝埠頭の明りを映す水面を、エンジン付きのゴムボートが波を蹴立てていた。
「瀬島が乗ってきたものらしい」良介は言った。「乗っているのは、あいつの肉体だけ。魂の抜けた瀬島の死体さ」
「どうなってるの?」
 良介は、わたしに向き直ると、肩に手を置いて顔をのぞきこんできた。
「クスリの幽霊は、肉体から三百メートル以上離れると、元に戻れなくなる。つまり死んでしまうって言ったの、東子じゃなかったっけ」
「そう……だった」
「半信半疑だったけど、試して良かったよ」
 屈託なく笑う良介に、すぐには同調できなかった。瀬島たちはクスリを使い切ったはず。だけど、敵が何人いるかはわからないまでも、警察権力に深く食い込んでいる。わたしは上流へと去りつつあるボートを見つめた。
「大丈夫かな、わたしたち。あいつらの仲間が来やしないかな」
「怖いことなんかないさ。この世にはもう、幽霊のクスリは存在しない。そうなんだ  ろ?」
 わたしは強くうなずき、良介の胸に顔をうずめた。互いの唇が距離をなくすまで、そんなに時間はかからない。だけど、すんでのところで、わたしは良介の胸板を押し退けてしまった。
「ちょっと待って」
「ゴメン、そんなつもりじゃあ……」
「違うの。良介のことは好きよ。だけど、その前にやらなきゃならないことがあるの」
 そう言って、わたしは踵を返した。

 ハチローは、辛うじて息をつないでいた。
 そっと抱きしめ、頭をなでてやる。
「ゴメンねハチロー。わたしのために、ゴメンね……」
 嗚咽するたびに、ハチローを抱きしめる手が涙に濡れていく。その熱い滴を、この世の名残であるかのように、ハチローの舌が舐めとっていった。
 ちいさな身体に痙攣が走る。
 最期の呼吸を終え、ハチローは逝った。
 抱きしめた。力の限り抱きしめた。わたしを守りきった躯が、淡い光に包まれていく。
 目の錯覚──
 ではなかった。ハチローの躯から、光り輝く思念が浮かびあがる。仔犬だった頃の姿だ。そう、良介に命を拾われた時の姿に。まるで恩返しをするかのように、ハチローの思念は、良介の身体にまとわりつく。だけど良介には見えないらしく、ただ所在無くたたずんでいるだけだった。
 ハチローの思念が形を変えていく。
 人間の姿になったそれは、良介の胸に吸い込まれていった。
「東子」
 良介の口が紡いだ声に、懐かしい響きがあった。
「パパなのね」
 疑いようがない。良介の中にあるパパは、こくりとうなずいた。
「わたしがやれなかったことを、すべてやってくれたみたいだね」
「そんなの、そんなのどうでもいいよ。会いたかった、会いたかったんだよ」
 わたしは、パパの胸板に腕を回して、熱く湿った吐息を吐き出した。
 パパの腕が肩に回る。
「ああ東子、パパの夢が叶ったよ。一度でいい、大人になった東子を、こうして抱きしめてやりたかった」
 言葉にならない。
 パパの腕。
 パパの吐息。
 そして、パパの温もり。
 いつも傍にあったすべてに、わたしは甘えた。
 どれだけ時が経っただろう。ふと、わたしだけがパパを独り占めはしてはいけない、そんな気がした。
「朝日も抱きしめてやって。ママもね。グランメだって喜ぶよ」
 見上げるわたしを、悲しげな眼差しが待っていた。
「すまない東子、わたしは行かなくちゃならない」
「どうして? いつまでも、良介の胸の中で生きていてよ!」
 パパはゆっくりと首を横に振った。
「できれば、そうしていたい。家族を守って生きていたい。ただそれだけが、わたしの願いだった。そんな強い感情が、ビーグル犬の身体に生まれ変わらせてくれたんだと思う」
「良介の身体を借りたのも?」
「そう……。おかげで、東子を守ることができた。川越のおばあちゃんを慰めることもね。だけど奇跡ってのは、そう滅多に起こるもんじゃない……そうは思わないかい?」
「じゃあ、もっと強くわたしやママを思いつづけてよ。わたしたちといっしょに生きていたいって」
「東子……」パパは、わたしの顔をやさしく遠ざけた。「わたしにはわかるんだ。ハチローの命は終わった。良介くんにあげた心臓を足掛かりにすることも、もはや叶わないだろう。ハチローという依代を失った魂は、この世に永くはとどまれないんだよ」
「ダメ、行かないで!」
「東子、良介くんとしあわせに。いつまでも、きみたちを見守っている」
 パパの腕が力なく垂れ下がる。崩れ落ちそうな身体を、わたしは強く抱きしめた。
「傍にいてよ、ねえ、傍に……。わたしたちに寄り添っていてよ、お願いだから……」
 顔をうずめた胸板から、力強い鼓動が聞こえた。
 わたしの肩に、力強い手のひらが添えられる。その温もりはもう、パパじゃあなかった。
 良介は空を見上げていた。
 わたしも見上げる。
 漆黒の空へと遠ざかりながらパパが微笑んでいた。両腕にハチローをしっかりと抱きしめて。
(東子……パパは、約束を守れたかのかな)
「そんなこと……。そんなこと、もうわかってるじゃない」
 パパの姿は、もう見えない。
 わたしは涙を振り払って、夜空に声を張り上げた。
「ありがとうパパ。わたしのパパは、世界で最高のパパよ」

#創作大賞2023

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