ゴースト・リンク③


○ 第三章  輪廻の予感

 おまえたちが大人になったら、必ず帰ってくるからね──
 パパが死の間際に残した言葉は、今でも耳に焼きついています。きっと、まだ幼かった弟を気づかった、罪のない嘘だったんだと思います。本当はもっと、家族になにかを伝えたかったのかもしれません。だけど、それっきりでした。すぐに大勢の先生がやってきて脳死の判定が下ると、臓器提供への同意書と引き換えに、パパはどこかへと運ばれていきました。医学部の教授ともなれば、脳死移植への理解を率先して示さなきゃならない、そんなことはわかっているつもりでした。だけど、もう少しお別れの時間があればよかったと思います。

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 窓に届いた朝を、閉じたまぶたを通して感じていた。
 まもなくママが夜勤を終えて帰ってくる。それまでには肉体に戻り、弟に夕食を用意してやれなかったこと、そしてハチローが玄関にいないことへの言い訳を考えなきゃならない。まずは、麻里絵の部屋を突き抜けるよう念じる──必要はなかった。まぶたをこじ開けて最初に見えたものは、レノンとヨーコのポスターが微笑みかける自室の天井だった。
 ゆっくりと身体を起こす。フローリングを踏む感触が、冷たさといっしょに伝わってきた。昨夜は、むせび泣く親友のうなじを見ながら眠りに就いたはずなのに、いつのまにか、わたしの精神は肉体のなかに戻っているのだった。
 階段を駆け下りる。ダイニングテーブルの上に、ママが用意したシチュー鍋が、おたまを突っ込まれて乗っていた。パン屑が散らばり、マーガリンが出しっぱになっている。弟は、いつまでも起きてこないわたしに見切りをつけ、夕食も朝食も自分で用意したらしい。
 ダイニングの時計は七時半。ママが帰ってくるまでに、まだ少し時間がある。自分でも嫌になるくらいの打算が働いていた。ママが夜勤のときは、朝日と顔を会わせることは滅多にない。おまけに、彼の口を封じるのは簡単だ。マックか吉野屋でご馳走するだけでいい。あとは麻里絵の家にいるハチローを連れてくれさえすれば、すべてのほころびは縫い合わせる。
 まずは、身体の具合をたずねるフリして麻里絵に連絡だ──
 ケータイのある自室へと踵を返した、まさにそのタイミングだった。
 背後の物音に振り返る。
 玄関ドアのすりガラス越しに、ビーグル犬の白い尻尾の先が揺れていた。聞き慣れた 「うぉん」が、わたしの奸計にトドメを刺す。
 扉が開かれる。ママの笑顔と「ただいまー」に先んじて、ハチローが飛び込んできた。彼の純粋無垢な歓待を受け止めるふりをして、三和土にうつむく。強張った表情を見せるわけにはいかない。だけど遅かった。
「麻里絵ちゃんがね、わたしのケータイに連絡をくれたのよ。お宅のワンちゃんを預かってますって。これ、どういうこと?」
 答えられない。こんなことなら、麻里絵にママのナンバーを教えておくんじゃなかった。
 わたしとそっくりな瞳が、わたしと同じ目線に降りてきた。
「体外離脱」
 そのひとことで唇を噛む。それだけで、ママに伝わってしまった。
「しょうのない子。もう覚えちゃったのね、身体から抜け出るやり方を」
「私……」言葉の意味も、ため息の理由もわからなかった。「どうやって身体を抜け出したのか、覚えてないの。どうやって身体に戻ったのかも」
 ママの視線がうろたえる。ヤブヘビだったらしい。一点突破を試みる。
「知っているなら教えて。どうやったら自由に体外離脱できるの?」
 もとより期待はしていない。予想どおり「そのうち、自然にわかるわ」で濁されてしまった。質問を変える。
「麻里絵には会った?」
 ママの口元から白い歯がこぼれる。
「元気そうだった。ありがとう、って言ってたわよ。ずっと東子がそばにいてくれる夢をみたんだって……あんた、体外離脱して麻里絵ちゃんのところへ行ったでしょう」
 ちょっと驚いた。ママが自分から、体外離脱のことを話すとは思ってもみなかった。
「行ったよ。だけど、なにもできなかった」
「そうね。体外離脱しても、のぞき見るだけ。でも東子、これからは注意してほしいの。相手が夢を見ているとか、うつらうつらしている時なんか、その人の意識の中に入っていくこともできるの。もしかして、麻里絵ちゃんの夢をのぞいたりしたとか?」
 首を横に振る。
「麻里絵ちゃんの意識に語りかけたりとかも?」
「してないよ。添い寝してあげただけ。なのに目が覚めたら、自分の身体に戻ってた」
 唇を尖らせて不機嫌を装う。本当はちょっぴり得した気分になっていた。他人の意識に入っていける──ママは語るに落ちたのか、それとも、さり気なく体外離脱の基本テクニックを伝授してくれたのかはわからない。
 わたしを値踏みするかのように、ママは斜めに構える。
「本当に、麻里絵ちゃんの秘密を盗み見るようなことはしてないのよね」
 くどいと思った。瞬間わたしは、みなまでは言うまいと心に決めてしまった。
「変なものにつきまとわれたりは?」
 ためらわずに首を振る。情報はギブ・アンド・テイク。交渉事にはそれなりのカードが必要なのだから。そして、ママは質問をやめない。
「身体を抜け出してから、東子に気づく人はいた?」
「いた、ひとりだけ」
「誰?」
 過剰で不自然な反応。“どんな人だった?”と聞くのならまだしも“誰?”とは、特定の個人を指してはいないか──。冗談のつもりで“ひとりだけ”と答えたそばから悔いていたけれど、怪我の功名だったかもしれない。
「人じゃないんだ。ハチローよ」
「だから麻里絵ちゃん家までついてっちゃったわけね」ママの声から緊張が流れ落ちていく。「麻里絵ちゃん、もう平気だから、艇庫に行くんなら迎えに来てって言ってたわよ」
 もちろん、そのつもりだった。麻里絵の裸身が卑劣漢の目にさらされたとしたら、まず、艇庫の男子禁制の一角、『大奥』がのぞき行為の現場だと考えるべきだろう。シャワー室、更衣室を男子部員抜きで徹底的に調べる。それでも、のぞきの痕跡を発見できなかったら──
 渇いた喉へ苦い唾液を飲み込むと、足元から身震いが這い上がってくる。ハレンチ野郎は、麻里絵の家で遭遇した赤い悪霊だってことになりはしまいか?
「ねえ、聞いてんの?」どす黒い思索に、ママの声が飛び込んできた。「朝ごはん、食べるの、食べないの?」
「……食べるよ。食べるけど、おかずは朝日の食べ残しだけ?」
「じゃあ、ピラフを作ってあげようか。冷凍をチンするだけなんだけど」
 朝から脂っこいものは胃にこたえる。だけど、あっさり妥協する気になったのは、いちばん忙しいのはママなんだって知っているから。パパのぶんも愛してくれていると気づいているから。
 食卓につく。スープカップの中身は、弟の朝日が食べ残したミネストローネ。
 合宿に戻るかどうかは別にして、とにかく麻里絵には会わなきゃならない。あのまま放置したら、彼女は胸のボタンをはずすだけでは済まなくなる。不幸を上塗りしないためには、被害に遭っていることを何らかの形で公表すること。それは彼女のようなお人形には、死ぬほど辛いことなんだろうけれど。
「どうして食べないの?」
 無意識に私は、ひと口分のピラフをスプーンにすくいとっていた。慌てて頬張る。すっかり冷えていた。
「練習が終わったら、なるべく早く帰ってくるのよ」ママが、ティーカップにハーブティーを注ぎながら言った。
「どうして?」
「会わせたい人がいるの」
 みなまで語ろうとしないママに、わたしは黙ってうなずいた。ママの瞳のなかに、パパの死についてはじめて語った時と同じ色がたたえられていたからだ。



 会話が弾まない。
 氷川参道を歩きながら、バスの中でも、そして電車に乗ってからも、麻里絵とのおしゃべりは長つづきしなかった。お互いにトークのネタを提供するのだけれど、会話はふた言み言を交わして立ち消えてしまう。理由はわかっていた。
 私は麻里絵がひた隠す苦しみの元凶をのぞいてしまった。そして彼女は私に相談できない。
 ラッシュのピークを過ぎたこの時刻、埼京線の女性専用車両に乗客はまばらだ。猛暑日のおかげで、冷房の設定温度が下げられているとアナウンスされていた。なのに背中を伝う汗が止まらない。

 競艇の開催日でもなければ、戸田公園駅で降りる乗客は少ない。ロータリーから歩きだし、郵便局の角を曲がり、ファミマの前を過ぎれば、ふたりっきりになってしまう。いよいよ口数は少なくなり、互いの顔色をチラ見する回数が増えていった。
 やがてオリンピックコースに沿って並ぶ自動車の群れが見えてきた。ずっと離れた場所には褐色のダビデが乗るブルーの小型車も。彼のボート部内での立ち位置を示しているようで、ため息が漏れる。
「ところでさあ麻里絵」
「あのね東子、わたし」
 ふたり同時に切り出していた。わたしは辛うじて笑顔を繕えたけれど、麻里絵は顔を背けてしまった。
 ちょっと迷ったけど、めげずに告げる。「この際だから、監督に相談してみない?」
「だめだよ東子。そんなことしたら、わたし……」
「恥ずかしい気持ちはわかるよ。だけど、このまま放置していいの? のぞき魔を調子づかせたら、次は何するかわかんないんだよ」
「……でも、わたしひとりが我慢してたらいいんだし」
 わたしは激しくかぶりを振ってみせた。
「ありえないって。監督に相談すんのがダメなら私、警察に行くよ。これはれっきとした犯罪じゃないの」
「それだけは嫌。わたし、絶対に嫌!」
「じゃあ、なんでミニスカなんかで来たのよ! 艇庫にのぞき魔がいたら、どうぞ見てくださいって言っているようなものよ。わたしなんか、家からずっとユニフォームなんだからね。言ってることと、やってることがチグハグなんじゃない?」
「わたしね」麻里絵はグスリとすすり上げた。「艇庫を調べても無駄だと思うの」
「はあ? 意味わかんない」
「こうして東子と歩いたり電車に乗っている時だって、ずっと誰かにのぞかれている気がしてならないよ」
 細い肩をつかんでいた力が抜けていく。麻里絵は赤い悪霊の気配を感じているのかもしれない。かといって『大奥』を調べないわけにもいかない。
「麻里絵が恥ずかしいんだったら、わたしが被害にあったことにしたらダメかな」
「東子が?」
「そう。とにかくさあ、麻里絵が裸を見られたかもしれない場所で着替えたりシャワーを浴びるのって、わたしだって嫌なんだよね」
「ありがとう。東子、ありがとう……」
 彼女の頭はわたしの胸に埋もれていた。

 艇庫には、予備のオールが数本だけ残っていた。競技艇はすべて出払っている。クルー編成に余裕はないから、艇庫にはいま誰もいないことになる。女子部員が寝泊まりする二階部分を調べるには絶好の機会だった。
 麻里絵を促して、奥の階段へ向かう。階段を昇りかけたその時、背後で唸り声が聞こえた。ギクリと硬直した身体で、ゆっくり振り向く。
 胸をなでおろす。副主将の松本千鶴先輩だった。艇庫のもっとも奥まった一角に小さな机を据え、ペンと電卓を片手に帳簿と格闘している。
「千鶴さん、こんちわ」
 会計を兼任する彼女は、わたしたちの挨拶に手のひらで応じると、頬杖に渋面を乗っけて長々とため息を吐き出した。
「聞いてよ白倉ぁ、杉崎ぃ。三木のやつ、私になんの相談もなく、あんなもの買っちまったんだよ」
 千鶴さんの感情をあらわにしたペン先が、艇庫の中心を鋭く指し示す。そこには見慣れない競技艇が、ビニールをかぶった状態で置かれていた。つややかに伸びたキール(竜骨)、輝きを放つリガー。ひと目で新艇とわかるそれに近づき、舳先の真鍮板に書かれた文字を目でなぞる。デルタ社製のふたり乗り競技艇──ダブルスカルの艶やかな船体を、千鶴さんの嘆きが舐めていく。
「そろそろ木製オールがくたびれてきてるから、カーボンファイバーのやつに換えたかったのになあ。いったい誰が、あんな高価なもの買っていいって言ったかっつーの」
「すまん、わたしだよ」
 階段の上から声がした。私、麻里絵、そして千鶴先輩が一斉に振り仰ぐ。
 ボート部の監督、牟田口先生が、禿げ上がった額にいじましく垂らした前髪を揺らしながら、ゆっくりとした足どりで階段を降りてきた。
「松本君、新艇のローンなら心配しなくていい。OB会には私のほうから寄付をお願いしておいたから」
 大脳生理学講座の教授でもある彼は、流行りの眼鏡の底から柔らかく微笑みかけてきた。
 ボート部の責任者である牟田口監督、そして女子部員の誰からも敬愛されている松本千鶴副主将のふたりが今、目の前にいる。しかも私たちの他に部員はいない。こんな絶好のタイミングを逃す手はなかった。
 私の目配せに、麻里絵もちいさくうなずく。
「あの、牟田口監督……。お話ししておきたいことがあります。千鶴さんにも聞いてもらいたいんですけど」ふたりの興味が喚起されるのを待って、私はつづけた。「私たち、艇庫でのぞき被害にあっているかもしれないんです」
 監督は、ひょっとこみたいな顔になって千鶴さんの表情をのぞき込んだ。
「きみも被害者なのかい?」
 千鶴さんは首を横に振って初耳であることを訴えると、両手を細い腰に添えて麻里絵と私を交互に睨めつけた。
「おまえら水臭いよ。そんなこと、まず女の私に相談すりゃいいだろう?」
「まあまあ松本君、彼女らにも事情ってもんがあるんだろうさ」監督は千鶴さんの怒りをたしなめると、「詳しく聞かせてくれるかな?」
 腰をかがめて、薄い前髪が乗る額を近づけてきた。いかにも頭が切れそうだが、神経質そうでもある表情。年齢不詳だ。今年が厄年だと言っていた気がするから、基礎系の教授としては、かなり若いはず。たしか、女性問題で辞職した前の教授の推薦だったとか耳にしたことがある。
 そんな若き教授に、麻里絵の身にふりかかった災厄──身体の特徴を微に入り細を穿つように言い当てられたこと、それがネット上で話題になっていること、そして裸の画像を送るよう脅迫されていることを、あたかも自分のものであるかのように告げる。
 監督は鼻から大きく息を吸い込むと、さも残念そうに吐き出した。
「さっそく二階を調べてみようじゃないか。松本君も立ち会ってくれるよね」
「はい、かまいませんけど」千鶴さんは、胸を反らした。
「だがな、このことは他の部員には内緒だぞ」
「どうしてです?」
 食ってかかったのは千鶴さんとわたし、ほぼ同時だった。
「こう見えてもわたし、大学PR委員会の幹事を任されているんでね」監督は、うしろ頭を掻き上げた。「この少子化の時代、わが富士見大で、その手の犯罪が横行していることが世間に知れたら、志願者数に影響を及ぼしかねんからな。医学部はまあ心配ないだろうが、女子の受験生が多い薬学部と看護学部は面倒なことになりかねん。ま、そこんところはわかってくれ」
 承服しかねた。尖った唇から抗議の刃が飛び出そうとする。が、一瞬早く、
「ただし、確実な物的証拠をもとに犯人が特定できたら、厳正に対処する。それと、誰が被害に遭ったかは絶対に漏れないようにする。これでいいか?」
 麻里絵の臆病な勇気を考えたら、それは願ってもないことだった。
「わたしたちからもお願いします。ね、麻里絵」
 振り向けば、わたしの背中に張りついていたはずの親友は、すでに深々とこうべを垂れていた。



「ふたりひと組で行動しよう」
 提案したのは牟田口監督だった。女の聖域へ分け入るにあたっては、女の目が必要だと考えたんだと思う。それは千鶴さんにも阿吽の呼吸でわかっていたみたいで、ふたりは、つかず離れずの距離を保ちながら行動しはじめた。彼らの捜索範囲は更衣室兼ロッカールーム。私と麻里絵は、まっしぐらにシャワー室を目指す。犯行現場は、そこしか考えられなかった。のぞき魔は、麻里絵が全裸にならなければ見えっこない身体的特徴──乳房の下に隠れたほくろの存在を知っているのだから。
 気合を込めてシャワー室へ踏み込んでいく。中古のユニットバスを流用したそこは、湯船にお湯を張ることも可能だけれど、光熱費の節約のためにシャワーの使用のみが認められている。おかげで常時空っぽの湯船のなかには、各自がお気に入りの化粧品やらシャンプーやらが雑多に押し込まれている。これをいちいち確認するのに骨が折れた。
 誰かのポーチを開け、石鹸箱を取り出し、中に不審物がないか確かめ、歯磨き粉のチューブは丹念に指で触れる。麻里絵を肩車して、天井の換気口に首を突っ込んでもらう。そして床とバスタブに這いつくばり、排水口と蛇口の中を丹念にのぞき込んでみる。
 なのに、結局なにも見つからなかった。
「どお、そっち。なにか見つかった?」
 千鶴さんの汗まみれの顔がシャワー室をのぞき込む。私は麻里絵とならんでバスタブの縁に腰かけ、疲れた表情を力なく振った。
「先輩のほうは、どうです?」
 答えたのは監督だった。
「ダーメだ。こっちも収穫ゼロ!」
 シャワー室の入り口で、お手上げのポーズをしている。
“こっちも”という言い方が気に障った。“そっちも収穫ゼロなんだろう”と言われたようでイラっとくる。事を大きくしたくない大学側の人間としては、わたしたちの被害妄想であればいいんだろうな、きっと。
 外から「キャッチ!」の声が聞こえてきた。伊藤さんの声だ。どうやら男子エイトは、本来のクルー編成で練習しているらしい。
「そろそろ終わりにしよう。連中が帰って来た」コースを見下ろしていた監督が振り返る。「時に松本、おまえら女子部員が着替える時は、カーテンを閉めておくんだよな」
「もちろん! ブラインドだって下ろしますよ」ツンと尖った声で千鶴さんは応じる。
「そんなら、対岸から望遠レンズでのぞかれている可能性も無し……か」監督は、カーテンをうしろ手に閉めると、麻里絵に目を向けた。「どうする杉崎、しばらく様子を見てみるか。今日はたまたま隠しカメラが設置されていないとか」
 麻里絵は答えない。小刻みにふるえはじめた肩に追い打ちがかかる。監督は、カーテンの隙間から桟橋を見下ろして慨嘆した。
「あいつらの中に犯人がいるのかなあ」
 もう限界。麻里絵の反応を待つまでもなく、私は監督の視界に立ちふさがった。
「監督、そんな呑気に言わないでください! まるで他人事……」
「そういきり立つなよ。とにかく、この件はしばらくおおぴらにしない。当面はのぞき魔を泳がせておいて、この四人で決定的瞬間を押さえる……。なんの証拠もないんだ、それがベストだと思うが?」
 沈黙するしかなかった。麻里絵の精神状態を考えたら公開捜査はまずい。懸念は他にもある。麻里絵に届いた脅迫メールの文面の締めくくりは、
 警察を含む第三者に相談して何らかの対抗策をとられた場合、わたしは貴女に全力で反撃いたしますよ。くれぐれも自重くださいませ──
 犯罪として捉えるならば警察に訴え出るのがベストなのだろうけれど、最大のネックは、彼女の精神がそれに耐えられそうにないってこと。
 行き場のない思索は、荒っぽいノックにさえぎられた。
「東子、いるんだろ? こっちへ来いよ。見せたいものがあるんだ」
 三木だ。きっと、艇庫のど真ん中に鎮座するあれのことを言っている。最悪、新艇を前にして背後から肩を抱かれ、耳元でささやかれる。一緒にレースに出よう、って。
 千鶴さんは、お気の毒さま、といった顔で肩をすくめた。居留守を使ったところで三木が引き下がるわけがない。『大奥』のドアが、野蛮な筋力で破られてしまう前に出て行くしかなかった。
「東子ーっ、会いたかったぞー!」
 いきなり抱きつかれそうになった。反射的に繰り出した肘鉄は、三木の鳩尾を捉えるより先に、わしづかみにされてしまう。
「痛っ、やめてくださいよ」
 自動車に引っ張られているんではないかと錯覚するくらいの力で、一階に鎮座する新艇の元へと連れて行かれてしまった。勘違い男には先制攻撃しかない。
「主将と混合クルーを組むのはお断りします。わたし、シングルスカルでエントリーしたいんです。そのために練習を積んできたんですから」
 三木は腕をつかんで放さない。
「なあ、頼む東子。おまえしかいないんだ。俺と一緒にダブルスカルに乗ってくれよ」
「主将としての命令ですか」
「うん、まあ……。そう言ってもいいかな」
「じゃあ、わたしボート部を辞めさせていただきます」
 ようやく肘の呪縛がはずれた。エイトを手入れしている男子クルー、桟橋にクオドルプルを寄せつつある女子クルー、すべての目が、わたしと三木に注がれていた。
「そんな悲しいことを言うな、東子。俺は、おまえのことを……」
 衆人環視のなか、三木の唇が迫ってくる。どんなに顔を背けても、両肩をつかまれていてはどうすることもできない。
「やめろよ!」
 わたしと三木のあいだに、日焼けした腕が割り込んでいた。肩をつかんでいた腕が、少しずつ空中へと絞り上げられていく。羽交い締めにされ、目ん玉をひん剥いている三木。その背後から、褐色のダビデの顔がのぞいていた。
「そういうのを、世間ではセクハラって言うんだぜ」
「てめえ黒澤、また邪魔する気か!」
 三木の体格をがっしり型の横浜ランドマークタワーに例えるなら、黒澤良介はしなやかな東京スカイツリー。ふたりの筋力の差は圧倒的だった。三木はあっさり羽交い締めを振りほどくと、足元から拾い上げたオールの切っ先を振りかざす。
「それが先輩への礼儀か?」黒澤は手刀を構えて言った。
「へっ! ちょっと歳くってるってだけで先輩ヅラすんなっつーの」
 ふたりはなにを言っているのだろう。彼らは同級生ではなかったか。だけど今は疑問をこね繰り回している場合ではない。オールを構える三木が伝説の巨人ゴリアテで、それを徒手空拳で迎え撃たんとする黒澤良介が本物の勇者ダビデに見えていた。
 私は、その見えない火花が飛び交う只中へと飛び込んでいた。
「やめて! チームメイトなのに、どうして仲よくできないの?」
「へっ、黒澤がチームメイト? こいつのおかげで、どれだけボート部の和が乱れたことか!」
 過去に何があったかは、この際どうでもいい。ふたりの戦闘意欲を削ぐ言葉はすでに用意されていた。
「どうしても、喧嘩をやめないのなら私、黒澤さんと混合ダブルスカルにエントリーするわ!」
「東子、そんな……」オールの切っ先が動揺しはじめたその時、
「ハイハイ、おしまい、おしまい」千鶴さんが修羅場を引き取った。「これでどちらかがケガでもしたら、警察を呼ぶことになるんだよ。だけど、そうなったらそうなったで、わたしらはちっとも困らない。ブタ箱でのぼせ上がった頭を冷やしてくるといいわ」
 そう言うと千鶴さんは、三木を鋭く指さしながら詰め寄り、
「だけどねえ三木君、オールのブレードがちょっとでも欠けでもしたら、キッチリ弁償してもらうよ。あんたが相談も無しに新艇なんか買うもんだから、くたびれたオールを新調する余裕はビタ一文も無いんだからね。そうですよね、監督」
 部費の無駄遣いに連座しろと言わんばかりの千鶴さんに、牟田口監督はバツが悪そうな苦笑を浮かべて近づいてくる。
「そうだな。その場合、弁償はやむをえんだろうな」
 監督は、遠巻きに見守っていた麻里絵を手招きで呼び寄せ、わたしたちにしか聞こえない小声で囁く。
「のぞき疑惑の件については、私が責任をもって預かる。調査はその道のプロに頼むつもりだ」
 千鶴さんが応じる。
「その道のプロって、なんのことです?」
「警備会社とか私立探偵とか。ほら、よくタウンページに宣伝が載っているじゃないか、隠しカメラや盗聴器を見つけますって」
「そんなお金、ボート部にはもう……」
「わかってるって、松本。こうしよう。今回の件は、わたしの監督不行き届きかもしれん。調査にかかる費用は、私のポケットマネーから負担する。これでいいな?」
 それでおしまいだった。三木はエイトを手入れするために艇庫へ、黒澤良介はシングルスカルを担ぎ上げて自分の車へ。騒ぎを聞きつけて集まっていた早稲田と慶応のクルーが、「もう終わりかよ」的なことを口にしながら、つまらなそうに散っていく。そのうしろ姿を漠然と見つめながら、わたしは千鶴さんに尋ねた。
「三木さんと黒澤さんって、同級生じゃないんですか?」
「同級生だよ、ふたりとも私と同じ医学部四年だけどさ、その辺の事情は、あいつに直接聞いてみなよ」意味深な笑みを浮かべた千鶴さんは、ブルーの小型車を見据えて言った。「さあ、今のうちだよ。相手が言いたくないことを聞き出すには、タイミングが大切なんだから」
 背後から千鶴さんに肩を押し出された。
 三木君が言うほど、あいつは変なやつじゃない──
 耳の中によみがえった彼女の声が、脚の動きを加速させていた。
 オールを車のルーフにくくりつけていたダビデは、わたしが砂利を踏む音に気づいて振り向いた。口を開いたのは彼の方が早かった。
「さっきは助けてくれてありがとう」
「なんのことです」
「三木のやつから僕を守ってくれたじゃないか」
 聞きたいことは山ほどあった。艇庫で寝泊まりしてはいけない、裸になってはいけない、と忠告してくれた根拠。三木との因縁。そして隅田川でのこと──
 先手を打たれては、言葉が紡げなかった。
「もしよかったら、これからカプチーノを飲みに行かないか? ちょっと遠いんだけど、蜂蜜入りの、とびきり美味いやつなんだ。ご馳走するよ」
 わたしにとって、蜂蜜入りのカプチーノコーヒー──正しくは、カフェ・コン・レーチェという飲み物には特別な意味があった。そして、ただならぬ予感も。
 人心地がついた時には、ステアリングをさばく黒澤良介を右の視界に捉えていた。タイヤが砂利を噛む音に混じって、わたしの名を呼ぶ声が聞こえてくる。窓からか顔を突き出すと、小型車が巻き起こす砂煙のなかに麻里絵の泣き顔が小さく見えていた。
 ケータイの電源を切る。麻里絵はきっと連絡してくるだろう。だけど彼女にさえ、良介との時間を邪魔されたくはなかった。
「あれって、本気なの?」
 唐突な問いかけに、わたしは眉をひそめる。
「本気って……」
「僕と混合ダブルスカルにエントリーするって話」
 私は、自分の膝小僧を見つめるしかできなくなった。



 黒澤良介が駆る小型車は、荒川の土手とオリンピックコースとのあいだを疾走していく。憂鬱でも不安でもなかった。あるのは漠然とした予感だけ。
 競艇場を背後へ見送り、何回か高速道路を乗り換え、窓の外を『所沢』、『高崎』そして『新潟』の文字がすっ飛んでいくのを見るうちに、私の予感は確かなものへと形作られていった。川越インターで高速道路を降りてからは、私が知る道順のとおりだった。大型貨物が行き交うバイパスをしばらく走り、デニーズを目印に右折し、銀行の角を左に折れる。ガードをくぐれば、連雀町、幸町、元町──幼い頃に過ごした古い蔵づくりの町並みがつづいている。
 黒澤の車は、小江戸情緒の通りを闊歩する観光客を避けて、裏の細い小路へと入っていく。間近に川越のシンボル『時の鐘』が見下ろす店の前に停車したそこは、まさしく祖母が経営するイタリアンレストラン・パッシオーネの真ん前だった。青銅の看板、ハーフティンバーの外壁にからみつく蔦──ほどよく枯れた佇まいは、子供の頃からの印象とまったく変わっていない。
「降りないの?」戸田をあとにして以来、ダビデの口から最初に出た言葉だった。
「どうして、この店を知ってるの? 黒澤さんって、もしかして川越の人?」
「質問を質問で返すなよ。それに質問ならひとつずつにしてほしいな」車を降りた黒澤は、ボンネットを迂回して回り込んできた。「ある不思議なきっかけで、この店を知ったんだ。とにかく降りなよ。ここのカプチーノは飛び切り美味いんだから」
 言われるまでもない。ここは勝手を知る祖母の店。普通のカプチーノを上等のカフェ・コン・レーチェたらしめるには、添えられる蜂蜜が特別なんだ。蜂蜜を精製する祖母の傍らで教えられた。ニホンミツバチがどんなに気まぐれ屋で、彼女らが集める黄金色の液体がどんなに貴重なのかを。
 黒澤を追い越してレストランのドアを押し開けた。頭上で鳴り響くカウベルに“北海道”の刻印。修学旅行でわたしが買ってきたものだ。一瞬、カウンターにパパが座っている気がした。
「いらっしゃいま……」パパと同じ鳶色の瞳が、わたしを見つけて驚いている。
「グランメ!」
 抱きついていた。祖母の背に回した手が肩甲骨に触れる。
「東子……しばらく見ないうちに、ずいぶん綺麗になりましたね」
「グランメこそ、可愛らしいおばあちゃんになったよ」
 キスを交わす。彼女の頬に触れるのは半年、いや十カ月ぶりくらいかもしれない。生え際に残っていたブロンドが、今ではきれいな銀髪になっている。
「彼氏ですね?」
 老眼鏡の下で微笑む瞳に向かって、唇を突き出す。
「そんなんじゃないよ」
「恥ずかしがることはありません」老いた手が優しく私を突き放す。「とにかく席についてください。お話はあとでゆっくりと、ね」
 黒澤良介が、所在無くわたしたちを見つめていた。
「ここは、きみの……」
「私の、おばあちゃんのお店」グランメに抱きついてみせる。
「だけどきみの髪は」
「緑の黒髪よね」古い言い回しの照れ隠すために胸を張ってみせる。「私、正真正銘のクォーターだけど、おばあちゃんの血は薄くしか流れていないみたいなの」
 祖母は自分のことを“グランメ”と呼ばせている。生まれはルアーブルというフランスの港町で、“グランメ”が“おばあちゃん”を意味するフランス語“グランメール”に由来していることは、大学で仏語を選択してから知った。
 フランス人なのに、どうしてイタリア料理を?──
 ずいぶん前に尋ねたことがある。するとグランメは、
 日本人にだってフレンチや中華のシェフがいます。それとおんなじですよ──
 と、涼しい顔でうそぶいた。
 グランメの料理は家庭料理の域を出ない。だけど、フォン・ド・ボーやブーケ・ガルニをふんだんに使う、いわばフレンチ風のイタリアンレストラン『パッシオーネ』は、川越ではちょっと知られた存在。だけど常連の多くは、天然蜂蜜の香り高いカプチーノコーヒー──カフェ・コン・レーチェがお目当てなのだった。
 他に客はいない。もっとも奥まった窓際の席に黒澤良介の姿があった。パパがお気に入りにしていた席だ。そこからは、アンティークにしつらえた店内や調度品を余すところなく堪能できる。
「グランメ、カフェ・コン・レーチェをふたつね」
「わかってますよ」すでにグランメはエスプレッソマシンに取りついていた。「東子の彼氏ね、ここに何度も来ているのです。彼はカフェ・コン・レーチェしか注文したことがないんですもの」鳶色の目がウインクした。
 黒澤の向かいに座る。車に乗っている時より、ずっと気まずくなった。グランメが芳しい液体を運んできてからは、もっと気まずくなった。会話どころか、カップに唇をつける気さえ起こらない。
 そもそもの間違いは、なんで黒澤良介についてきてしまったか、だ。
 運命──
 頭の中で響く囁きは、自分の心が告げたのかもしれない。
「僕は」黒澤は、カップに浮かぶ木の葉模様を見つめた。「夢のお告げで、この店を知ったんだ」
「そんな、まさか……」
 思わず笑ってしまった。だけど、彼は真顔を崩さない。
「大学に入ってすぐに、大きな手術を受けたんだ。術中にトラブルがあって、何度か死にかけたらしい。だけど、そんな危ない状況だったなんて、ドクターもナースも教えてくれない。なのに僕は、何があったか手にとるようにわかっていた」
 黒澤の指がシャツの胸元を引き絞っている。そこを見つめたまま、わたしは言った。
「手術室に意識が浮かんで、血だらけの自分を見ていたのね」
「……そうだけど」
「もっと教えて」
「あ、ああ……」泳いだ彼の視線が平静を取り戻す。「輸血バッグが足りなくて、ドクターやナースが慌てている、そのうちに人工心肺の具合まで悪くなって……」
 彼の体験談は臨死体験そのもの。だけど、わたしの体験と違っていることもあった。
「僕は死ぬんだな、そう思ったらオペ室の天井を突き抜けて、附属病院の上空に漂っていたよ。雨が降っていたな。見下せば、飯田橋の駅と神田川がどんどん小さくなっていく……と思った次の瞬間、僕の意識は、ここに座っていたんだ」
「ここ?」
「そう、今座っているこの席。目の前には、きみのおばあちゃんが座っていた」
「グランメが?」
「間違いないよ。ひと目で外国の人だとわかった。なのに彼女、きれいな日本語でこう言うんだ。『どう、美味しい?』って、僕に微笑みかけながら。気がつくと、目の前にカップが置かれていた。立ち上る香りも、味もリアルに覚えていた。忘れっこない、この味、この香りなんだ」黒澤は目を閉じてコーヒーをすすった。「そしたら彼女、変なことを言うんだ。『昔みたいに、みんなで仲良く暮らせませんか?』って……。『どうして、そんなことを聞くの?』って訊いたら彼女、手のひらで顔をおおって泣きだすんだ。次の瞬間、目の前が急に暗くなって、目が覚めたら附属病院のICUだった」
 喉がカラカラに渇いていた。
「ねえ、ひとつだけ教えて。黒澤さんが手術を受けた日って、教えてもらえってもさしつかえないのかしら」
「あ、うん。別にかまわないけど……」
「けど?」
「こんな話をされて、変に思わないのかなって」
 首を横に振りながら、わたしは気づいていた。臨死体験を至極当然のこととして受け入れる感覚、それが私と彼とを互いに引きつけているのかもしれない。
「五年前の『みどりの日』だな、ゴールデンウィーク初日の」
 パパが亡くなった日だった。移植手術が行われたのは富士見大の附属病院。状況証拠は、もう十分すぎるほど揃っていた。
「リハビリに二年もかかったよ。おかげで、三木のやつと同じ学年になったってわけ。本当は今頃、病院実習でてんてこ舞いのはずなのにさ」
 もう、のぞき魔のことなんてどこかへ吹っ飛んでいた。筋肉質の胸元からのぞく手術の傷痕にばかり目が行ってしまう。その内側には、パパの心臓が息づいているのではないか──もはや確信に近い予感が、性急に唇を開かせていた。
「黒澤さんがボート部に入ったのは、リハビリを終えてからよね」
「ああ。体力づくりのためにね。だから僕は、レースには出な……」
「なんでボート部なの?」私は彼の苦笑をさえぎった。
「そう言やぁどうしてかな。ただなんとなく……かな」
「じゃあ、夢に出てきたこの店には、どうやってたどり着いたのかしら」
「それは簡単。夢で見た窓の外に時計台が見えていたから、川越なんだろうって見当はついていた」
「そのあとに臨死体験っていうか、魂が肉体から抜け出すような感覚ってなかったの?」
「それっきりだよ。あんな不思議な体験は一度きりさ」
 グランメが描いたミルク絵は、すっかり単調な色彩に溶け込んでいた。ひと口すする。天然蜂蜜の香りを楽しむには、これくらいの温度がちょうどよかったかもしれない。気持ちが落ち着いてきた。
「ありがとう。艇庫ではもう、絶対に着替えたりシャワーを浴びたりしないわ」
「なんのこと?」
「艇庫でのぞきが横行しているかもしれないって、教えてくれたんですよね」
「いつ」
「昨日、オリンピックコースの桟橋で」
「そんなこと、言ったっけかな」
 臨死体験は驚くに値しない。むしろ、いま目の前で首をかしげる彼の反応の方が驚き、と言うより残念で期待外れだった。
「東子」
 カウンターで、グランメがにこやかに手招きしていた。
「ママは……、美由紀さんは元気にしていますか?」
「うん。精一杯働いているよ」
「そう……」
 グランメの表情に影がさした。彼女の背後、マイセンの陶器人形が飾られた棚に、若き日の祖父母の写真が飾られている。彼らが抱いている赤ん坊はパパ。ママはグランメとうまくいかなかった。パパは、おじいちゃんが身体を壊しても診療所を継がなかった。
 グランメは、思い出したように手のひらを拳で叩いた。
「そうそう、秩父の農家から美味しい地鶏の卵が手に入ったんです。カルボナーラをご馳走しますから、食べていきませんか? もちろん彼氏の分もありますよ」
 降って湧いた食欲が、ふたつ返事で受け入れる。昼食を食べていないことを忘れていた。
 早速、調理に取りかかった背中に尋ねる。
「ねえグランメ、彼がはじめてここに来た時のことは覚えてる?」
「ええ、もちろん。ずいぶんと変な顔してそこへ座りましたので、よく覚えています」
 グランメはカウンター席の隅っこを指さした。
「それでね彼、おどおどした感じで尋ねたんです。蜂蜜が入ったコーヒーはないかって。それからなんですよ、彼が足しげくここへ通うようになったのは」
 グランメの回想には真実味があったけれど、黒澤の体験では、グランメは親しげに話しかけている。初対面ではありえない。これを、どう解釈すればいいのか──
 グランメが小声で言った。
「そろそろ席に戻んなさい。彼氏をほったらかしにしては、いけませんからね」
「だから彼氏じゃないんだってば、もう」
 ふくれっ面を背けざまに、わたしは尋ねていた。
「『幽霊のクスリ』って知っている?」
 彼女の素っ頓狂な顔を見たのは、ずいぶん久しぶりだった。

 5

 私がスパゲティ・カルボナーラを平らげるのを待って、
「家まで送ってあげるよ」
 という黒澤の申し出を受けない手はなかった。彼とはまだ、十分に話していない。なのに心とは正反対に、車に乗り込んでからは口は重くなるばかり。グランメのせいだ。繰り返し“彼氏”と言うもんだから意識しないほうがどうかしている。
 会話を切り出せないまま荒川をまたぐ長い橋を過ぎ、緩くカーブした先に大宮のシンボル、ソニックシティのビル群が見えてきた。時間がない。運転席へ目を移す。自分でも顔が火照っているのがわかった。
「あの、黒澤さん」
「良介でいいよ。僕の周りにいる連中には、そう呼んでもらっているから」
 ちょっと受け入れ難い提案だった。彼は入学当初の二年間を休学している。現役で合格しているのなら、今年で二十四歳。五つも年長の男性を、そう簡単には呼び捨てにはできない。なのに、
「練習してみろよ、名前で呼ぶの」
 横目が笑っていた。だけど、わたしは必死だった。大きく息を吸い込み、一気に吐き出す。
「良介に聞きたいことがあるんだけど」
「ゴメン、艇庫でのぞきがどうとかって話なら、悪いんだけど本当に覚えていないんだ」
 出鼻をくじかれてしまった。今でも耳にこびりついている──東子のような可愛い女の子は艇庫に寝泊まりしちゃあいけないよ──きっと、それも覚えていないはず。
 グランメや麻里絵、そしてママも、私のことを“綺麗になった”とは言ってくれるが“可愛い”と言われたことはない。だけど、言葉の持つ温かい響きが幼い日の記憶のどこかを刺激しているのだった。
 良介はハンドルをさばきながら一瞥くれた。
「あの時はちょっとボーッとしていて、変なことを口走ったかもしれない。だけど、艇庫にまつわる妙な噂があるのは本当だぜ」
「って、幽霊が出るって、あれ?」
「やっぱり知ってたか。富士見大の七不思議のひとつ。ボート部員なら当然か」
 去年の夏合宿の初日に聞かされた。戸田のオリンピックコースには、人知れず溺死した男の霊が、夜な夜なずぶ濡れの姿で艇庫に現れる。一刻も早く自分を見つけて骨を拾い上げてくれ、と。だけど今日の今日まで、艇庫で幽霊を見たと言う部員に出くわしたことはない。都市伝説なんて、おおかたそんなもんだ。
 だけど幽霊は願ってもない話題だった。
「黒澤……じゃなかった、良介さん。七不思議なのに、ウチの学生の誰に聞いても六つまでしか知らないよね。 もしかして良介さんは知っているとか」
 赤信号で車が止まるのを待って、彼は顔を横に振った。
「僕も、そんなに詳しくは……。二年も休学しちまったんで友達は少ないっていうか、その……きみくらいなもんだし」
「その『きみ』って言い方、やめてもらっていいかな。なんだか自分じゃないみい。『良介』って呼びすててあげるからさ」
「じゃあ『東子』で」良介の顔から、はにかみが消える。「七つ目の噂は、おおまかなことだけ知っている」
 言いながら良介はステアリングを大きく切った。国道をそれて県道へ入るようだ。そこはママがよく通る裏道──ある予感が大きく膨らんでいく。私は良介に自宅の住所を『大宮』としか告げていない。にもかかわらず彼は、自宅のある天沼町への最短ルートを選択していたからだ。
 もはや、良介の唇しか見つめていられなかった。
「ここ何年かのあいだに、富士見大の構内では自殺する女性が後を絶たないこと、知っているかい?」
 沈黙をもって否定する。初耳だった。
「僕が入院している時も、病院実習中の女子学生が屋上から飛び下りてね、ナースが噂話してんのを聞いちまったんだ。『また、似たような感じの子が自殺したよ』って。自殺すんのは、みんな似たようなタイプの女の子らしいんだ。だから、あんな妙な忠告を口走っちまったのかもしれないな」
 凝り固まった私の様子には目もくれず、問わず語りはつづく。
「附属病院の屋上から飛び下りた薬学部の四年生、眠剤を大量に飲んで中枢抑制を起こしたナース、東京湾に身を投げて未だに遺体が発見されていない病院実習生……みな目鼻立ちのはっきりした小動物のような……そうだな、東子の友達の杉崎麻里絵に似たタイプなんだ」
 麻里絵──
 彼女の悲痛な訴えが耳の奥でリフレインする。すべての自殺が、あの赤い悪霊のせいに思えてきた。
「ねえ、良介は幽霊の存在って、信じる?」
「え? もう一度言って」
「なんでもない、なんでも……」
 言葉尻を濁して足元を見つめる。体外離脱を体験した良介なら食いついてくると思ったけれど、飛躍しすぎたみたい。アプローチを変えて質問する。
「それって、事件として扱われたのよね」
「もちろん警察沙汰になったさ。入院中の僕のところにだって、刑事が聞き込みに来たぐらいだ。飛び下りた女の子については、自殺前の様子から、うつ病だったんだろうってことになったらしい」
「警察が、そんな発表を?」
「診断を下したのはウチの精神科の教授」
「それって、こういうことよね。自殺は精神病が原因であって、大学側に責任はない」
「まあね……。教授の権威をお仕立てて強引に幕引きしっちまったみたいなね」
「だから七番目の噂は、おおっぴらに語られることはない」
「大学側は清廉なイメージの維持に必死だからな。学生のあいだでも、口にするのは御法度的な雰囲気があるようだし」
 納得だった。ボート部監督の牟田口准教授。彼の言葉の端はしには、ことなかれ主義の臭いが紛々としていた。問題の解決より、一刻も早く騒ぎが鎮静化するのを願うみたいな。
 良介は言った。
「だから幽霊の噂は艇庫に限ったことじゃないのさ。附属病院でも、複数の入院患者が幽霊らしき影を目撃して騒ぎになったこともある」
 幽霊が出るのは艇庫に限ったじゃない──
 わたしは、胸のうちにつぶやき、そして繰り返した。麻里絵の家にも赤い色をした幽霊が出る。もしかしたら──
 突き上げられるような衝撃があった。良介の車はコンビニの駐車場に停まっていた。
「なんだか、喉が乾いたな。なにか飲む?」
「私が買ってくる。カフェ・コン・レーチェのお礼を言ってなかったし」
 良介の指がドアノブから離れる。
「じゃあ、甘くないお茶」
 私はうなずいてドアを開いた。
「良介が受けた手術って、もしかしたら……」
「心臓移植。言いたくはなかったけど」良介は薄く笑いながら、襟元から自分の胸元をのぞきこんだ。「僕の知らない誰かの心臓は、どんな時も一定のペースでリズムを刻みつづけるだけ。神経はつながっていないから、感情の変化でドキドキすることはない。なのに、きみと話していると、鼓動が早くなるみたいだ」
 もう決まりだった。
 五年前の四月二十九日。パパの身体に脳死判定が下った同じ日に、良介は心臓移植を受けた。だからと言って、彼の胸のなかで動き続ける心臓がパパのものかはわからない。臓器移植ネットワークは、ドナー(臓器提供者)とレシピエント(被提供患者)の個人情報を公開していない。術後、レシピエントとドナーの遺族が、移植コーディネーターを通して手紙をやりとりすることはあるけど、直接面会したり言葉を交わすことは禁じられている。金品の授受、感情的な問題が発生しかねないからだ。
 はたして良介の体内でビートを刻む心臓が、パパが提供したものなのか否か──わたしは、それを確かめる方法を思いついていた。
 ドアを閉じ、シートに居住まいを正す。
「よかったらウチに来ない? コンビニのお茶なんかより、ずっと美味しいハーブティーをご馳走するから。『パッシオーネ』直伝の」
 良介は、しばらく私を見つめ、
「わかった。お邪魔するよ」
 と告げて、車の鼻先を再び東へ向けた。

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