ゴースト・リンク⑤

○ 第五章  犠牲者たち

 両親の馴れ初めがどんなだったか、誰だって少しくらいは興味があると思います。だけどママに尋ねても、笑ってごまかされていました。それほどパパとママは、自分たちの出会いについては口をつぐむことが多かったんです。
 ある日ママは、祭壇の遺影に向かって問いかけていました。
「出会った時のあなたは、赤い色をしていなかった」
 ドアの陰で聞き耳を立ててたわたしには、ぜんぜん意味がわかりませんでした。
「私と出会わなかったら、あなたは……」
 たぶん泣いていたんだと思います、ママのうしろ姿しか見えませんでしたけど。もしも出会わなかったら、ふたりにはどんな人生が訪れていたというのでしょう。ママに聞いてみたい気もしました。だけど、いまだに実現していません。だってママは、わたしや朝日の前では、決して涙を見せない人なんですから。


 赤く染まった水槽を目にした瞬間、よくない感情たちがいっぺんに押し寄せてきた。
 ベッドに横たわる麻里絵。右手にはカミソリが、そして、ざっくりと刻まれた左手は熱帯魚の水槽──普段は出窓に据えられていたはず──へ。何度かためらったのだろう、複数の傷痕が痛々しい。だけど熱帯魚たちは、水草のあいだをしきりに動き回っている。まだ間に合うかもしれない。
(麻里絵、しっかり。目を開けて!)
 親友の意識に問いかけても、瞳を覆うシャッターは反応しない。思わず繰り出した手のひらは、なんの手応えもなく突き抜けてしまう、まさにその時だった。
 麻里絵の身体から、ぼんやりと光り輝くものが浮かび上がる。肉体とそっくりそのままの姿をしたそれが、彼女の意識なんだって、すぐにわかった。もう一度、彼女の意識に呼びかけを試みる。
(麻里絵、あなたはまだ生きているの。楽しいこと、これからいっぱいやろうって、わたしと約束したよね?)
 聞き届けたのか、淡く輝く麻里絵の意識は元の鞘へと落ち込んでいく。だけど、ちいさな胸が呼吸を刻むごとに、意識の輪郭が浮き沈みしている。安堵するにはほど遠いようだ。
 背後から水音が聞こえる。水槽があふれていた。酸欠に苦しむ熱帯魚が水面に鼻を上げるたびに、血液混りの水が床にあふれ出している。カーペットを濡らす水量が、そのまま失血量なんだ。多く見積もって一リットルほど。
 事態は一刻を争う。人間はどれくらいの血液を失ったら絶命するのか、組織学の講義で習ったばかり。もはや、幽霊の状態でここにいる意味がない。
 急いで戻らなきゃ──
 石戸に言われたとおり、軽自動車に横たわる肉体を意識する。
 一瞬だった。スイッチを入れたように目を開く。
「麻里絵がリスカを、手首を切って!」のぞき込むママの襟首にしがみつく。「麻里絵ママに知らせなきゃ。放っておいたら麻里絵が死んじゃう!」
「おいで、東子」
 言うが早いか、ママは運転席のドアを開けて歩きはじめる。彼女に追いついたのは、呼び鈴が押し込まれたあとだった。すぐに、西日のなかに麻里絵ママと家政婦さんが怪訝な顔を突き出す。わたしにつづいてママの来訪。不審に思われないほうがどうかしている。
「すいません、突然。東子のケータイに、麻里絵ちゃんから自殺を仄めかすメールが届いたので、心配になって」
 ママは、一世一代の大嘘をズバリと告げた。私も、
「そ、そうなんです。今すぐ麻里絵の様子を確かめたくって、急いで戻ってきたんです」
 小芝居の脇役を買って出ていた。
 色を失った麻里絵ママは、ちいさな悲鳴ともに家政婦さんに振り向いた。
「ヤエさん、非常用のマスターキーって、どこ?!」
「だ、だ、だ、旦那様の、しょ、しょ、書斎に……」
 慌ただしい足音。悲鳴。救急車を呼ぶ「もしもし!」の声──緊張が切れた。覇気も途切れた。操り手を失ったマリオネットのように三和土にへたりこんだ私を置き去りにして、ママは他人の家に上がり込んでいった。彼女はナースとして成すべきことを実行するつもりなんだ、と虚ろな頭のなかでは思いつく。だけど、手伝おうという気力は盛り上がってこない。
 それから何分か経過したはずだ。
 指を血に染めたママが戻ってくる。疲れた目でわたしを見つめると、傍らにしゃがみこみ、そっと肩を抱いてくれた。
「応急処置はしておいた。もう派手な出血はないわ。あとは救急隊に任せよう、ね?」
 サイレンの音が近づいてくる。ここから消防署は近い。救急車は三分もかからずにやって来るはず。そのわずかなあいだに、わたしの内面は“麻里絵は助かる”から“助かってほしい”へと変化していた。
 背後で誰かが咳払いをした。振り返れば、門扉の外から石戸が手招きをしている。私がよろめく足で近づけば、彼は上空を指さして耳打ちした。
「この家の上に、赤い幽霊が飛び回っている」
 秩父の山に沈みゆく夕陽に、夏の雲がが金色に染まっているだけだ。
「見えないわ」
「今、きみは幽霊じゃないからね」 
「ママには見えるの?」
 彼女もさりげなく上空を仰ぎ、そしてゆっくりと首を縦に振った。
「東子にも、そのうち見えるようになるわ」
 石戸は声をひそめた。
「東子ちゃんに、もう一度、幽霊になってくれないか」
「どうして?」
「悪霊を追っかけるんだ」石戸の目が上空へ動き、すぐに戻ってきた。「あいつが達男君のクスリを使っているなら、幽霊化していられる時間は長くてせいぜい三十分。だから、赤い幽霊は、もうすぐ肉体に戻っていく」
「悪霊の住処をつきとめるのね」
「いい子だ」バナナの房のような指が、わたしの頭に覆い被さった。
 助手席に乗り込んだ私は、さっきと同じようにリクライニングさせた助手席に横たわる。
 目をつぶり、ゆったりと息を吐き出した瞬間から、肉体と意識のあいだに“すきま”のようなものを感じた。意識の身体をねじってみる。
 今度はあっけなかった。意識が起き上がる感覚があった次の刹那にはもう、意識は軽自動車の傍らに立っていた。
「もう、悪霊が見えるだろう?」
 ウィンドー越しに石戸に促され、欅並木の隙間を見上げる。赤くぼやけた霊体の輪郭が、二階の出窓から出入りしている。
「あいつは、まもなくここを離れる。クスリで幽霊化した思念は、肉体から遠くへは行けないんだ。せいぜい数百メートルってところだな。わかったら、返事の言葉を心で念じてごらん」
(もし、それ以上、離れたら?)
「死んでしまうだろうね。肉体と精神は、ふたつでひとつなんだ。どちらが欠けても、生きてはいけない」
(わたしの役目は、悪霊の尾行なんですよね)
 うなずく石戸の視線は、ストレッチャーに乗せられて運び出されていく麻里絵に注がれていた。すかさず赤い霊がつきまとう。しばらくは、走り去っていく救急車にまとわりついていたけれど、二つ目の交差点で上空へと舞い上がりはじめる。向かった先は──この前と同じように氷川参道に沿って南へ。
「気をつけたまえ。東子ちゃんに悪霊が見えるってことは、あいつからもきみが見えるってことなんだ。危ないと思ったら、すぐに……」
(わかってます。自分の肉体を意識する、ですね)
「もし、赤い幽霊が話しかけてきた場合は」
(いっさい口をきいちゃいけない)
「いい子だ」
 石戸の満足げな笑みを置き去りにして、わたしは頭上高くを通過する悪霊のあとを追った。荒川の川幅ほども距離が離れていたけれど、見失うことはない。それほど、赤い糸くずのような異物は夏の夕景にふさわしくない。
 午後六時のさいたま新都心──電話会社ののっぽビル、ヨーカドー、ショッピングモール、そして卵形の屋根が特徴のさいたまスーパーアリーナが夕陽を浴びて金色に輝いている。
 それがいけなかった。
 数十メートルほど先を飛んでいたはずの赤い糸くずが、豆粒ほどの見た目になっている。夕景に見とれている間に距離が開いていた。
 ぼやけていたはずの悪霊の輪郭が人の形になっている。徐々に実体感を増していくそれは、新都心のなかでも、ずば抜けて背の高いマンションへと向かい、金色に照り映える壁のなかへと消える。
 わたしは、追うのをやめた。
 至近ならば、悪霊の表情を見届けられただろうに──
 そんな後悔は、ほどなくして安堵に変わる。石戸の忠告を忘れてはいなかった。
 麻里絵の家の上空で味わった悪霊につかまれるおぞましい感触──体温のすべてを奪い取っていくような感触から得た教訓は、幽霊が触れられるものは幽霊だけだということ。だから、輪郭が明瞭になった悪霊に接近することは、それだけ危険が増すであろうを予感させた。
 体外離脱を命じた石戸への憤りを覚える。と同時に疑問がよぎった。
 こんなことは、ママのほうが幽霊初心者のわたしより適任なのに──


 肉体に戻る。
 横殴りの西日のなか、こじあけた視界に巨大な鳩のマークが飛び込んでくる。ママの軽自動車はヨーカドーの屋上に停まっていた。てっきり氷川参道の帰宅渋滞にはまっているとばかり思っていたのに。
 車内にママの姿はなく、ステアリングを握っていたのは石戸だった。
「どうして石戸さんが運転を?」
「わたしだって、運転免許くらい持ってるよ」
「じゃなくて、ママはどこ?」
 答えるかわりに石戸は、歩行者専用の跨線橋を小走りで渡っていくスレンダーなうしろ姿を指さした。
「美由紀さんのケータイに、病院から緊急の呼び出しがあったのだよ」
「そんな、なにもこんな時に駆けつけなくても……。どうかしてるよ」
 わたしの憤懣をよそに、石戸は静かに告げた。
「このあたりで、高度な救命処置ができる病院といったら?」
 わかってしまった。救命救急の現場に人手はいくらあっても足りない。ママが緊急の呼び出しを食らった理由は、瀕死の麻里絵が運び込まれたからに違いない。
「ところで、悪霊の居場所はつきとめたかい?」
 石戸の問いには、あいまいに首をふってみせた。
「だいたいはつきとめたけど」スーパーアリーナの背後にそびえる高層マンションを指さす。「どの部屋かまでは、わからなかった」
「そうかい……。では、さっそくで申し訳ないが、いま一度、幽霊になってもらおうか」石戸は腕時計に目を落として言った。「これからの数時間がチャンスなんでね」
「チャンス?」
「そうとも。さっきも言ったと思うが、クスリで幽霊化していられる時間はせいぜい三十分。そして、思念が戻ったあと、しばらく肉体は昏々と眠りつづけるんだ。なにせ『幽霊のクスリ』は、優秀な麻酔薬でもあるのだからね」
 そう言って、石戸は口元から趣味の悪い金歯をのぞかせた。
「あのね、石戸さん」わたしは唇を突き出した。「幽霊になってスパイする役目、わたしじゃあなくて、経験のあるママのほうが適任なんじゃないんですか?」
「ママは無理だよ。これ以上、ぜん息がひどくなったら命にかかわる……。ときに東子ちゃん、体外離脱したあと、身体に変化はなかったのかな」
「別に」
「五感が鋭くなったとか。周囲が眩しく見えたり、物音がやけに耳障りだって思ったことないかい?」
「そういえば……」
 附属病院で目を覚ました時がそうだった。窓の外は曇天だったはずなのに、やけに空が眩しく見えた。神宮の森も、目に焼きつかんばかりの濃い緑色をしていた。
「体外離脱の副作用ってやつだ。思念が肉体に戻るたびに、身体じゅうの感覚が鋭くなる。もちろん、そんなのは致命的とは言えないが、厄介なのは、健常な人間ならなんでもない化学物質にも過敏に反応するようになることなんだな。美由紀さんの場合はハウスダストなのだが」
「そんなことが原因でママはぜん息に?」
 石戸はきっぱりとうなずいた。
「アレルギー体質は、体外離脱できる人に共通の現象なんだ。接触性皮膚炎、花粉症、アトピー性皮膚炎……アレルギーの出方も様々だが、なかでもぜん息は厄介だ。なんたって年間で一万人ほどの犠牲者を出している死の病なのだからね」
 ママが過酷な救急フロアを職場に選んだ理由が、すこしだけわかった気がする。常時マスクとグローブを着用し、フロアに出入りするには、靴底にいたるまで厳重なクリーンナップを要求される職場こそが、ママにとっては好ましい居場所なんだって。

 シートをリクライニングさせる。
 目をつぶって数秒。自分でも驚くほど簡単に幽体離脱できた。しばらくは駐車場に停めた車を上空から見下ろしていたのだけれど、覚悟を決めて飛び去る。あとを追うようにして石戸の声が響いた。耳にではない。意識に直接問いかける声だ。
(この駐車場は九時半には閉鎖になってしまうらしい。どんなに遅くとも、それまでには帰っておいでよ)
(石戸さんこそ、わたしの身体にいたずらしないでくださいよ)
 ひとしきりの笑い声さえもが、わたしの意識に響くのが不思議でしかたなかった。



 巨大なマンションの姿を前にして、わたしは途方に暮れていた。
 ざっと見、ドアの数からみて百戸近くはあるだろうか。そのひとつひとつに侵入し、昏々と眠る悪霊の本体を見つけ出し、あわよくば幽霊のクスリを発見するのが私に与えられた使命。石戸は、
「少なくとも三時間は眠りから覚めないだろう」
 と言っていたけど、わたしにとっては気休めでしかなかった。トランプの手札の何倍もある部屋数。その最後の一枚にジョーカーが仕組まれていたら、わたしに与えられた三時間は保険にはならないんだ。
(でも、やるっきゃない、か……)
 萎えかけた気分に鞭打って、まずは最上階の廊下に降り立つ。ドアの数は四つ。
(おじゃましまーす)
 と一応はことわって、まず目の前にあるドアをすり抜ける。
 ゆったりとした4LDKには、ありふれた家族の団欒があった。キッチンでは、主婦らしき女性が、鼻唄を歌いながらパスタの茹で具合を確かめていた。きれいな人。二十代後半といったところか。
 居間に目を転じる。十畳はあるだろうか。コの字型に配置されたソファ。その中央では、子供がつけっぱなしのアニメを前にして眠り込んでいる。
 寝室に家の主がいないことを確かめ、お隣さんとを隔てる壁へめり込んでいった。
 次の家庭も、似たような感じを受けた。ダイニングテーブルを挟んで向かい合う三十台前半と思われる夫婦。
 子供がいない。かわりにカウチンソファを陣取っていたチワワが二匹、ちいさな耳をピンと立てて、壁からしみだしてきた私を、転がり落ちそうな瞳でにらみつけている。念のためベッドルームをのぞき込んだ瞬間、二匹は轟然と吠えだした。
 その必要もなかったのだけど、戸外へ逃げ出していた。あらためてマンションの全容を眺める。あることに気づいた。ほとんどの部屋に明かりが灯っており、真っ暗なのは片手に余る。
(明るいうちに幽霊化したもなら、部屋に明かりは灯っていないか)
 下層階に並んでふたつ、中層階にひとつ、そして、さっきおじゃました部屋の三階下にひとつ。しらみ潰しより、はるかにスマートなアイデアだと思う。まずは下層階のふた部屋から。真っ暗なベランダに降り立つ。それだけでわかってしまった。最初の部屋は、空き部屋。生活の臭いどころか家具さえ置かれていない。一軒おいて隣。ここも空き家だ。
 次は中層階の中央付近。ワンルームに所狭しと並べられた机、パソコンとファクス兼用電話の列。なにかの事務所らしい。どおりで真っ暗なわけだ。残るは上層のひと部屋だけ。そのベランダに降り立ったち、分厚いカーテンが引かれたガラス窓を通り抜ける。とたん、異臭が鼻を突く。電車のなかで同じ臭いを嗅いだことがある。男の加齢臭だ。
 向かいの壁際に、白くて丸いなにかが見えた。近づいてみる。むき出しの眼球が私を睨みつけていた。
(うわ、わっ!)
 思わず飛び退いてしまったけど、ポスターだった。これと同じものを上野の博物館で見こたとがある。ご遺体にプラスチックをしみ込ませて防腐処理したのち、きわめて薄くスライスしたプラスティネーション標本。その等身大の断面がポスターになって、わたしを見つめていた。
 悪趣味→普通ではない→ここの住人は変質者──。連想ゲームの末にたどり着いた答えに、ないはずの心臓が大きく脈打つ気がした。
 寝息が聞こえた。振り返る。分厚いカーテンが引かれた窓際に、シングルベッドが置かれていた。山なりのシルエットが、寝息にシンクロして上下している。暗くて表情は見えない。明かりをつけたいところだったが、幽霊の状態では叶わない。
 寝息のすきまに、低い振動音が聞こえる。机の上で、パソコンのスクリーンセーバーが作動していた。その次々と切り替わる画面に、わたしは反吐が出そうになった。
 若い女の子たちの、あられもない姿。ほとんどの子が、自らの手で乳房を持ち上げ、指で彼女自身を大きく開いていた。ある子は顔を背け、ある女性は睫毛を涙で濡らして。彼女らに共通するのは、みな似たような感じの可愛い子、そしてなによりも悲しげな眼差し。
(もしかして、麻里絵も……)
 目を背けたくなるのをこらえて、画面に食い入る。同じようなポーズ。そして、みな麻里絵に似た雰囲気。画像が一巡する。親友の裸身は、ついに現れなった。だけど安堵するどころではない。
 ディスプレィのなかの白い裸身が、部屋の内部をほのかに照らしだしていた。そのわずかな光を頼りに、ベッドに横たわる表情を確かめる。大きく後退した額。神経質そうに張り出した頬骨。悪趣味な色の眼鏡をかけたまま眠る男は、ボート部監督にして、大脳生理学講座の教授、牟田口──
 ぶん殴っていた。無駄だとわかっていた。なのに、無数のこぶしを牟田口の鼻っ面めがけて繰り出さずにはおれない。悲しみを込めて、麻里絵のぶん、そしてスクリーンセーバーに閉じ込められた可哀相な女の子たちのぶんまでも。
 女の敵の顔面を、こぶしが虚しく突き抜ける。そのたびに涙がこぼれた。熱くてしょっぱい液体が頬にこぼれたんじゃない。精神が、心が泣いていた。
 いくらか落ち着いてきた。
 牟田口という存在を根元から切り倒すには、こんなことをしても無駄。幽霊の状態で復讐をはたせるのなら、独裁者は歴史に名を残す以前に呪い殺されているはずなのだから。
 ベッドを離れ、部屋をざっくりと見回す。それは、パソコンの傍らに無造作に置かれていた。ママが言っていた鎌倉彫の箱。蓋は裏返っていて図柄を確かめることはできないけど、箱の中には数本のアンプルが液体を蓄えたまま転がっている。よくよく見れば、すぐそばに、ディスポの注射針に注射筒、腕の静脈を怒張させるためのゴム管まである。
 間違いない。
 決意は固まっていた。肉体にもどり、一刻も早く警察に通報する。これ以上の犠牲者を出さないために。
 意識を集中させようとしたその時、ふと、スクリーンセーバーに映し出された裸身に目がとまった。さっきは気づかなかったが、つややかな唇の横に、見覚えのあるホクロが添えられている。
 去年、生理学の実習で指導してくれた講師、比嘉(ひが)先生──
 沖縄出身の彼女。その講義は素敵だった。エキゾチックな容姿に似合う立ち居振る舞い、たおやかな話ぶり。男子なんか、呼吸生理の講義よりも、彼女の美貌しか覚えられなかったんじゃないのかな。
 その彼女が今、画面のなかからこちらを見つめていた。大きな瞳に涙をためて。



 自分の肉体を意識するだけで、瞬時に石戸が待つ軽自動車へと戻れるはずだった。なのに、涼しくなりはじめた空気を切り裂いてヨーカドーを目指したのは、牟田口の部屋で味わった嫌悪感を払い落とすためだったのかもしれない。
 車内に横たわる肉体に精神を重ね合わせてみる。まるでゴム手袋に指を通すかのように、五感が身体の隅々にまで張りめぐらされていくのがわかる。これが生きている実感なのだろうか。
 悪霊の本体が牟田口であること。彼の部屋に鎌倉彫の箱があったこと。その中身は、パパが開発したと思われるアンプルだったこと。そして、獣欲の犠牲になった女の子は麻里絵だけではなく、彼女らが富士見大の七不思議で語られる犠牲者らしいことを告げる。
 すっかり聞き役に徹してしまった石戸に、私は憤懣をぶちまけた。
「ねえ、うなずいてばかりいないで、さっさと行動しようよ」
「行動?」
「警察に連絡するの。あいつのパソコンには、その……可哀相な子たちのエッチな画像が……」言葉尻が濁る。「それって、物的証拠のわけでしょう?」           「なんの証拠かな」
「脅迫に決まってる。あの子たち、きっと脅かされて、あんな画像を送らされたんだと思うの。だから警察がパソコンを押収してくれたら、それだけで動かぬ証拠になるわ」
「彼女たちが脅迫されていたって証拠は?」
「それは……」折れかけた気持ちを、わたしの体験が支える。「でも、麻里絵がのぞき被害に遭っていたのは確かなわけでしょ」
「まさか、幽霊がのぞき行為におよんだ、とでも警察に言うつもりかね」
 ぐうの音も出ない。彼は余計にも畳み込んできた。
「のぞきとか、痴漢なんてのは親告罪と言ってね、被害者が訴え出ない限り、犯罪として成立しないのだよ。東子ちゃんが言う富士見大の七不思議だけど、それが本当なら、なおさら牟田口という男を罪に問うのは難しいと思う。代理人による告発もあるけれど、被害者が亡くなっているんじゃあ難しいかもな」
 石戸の熱弁を頭のどこかで聞きながら、スクリーンセーバーに映し出された生理学の講師、比嘉先生の表情を思い出していた。最近、彼女をキャンパス内で見かけたことはないけれど、彼女が亡くなったとは耳にしていない。
 一度だけ、比嘉先生と女子学生だけで秋の高尾山へハイキングに行ったことがある。ゼミの親睦会として、彼女が企画してくれた。年齢が近いせいか、学生と教員の立場を越えて、いろんなことを話しあった。ほとんどガールズトーク。彼女が日課にしていたのは、沖縄の実家から連れてきたラブラドール・レトリバーと、近くの国営公園を散歩すること。そこのドッグランは広大で、アジリティも楽しめると言っていた。
 想い出にひたるうちに、わたしはある可能性に気づいた。
「石戸さん、クスリで幽霊化した場合、悪霊の行動範囲が限られるのよね」
「だな。半径にして三百メートルくらいだったと思うが」
「やっぱり」
 うつむいたわたしを、石戸がのぞきこんできた。
「思い当たるフシがあるんだね」
「うん、あいつのパソコンに、知り合いの先生の画像があったの。彼女が住んでいたのは、昭和記念公園のある昭島市か立川市のどちらかだったはずよ」
「そうか……」石戸の目に輝きが宿る。
「のぞきの現場は、たぶん被害者の家だと思うの」
「のぞく側の立場からしてみれば、その方が待ち伏せしやすいな」
「思うんだけど、牟田口は、被害者の家から三百メートル以内に住んでいて、次々と新たなターゲットの近所に引っ越していたんじゃないのかな」
「そして、今回は東子ちゃんのお友達をターゲットに選び、大宮へ越してきた……」
「要は牟田口の転居先を調べればいいのよ。もしも被害者たちにつきまとうよう、点々と住所を変えていればビンゴ……って、どう?」
 腕組みをして石戸は、唸り声を上げた。
「車のなかで幽霊化した可能性は捨てきれないが、調べてみる価値はありそうだな。状況証拠を積み重ねれば、幽霊を持ち出すことなく警察を動かせるかもな」
 その時だった。ポーチのなかで、ケータイが着信を告げていた。その小窓に明滅する文字は“ママ”。
《麻里絵ちゃん、助かりそうよ》
「ホント? よかったー」声がうわずっていた。「じゃあ、もう目は覚ましたのね」
《それは、まだ。予断を許さない容体だってことには変わりないの。あとは彼女の体力と、生きる気力だけが頼りなんだけど》
 麻里絵の家のイングリッシュガーデン。そこに咲く大輪のバラのような気分は、いっぺんに吹き飛んでしまった。
「私、そっちへ行くわ」
 一瞬の沈黙をはさんでママは言った。
《東子は帰って寝なさい。幽霊化するのって、とても体力を使うことなんだから》
 言われて、まぶたの重さに気づいた。ハッとして目を開く。
「いろいろ発見があったの。お願い、ママのところへ行っていいでしょ?」
《明日にしましょう。麻里絵ちゃんなら心配ないわ、優秀な先生が診てくださっているんだもの》
 もはや答える気力は残されていなかった。シートをリクライニングさせて目をつぶる。車が走り出したようだ。縦横に加速度を感じたけど、もう、どこをどう走っているのか見当もつかない。辛うじて、
「東子ちゃんを家に送り届けたら、私は大宮赤十字へ向かうよ」
 という石戸の声を聞き取ったのを最後に、虚ろだった意識は深い眠りの底へと落ち込んでいった。

ゴースト・リンク⑥

#創作大賞2023

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