ゴースト・リンク②

○ 第二章  悪 霊

 幼い頃、パパとママが“新型の麻酔薬”という言葉をしきりと口にしていたのを覚えています。だけど、パパがなにを研究していたのか、どうして大学病院の屋上から転落したのか、ママは涙でさえぎって教えてくれません。一周忌のあと、ママは人前では泣かなくなりましたけど、私雨が尋ねるたびに悲しそうな目で見つめ返します。そう、“赤い色をした霊”のことをはじめて告げた時と同じ眼差しで。

                   1
 夜が怖かった。
 眠るたびに意識が身体を抜け出し、悪い霊と遭遇してしまうのではないか。そう思うと眠れなくなる。それでも、夜明け近くには微睡んでしまっていた。
 夢にパパが現れた。真っ暗な空間にポツンと突っ立っていた。悲しそうな目をして口を開く。だけど、言葉が紡がれようとした瞬間、耳障りなチャイムが、パパの姿をかき消してしまった。
 枕元で、ケータイが着信を告げていた。眠気を含んだ「もしもし」にかぶせて、
《東子、今日は絶対に合宿に来て!》
 美少女キャラのような叫びが鼓膜を引っかく。麻里絵だった。
「どうしたのよ、そんなにおっきい声だして」
《あのね、三木さんがね、なんで東子は合宿に来ないのかって、しつこくしつこく聞いてくるの。もう、うるさいったらありゃしない》
「無視すればいいよ。そのうち諦めるからさ」
《そんな気配は全然ないよ。このままじゃあ三木さん、東子の家に押しかけるかも》
 それだけは御免だった。脳味噌まで筋肉でできていそうな彼の来訪は、たぶんママも生理的に受け付けないはず。だけど、見舞いの美名のもとに押しかけて来られたら、家に上げないわけにもいかなそうだ。
「わかった。みんなには、今日から合宿に参加するって伝えて」
 そう言い終えた時には、ソックスを片方つっかけた恰好で、フローリングに後頭部をしたたかに打ちつけていた。

 夏の合宿は埼玉県の最南端、戸田市にある全長二キロ、幅八十メートルほどの戸田漕艇場──通称、オリンピックコースで行われる。首都圏の名だたる大学ボート部のほとんどが、この静水路のほとりに艇庫を構えているのだった。
 埼京線戸田公園駅で下車した途端、憂鬱な気分がのしかかってきた。まもなく三木の顔を拝まなきゃならない──重いつま先を引きずること数分で、黒っぽい水面を背にした大学艇庫の群れが見えてくる。その端っこに建つ富士見大ボート部の艇庫は、外見が一風変わっていた。四角くゴツンとした造りであるのは他の大学と共通するが、床屋のサインを模したかのような三色のストライプに包まれている点が異彩を放っていた。
 居心地の悪さを引きずったまま、ぽっかりと口をあけた艇庫をのぞきこむ。誰もいない──と思ったのは早合点、背後から忍び寄ってきた何者かに抱きしめられてしまった。
「東子、心配したぞー!」
 振り返って確かめるまでもない。両の肩をつかむ指を振りほどくと、わたしは一歩飛び退き、三木主将が触れた部分を、わざとらしく払ってみせると、彼のギラついたまなざし避けるためにオリンピックコースへ視線を投げた。待ち伏せしていたに違いない。
「三木さんは、ここで何してるんです?」
 確信犯は自分の足元に視線を落とし、うしろ頭を掻きあげた。
「この前の医学生レガッタさ、俺たち、慶応の新人クルーにボロ負けしたろ。だからさ俺、責任とってエイトから引退することにしたんだわ」
 待ち伏せの方便かどうかは別として、引退宣言が本当なら、エイトクルーに福音として受け止められたに違いない。三木のポジションは司令塔役のストローク。気合が空回りしているような性格そのままに、オールさばきのペースが極端に速い。スタート直後はリードしても、必ずと言っていいほど後半はバテてて逆転される──
「ということは、三木さんのかわりに、誰が漕いでいるんです? 三年の秋池さん?」
「いいや」
「二年生のエース、宮川君」
「違うね」
「じゃあ、期待の新人、石上君を大抜擢したとか」
 三木はまるで、クイズ番組の司会者が見せるような薄ら笑いをたたえた。
「ほら、ウチの秘密兵器を忘れてはいませんかってな」
 そんな隠し玉があっただろうか。もともと学部の定員が少ないから、必然的にどのクルーも人的資源はギリギリだ。誰かが欠場すれば、他のクルーから借りてくるしか──
 思い出した。たったひとり、どこのクルーにも属していない宙ぶらりんの部員がいる。
「わかった、褐色のダビデ、黒澤さんだ!」
 言った途端、目の周囲が熱くなったのとは裏腹に、三木はため息まじりに吐き出した。
「なんで、あいつの名前なんて口にするかなあ」
 三木と黒澤良介のあいだに、深刻な確執があることは部員の誰もが知っている。隅田川にかかる橋の下で出来事を話せば、彼の機嫌は底無しの深みへ沈んでいくに違いない。
「黒澤はよぉ、あんだけいい身体してんのに、レースに出ようとはしねえんだ。俺たちにはお構いなしに、黙々と練習するだけ。そのくせ、部費や遠征費はキッチリ入れてるんだから、わっかんねえよな」
 不意に、褐色のダビデへの興味が、にわかに盛り上がってきた。
「牟田口監督に相談しなかったんですか?」
「したさ!」
 大声に耳をふさいだけれど、飛び退いたほうがよかったかもしれない。
「それで、監督はなんと?」
「黒澤には、レースに出られない事情があるんだってさ」
「……なんなんでしょうね、その事情って」
「んなこたあ、知らねえよ……。ていうか、教えてもらえんかった。個人情報の保護とかで、『黒澤がレースに出ない事情には、一切お答えいたしかねます』だとよ、ハイ」
 目の前のマイルドストーカーが、怒らせていた肩を落としたその時だった。
「ラスト百、スパート行こう。さあー行こう、そぉれっ!」
 背後に、甲高いかけ声が近づいてきた。コースに振り向く。トリコロールのユニフォームを乗せたエイトが近づきつつあった。
「つまんねんえの……。東子が答えないうちに、むこうから正解がやってきたぜ」
 ストロークポジションには、これまでコックス(舵手)を務めていたはずの伊藤さんが、そして彼の代わりに舵を握り、クルーに「キャッチ!」の掛け声でペース配分を告げているのは、高校時代からの親友の杉崎麻里絵。べそをかいている以外は、のほほんとした微笑を浮かべている彼女が今、ゴールラインを越えようとしていた。
「麻里絵は、いつからコックスを?」
「一昨日からだ。陸に上がっているより、舟に乗っているほうが涼しくていいってさ」
 だろうな。陸には、自主的にエイトを降りた三木がいる。普段のマネージャー業をこなしていたら、しつこくつきまとわれたに違いない。三木のいかつい長身を見上げる。
「いいんですか?」
「なにが」
「コックスは男子部員のなかから選抜したらいいんじゃないですか? 男女混合クルーなんて聞いたことないです」
 三木は我が意を得たりとばかりに、唇の端を持ち上げる。ウザイのを我慢して会話を成立させているのに一段とウザくなった。
「わが富士見大ボート部は、来月初旬の東京市民レガッタにエントリーしている」
「それがなにか」
「今年から大会規定が変更になって、全レースで男女混合クルーの出場が認められることになったんだ。人材不足のわが富士見大ボート部としては、これを利用しない手はないってことになってな」
「それで麻里絵を」
 わたしはまだ、三木の目論見に気づいてはいなかった。さり気なく肩に回してきた手を払い落とすことに気を取られていたせいもある。
「だからって、経験のない麻里絵をコックスにしなくてもいいと思います。マネージャーの仕事とは、勝手が違いすぎるんじゃないんですか」
「いやいや、彼女はなかなか頭のいい娘だよ。伊藤のレクチャーがうまっかたのかもしれないが、あっと言う間にコックスのなんたるかをつかんだようだね」
 悦に入ったかのようにうなずく三木、その背後に、麻里絵の掛け声が近寄ってくる。
「バウサイド、水を止めて。ストロークサイド、バック・ロー」コースの中央で、エイトが舳先を岸へ向けようとしていた。「ストロークサイド、ありがとう。バウサイド、ちょいロー。もうちょいロー……。ありがとうー!」
 二十メートル近くもある競技艇が、幼児が歩くほどの速度で桟橋と平行に滑り込んでくる。見事な操艇ぶりだ。
 わたしは、駆け足で桟橋に近づいていった。艇の舷側を支えてやらないと、クルーが上陸するときに転覆しかねないからだ。桟橋にしゃがみ、舷側の中央付近をつかむ。すかさず、すぐ隣で三木も舷側を支えた。
「杉崎のやつ、なかなかさまになっているだろう。ミス・富士見大が舵を握っててくれりゃあ、クルーだって気合が入るってもんよ」三木の話は、もちろん無視だ。「なあ東子、来月の東京市民レガッタなんだけどさあ、新種目で混合ダブルスカルってのがあるんだ。それにウチもエントリーしようと思ってんだけど」
 蒸し暑いのに肌が泡立つ。エイトを引退したのは、わたしとクルーを組むため。それ以外にはありえない。聞こえなかったフリを決め込み、次々と上陸していく漕手のひとりひとりに、「お疲れ!」と声をかけることで黙殺してやる。最後に麻里絵が残った。艇の揺れに翻弄され、腰が砕けている。
「麻里絵に手を貸してやりたいんで、先輩はしっかり艇をつかまえててください」
 大義名分を振りかざして三木を桟橋に釘付けにする。立ち上がりざま、ちいさな悲鳴とともに桟橋に飛び移った華奢な肩を抱き、そそくさと艇庫の二階へ引き上げる。目指すは男子禁制の区画、通称『大奥』のロッカールーム。

 ブラインドの隙間から外を確認する。三木を含む男子部員が、総出でエイトを引き上げているのを確かめてから麻里絵に向き直る。
「コックスを引き受けたのは、あんちくしょう(三木)がウザかったからよね?」
「それもそうだけど、男子の目が気になるって言うか……。水の上なら、嫌らしい目で見つめられることもないし」
 うつむき加減になった麻里絵は、エクステせずとも十分に長い睫毛を伏せた。
「なに言ってんの。コックス席の真ん前で、伊藤さんが漕いでいるっつーの」
「ぜんぜん平気。伊藤さんは、東子が好きなんだもの」
 息が詰まった。伊藤先輩の視線には気づいていた。今のところコクられたことはないけど、部員の誰もが気づいている。つくづく思う。シャイな伊藤先輩は人畜無害だから放っておくとして、どうして三木は、私なんかよりずっと可愛い麻里絵にいかないのだろう。つい、語気を荒らげてしまう。
「麻里絵は、それでいいの? これからずっとコックスをやるんだよ」
「うん。誰に見られているか、わからないもの」
 答えになってないし、意味もさっぱりだった。去年のミス・富士見大。マンガ雑誌にも載ったくらいで、キャンパス外から麻里絵をひと目見ようとやって来る男も珍しくない。ここ戸田漕艇場でも、彼女の一挙手一投足のすべてに男どもの視線を集めている。それを、美少女キャラが支払うべき経費として諦めるか、逆手にとって利用するかは麻里絵しだいなんだけど、プライバシーがないって感じているには違いない。
「だけど、良かったよ」麻里絵はわたしの胸に顔をうずめた。「わたし、東子がいないと、なんにもできないんだもの」
「大丈夫。麻里絵はわたしなしでも立派にコックスをつとめたじゃない」
「そんなの反動だよ。東子がいない不安を、練習でごまかしていただけだよ」
「無理すんな。いい子だから」
 麻里絵の頭を両手でなでてやりながら、窓の外へ遠い視線を投げた。四人乗りのクオドルプルが二艇、レースを想定してだろうか、競うようにゴールするところだった。
「今日はもう帰っちゃおうかな。麻里絵の顔を見れたことだし……。なんだか気分が乗らない。ユニバーシアードの予選も、まだ先だし」
 半艇身ほどの差で相次いでゴールラインを横切ったのは、どうやらウチの女子クルーAとBのようだった。二艇とも完全に静止している。
 妙な光景だった。戸田のオリンピックコースは、夏の合宿シーズンには歩行者天国のような混雑になる。ゴールラインを過ぎたら、さっさと艇を岸に寄せなければならない。なのにA、Bどちらのクルーにも、そんな気配は全然ないのだった。桟橋に出迎えているはずの部員の姿も。
 すぐにわかった。シングルスカルが一艇、桟橋へ向けて進んでいる。川面の輝きの真ん中で、長い手足のシルエットがゆっくりとオールを操っていた。
 あいつだ──
 きびすを返して走り出したとき、わたしはすでに気づいていた。なんのために、億劫な足を引きずってまでオリンピックコースへやってきたのかを。
「東子!」
 ドアノブをつかんだ瞬間に呼び止められる。麻里絵の眉根に浮かぶ、ひとり置き去りにされる悲しみに向かって、わたしは叫んだ。
「ごめん。お願いだから、ついてこないで!」

 2

 艇庫の一階では、男子部員のほとんど全員が、陸揚げしたエイトに群がっているところだった。艇についた水滴を拭き取る者、オールをつなぎ止めておく金具(リガー)にグリスをくれている者、竜骨の塗りが剥げていないかチェックする者──与えられた仕事を機械的にこなし、桟橋へは目もくれないのだった。
 艇庫から桟橋までは目と鼻の先。黒澤良介のシングルスカルに気づかないほうがどうかしている。無視を決め込んでいるのはあきらかだ。
 コースへ振り向く。黒澤艇はすでに桟橋に接岸していた。だけど、競技艇のなかでもとりわけ安定の悪いシングルスカルは、まるで漕ぎ手の上陸を許さないかのように、ダビデの身じろぎを何倍にも増幅させ揺れていた。
 ふたたび艇庫へ振り向く。
「誰か、行ってあげないんですか?」
 冷淡で無頓着な視線の束が突き刺さる。いや、ひとりだけ反応したやつがいた。艇庫から薄ら笑いを浮かべてのこのこ出てきた三木に聞こえぬよう、私はちいさく「最悪」と口にしていた。
「な、さっきの話のつづきなんだけど、俺といっしょに、混合ダブルスカルにエントリー……。おい、待てよ東子!」
 しつこい三木を振り切ったんじゃない。桟橋へ足が向く。判で押したような男子部員の無関心は、かえって好都合。誰にも聞かれぬよう、黒澤良介に確かめるべきことがあるのだから。
 褐色のダビデは自力での上陸を試みている。だけど艇の揺れが収まる気配はない。派手めの航跡が、桟橋へと半身を乗り出しつつあったダビデを襲う。無情にも左へ大きく傾いてゆくシングルスカル。
 私は駆けだしていた。シングルスカルの白い船底が見えた瞬間、ほとんど反射的に突き出した両手は、艇が復元力を失う寸前、その細い舷側を捉えることができたのだった。
 ダビデの表情には安堵の色が浮かんでいた。だけど笑顔ではない。
「きみは……」
「先日は、その……」わたしは深々と腰を折り曲げた。「ありがとうございました。隅田川では危ないところを助けてもらって」
 足元を見つめたまま、ダビデの反応を待つ。とんちんかんな受け答えをされたらそれまで。わたしを溺死から救ったのは変わり者の先輩、黒澤良介ではなく、そして、わたしの唇は少なくとも彼には奪われていないことになる。
「『ドリンカーの生存曲線』は知っているかい」
「はあ?」
 首を傾げるわたしに向かって、手が突き出される。
「さっさと手を貸す。そのために、ここへ来たんだろう」
 期待外れ、というよりは落胆のほうが大きかった。わたしの手を借りて上陸を果たした彼は、長身からフレームレスの眼鏡越しに見下ろしてくる。
「『ドリンカーの生存曲線』は、心肺停止におちいってからCPR(心臓マッサージ・人工呼吸)をはじめるまでの時間と、生存率の関係を表したグラフのことだ。心肺停止から三分以内に蘇生処置を開始しないと、救命率が格段に低下するって、麻酔科学で教わらなかったかな」
「私……まだ二年生なんで」
「そう。白倉教授の娘さんなら、知っていると思ったんだけどな」
 一瞬、息が詰まってしまった。
「パパを知っているんですか?」
「じゃなきゃこんな話はしないよ、白倉東子さん」
 本音に何枚ものヴェールをかぶせたような言い方──斟酌のない直球勝負の三木とは絶対に反りが合うまい。まともな女の子ならムカつくところだろうが、いきなりパパや自分の名を告げられたことへの驚きが、怒りを押さえ込んでいた。
「あの、本当にありがとうございます。おかげで、こうして無事に生きています」
 桟橋に立ちすくむわたしに、黒澤は硬い表情のまま淡々と告げる。
「目の前で誰かが溺れたとする。そして自分は、救命処置を身につけた医学生……。きみを助けるのは当然の義務だと思うが」
「じゃあ、やっぱり……」
「やっぱり、なんだろう?」
 うつむいてしまった。黒澤に奪われたのであろう唇を、内側に丸め込むだけで精一杯だ。
「もう用は済んだよね。『ドリンカーの生存曲線』は、今のうちから覚えておいて損はないぜ」
 背を向けた黒澤は、シングルスカルの水揚げにかかる。
「手伝います」
 わたしの申し出は、左右に振られる首の動きで拒絶された。
「僕なんかと親しく話していると、あとあと面倒なことになるよ」
 そう言い残して黒澤は背を向けた。競技艇を担いでいるとは思えないような軽い足どりで伴走路のどんづまりへと進んでいく。車止めの前に停められたブルーの小型車の屋根に手際よくシングルスカルをくくりつけると、今度はオールを取りに駆け足で戻ってきた。
 彼の手にはすでに車のキーが揺れている。合宿に参加する気はさらさら無く、予定の練習量をこなしたら、さっさと帰るつもりなんだろう。三木の方針には、とことん従っていないみたい。だけど、そんな反骨はどうでもいいこと。彼は、わたしが白倉達男の娘であることを知っていた。その理由が、研究費横領にまつわる黒い噂に根をはっているのなら、是が非でも聞き出しておきたかった。
 黒澤の指先がオールに届くより早く、わたしはそれを踏みつけた。納得いく回答を引き出すまで、足を退けるつもりはない。なのに黒澤良介は咎めるでもなく、ただ至近から柔らかく見つめている。
 さっきとは、何かが違っていた。
 レンズの底にひそむ瞳には、これから突きつけようとしている質問なんて忘れてしまうほどの甘酸っぱい、例えるなら過ぎ去った夏休みの日差しのような輝き放っている。
「東子」
 いきなりの呼び捨て。でも、嫌な気分にはならない。声に備わる温かみが私の何かを握りしめていた。
「東子のような可愛い女の子は、艇庫に寝泊まりしないほうがいいな。通いで合宿に参加するとしても、シャワーや更衣室は使わない方がいい」
 息が詰まった。
 可愛い女の子──
 そう言われて悪い感情を持つ女性はいない。
「……ど、どういうことです?」
「まもなくわかる。とにかく若い女の子は艇庫に寝泊まりしちゃあいけないよ、いいね」
 どこかで耳にしたイントネーション。そして、言葉尻に“いいね”と付け加える話し方。頭のどこか深い場所ににこびりついていた。さまざまな疑問を解消したい欲求が高まってくる。
  だけど、何から尋ねていいのかわからない。その戸惑いが、彼に逃走する時間を与えていた。蹴飛ばされたように走り出した青い小型車。一瞬だけ見えた運転席の横顔──ほんの数分間の経験が、消化不良を起こして頭の中をグルグル回っていた。
「東子、どうしたの? ボーッとしちゃって」
 突然、目の前を麻里絵の顔がふさいだ。
「あ、うん……」驚いたことに、頬に涙が伝った。なぜなのかはわからない。「わたし、もう行くわ」麻里絵に背を向ける。
「って、どこへ?」
「家に帰るの。さっき、練習する気はなくなったって言ったじゃない」
 もはや、どうでもよくなっていた。黒澤に指摘されるまでもなく、彼との会話は御法度。その禁を破ったわたしに、ボート部内での居場所はないのかもしれないのだから。
「じゃあ、わたしもいっしょに帰る。病み上がりの東子に付き添うってことで」
 麻里絵の申し出に足が止まる。高校二年から同じ時間を共有してきた彼女なら、そう言うかもしれないとは思っていた。
「わかった。じゃあ荷物、とってこなくっちゃね」
 わたしは、屈託のない笑みに向かって、うなずき返してしまった。麻里絵の手を引いて再び歩きだす。ロッカールームへ向かう足どりが、駆け足になっていた。ひとつ屋根の下に寝泊まりするはずだったマドンナのご帰宅を、すんなりと受け入れてくれる奇特な男子は、まずいないだろうから。



 麻里絵が誤算だった。こんなことなら、自分ひとりで帰ればよかった。
 ロッカールームの壁にもたれて、親友の着替えを眺めはじてから軽く十分以上は過ぎただろうか。真夏でも、ちまちまとした飾りボタンのついたブラウスや、ゴテゴテに凝ったゴスロリなんかを好む。さらに化粧もするからから、そのやり直しも必要なのだった。
「お待たせー」
 腰をくねらせるようにしてポーズをとる麻里絵の手を引き、大股で出口へ向かう。彼女が帰り支度を整えるまでに、十五分は経過していた。ユニフォームを着たままで、しかもすっぴんのわたしとはえらい違いだ。
 まもなくランチタイム。グズグズしていたら女子部員が『大奥』にやって来る。この際、男子部員はこちらから無視を決め込めばいいけれど、やはり同性の部員たちと正面切って向き合うのは気遅れする。なのに、狭い階段で副主将をつとめる医学部四年生、松本千鶴さんに出くわし、いやおうもなく『大奥』へと連れ戻されてしまった。
 ミーティング用のテーブルを挟んで千鶴先輩と向かい合う。彼女のポジションはコックスだから筋肉量はそんなに多くはない。上背はなく、小動物のような可愛らしい部類の顔に、うまい化粧を施している。おしゃれなお姉さん、といった雰囲気の彼女が女子部員を束ねていられるのは、とめどない笑顔に由来した包容力につきる。
「で白倉、身体の具合はどうなの?」千鶴さんは、期待どおりの質問が浴びせてきた。
「はい、まだちょっとめまいがするって言うか、身体に力が入らないっていうか」もちろん嘘だ。あざとい自分を胸の内で叱りながら言葉をつなぐ。「というわけで、今日は練習を休ませてください」
 なのに、
「うん、わかった。お大事に」
 先輩の顔に、いつもの笑みが咲いていた。
「 いいんですか? 本当に」
「具合が悪いんだろ。遠慮なく休みなよ」千鶴先輩の表情が引き締まる。「次、杉崎麻里絵」
「あ、はい!」麻里絵は、椅子をきしませて居住まいを正した。
「あんた、コックスをやるのが嫌なら、わたしから三木君に言ってやるよ」
「嫌だなんて……。そんなことありません」
「じゃあ聞くよ。最近、泣いてばっかいるけど、いったい何があったのよ。コックスがしんどいんじゃなきゃ、いったいなんなの?」
 麻里絵の喉から呻き声が漏れる。途端に、しゃっくりをするような声ですすり上げる。
 テーブルの向こう側で大きなため息が漏れた。
「ま、いっか。わたしも、涙には弱いしね。わかった、ふたりともお帰り」
 挨拶もそこそこに、べそをかいている麻里絵を促し立ち上がる。
「あ、言い忘れたんだけど」千鶴先輩の視線は、わたしだけを突き刺していた。「三木君が言うほど、あいつは変なやつじゃないよ」
 あいつが誰を指すかは明白だ。辞去しようとしていた足が止まる。
「三木君ってほら『アイ・アム・ナンバーワン。みんな俺についてこい』って感じでしょ。何をやるにしてもがむしゃらで汗臭いのよ。なのに黒澤君は、なんでもサラっとやってのけちゃう。勉強にしろ、恋愛にしろ。あいつけっこうイケ面だから、医学部でも人気あんのよね。三木君にとってのあいつって、典型的な目の上のタンコブなんだよ」
 汗が背中一面に吹き出してきた。
「じゃあ、黒澤さんには彼女が……」
「いないと思う。安心した?」千鶴さんは椅子に背を預けてひとしきり笑い声を上げた。「ウチの女子部員で、黒澤君のことを悪く思っている子はひとりもいないよ。ただ、三木君がうるさいから、誰も近づかないんだけど、チャンスがあればって思っている子、たくさんいると思うな」
 肩をすぼめてうつむいてしまった。
「千鶴さん、ひとつだけ聞いていいですか」
「うん、いいけど」
「黒澤さんがレースに出ない理由って、なんなんですか?」
 千鶴さんは、尖った顎を頬杖に乗っけた。
「それなんだけどねえ、『富士見大の七不思議』のひとつに数えられるくらいの謎なんだな……。だあれも知らない。あいつ、無口だから聞かれても喋らないだろうし」
 言葉尻にかぶるようにして、複数の階段を登る足音が聞こえてきた。他の女子部員たちに違いない。
「今日のところお帰り。くれぐれも三木君に捕まらないようにね。あいつ、白倉に首ったけのようだから」
 先輩の真顔に背を押されるようにして、階下へ向かう。ありがたかった。彼女には、いろんなことがわかっているようだ。

 狭い階段で女子部員たちをやり過ごし、陰から一階の艇庫をのぞき込む。
 エイトは艇庫に格納されることなく、真夏の日差しを浴びている。工具やグリスの缶も出しっぱなし。誰もいない。
 ま、いっか──
 周囲を気にしながら、まだ階段の途中にいる麻里絵を手招きだけで呼び寄せる。艇庫に来た時、背後から三木の不意打ちを食らったことに懲りていたからだ。
 男子がどこへ消えたのかも見当がついていた。三木は整理運動と称するランニングを部員に課していた。たとえ熱中症警報が出るような炎天下でも、ゲリラ豪雨の真っ只中であっても欠かさず。
 ウザい三木がいないと思っただけで、全身の力が緊張といっしょに抜けてくる。気疲れしていた。麻里絵と一緒に炎天下を歩きはじめるが、足は言うことを聞いてくれない。道端の自販機に取りつき、オレンジジュースを購入する。プルタブを引き抜いた時にはすでに、麻里絵の日傘は陽炎の中で揺らめいていた。彼女には、さっきの涙のわけを聞きたかったのだけど、せっかく元気よく歩いている足どりが鈍くなるのも困る。とりあえず、当たり障りのないところから突破を試みることにする。
 と思ったその時、
「東子は、黒澤さんのことどう思っているの?」
「ど、どうって……、べつにあたしは……」
 思わず顔を背けてしまった。
 フリルがいっぱいくっついた日傘の下で麻里絵は、長い睫毛を伏せた。
「実を言うと私……」長い睫毛が伏せられる。「彼のこと、ちょっと調べてみたりもしたんだ」
「もしかして麻里絵は…」
「ううん、好きとかそんなんじゃない。ごく普通の興味からよ」
「へ、へえー、ミス・富士見大ともあろうお方が!」
 茶化すように反応したのは照れ隠しだったのだけれど、麻里絵の声は訥々としたままだった。
「一年生のときからずっと首席で、そのご褒美に、大学が学費の半額を免除してくれているんだって。四年生になってからは麻酔学グルンドの代表を任されたみたい」
「グルンド……ってなに?」
「学術部のこと。とにかく勉強が好きで好きでたまらないって人ばかり集まっているんだって。黒澤さんって、そんなガリ勉には見えないところが魅力よね」
 なんだろう、鳩尾のあたりに感じている居心地の悪さは。黒澤良介について語る麻里絵への違和感は、嫉妬なのかもしれない。
「東子、桟橋で黒澤さんと話していたでしょう。ずいぶん楽しそうだったよ」
 反応できなかった。楽しそうに見えていたとしたら、彼がオールを取りに戻ってきたあとだ。表情も態度も、わたしを包み込むように変化していた。
 黒澤の声が耳によみがえる。
 女の子は、艇庫に寝泊まりしないほうがいいな。通いで合宿に参加するとしても、シャワーや更衣室は使わない方がいい──
「一方的に、意見されただけよ」
 麻里絵はどんな風に受け取っただろう。顔色をうかがう。が、ずっとクルクル回りっ放しだった日傘が、隣にはいなかった。
「麻里絵?」
 気だるい夏の道を、主を失ったゴスロリ趣味の日傘が風にあおられ転がっていく。
 見つけた。電話ボックスの陰から投げ出された二本の足。
「どうしたの!」
 コンクリートの壁に上体をあずけている麻里絵。駆け寄り抱きかかえる。顔に塗ったファンデより白くなった首筋。浅く、そして震えるような呼吸。額に浮きでた大粒の汗をハンカチで拭ってやると、飲み残しのジュースを彼女の口に含ませた。
 わずかに笑みを返した麻里絵は、首をのけ反らせたまま、弱々しく声を絞り出す。
「わたし、コックスを引き受けたのって、本当は逃げたかったからなの」
「しつこい三木から?」
 麻里絵は目を開けていられない。それでも顔を横に振る。
「誰かにのぞかれているみたいなの。着替えをしたり、シャワーを浴びたりするところを、誰かに見られたみたい」
 記憶のなかで黒澤良介がささやく。
 シャワーや更衣室は使わない方がいい──
「犯人に心当たりは?」
「わからない。証拠もない」
「じゃあ、どうしてそんな……。麻里絵の思い過ごし……」
「聞いて」麻里絵の細い指が、わたしのユニフォームの襟をつかむ。「わたし、本当にのぞき被害にあっているの。こんなこと東子にしか相談できないよ」汗にまみれた表情が嗚咽に埋もれた。「わたしのお尻に、ハート形の痣があるの知ってるよね」
「うん」
「じゃあさ、左右の胸の下に、二つずつ黒子があるのは?」
 それには首を横に振らざるをえなかった。
「メールが届いたの。わたしが裸になんなきゃ、絶対にわからない特徴が書いてあった」
「まさか……」膝から下の体温が地面にこぼれ落ちていく。「いつからなの?」
「一週間くらい前。わたし、脅かされているの」
「って、ど、どんなふうに?」
「言いたくないよ、こんなところじゃあ」
「誰かに相談した? お母さんとか」
 傷ついた親友は、激しくかぶりを振る。
「だって、警察に通報したら、裸の写真をネットにばらまくって。ずっと監視しているって、脅かされたんだもの」
 雑誌に掲載されたほどの彼女の裸身が、どれだけの価値を生むかは想像したくもない。確実なのは、ひとたびSNSに投稿されたら、馬鹿かヒマ人によって大量にコピーされ、永遠にネットの中をめぐりつづけるに違いないってこと。
「助けて東子。こんなこと、あなたにしか相談できないの」
 震える呼吸のあいまから声をふりしぼる親友、その汗に濡れた肩をさすり抱きしめてやる。
「大丈夫。わたしがついている。大丈夫」
 呼吸が落ち着いてきた。日陰をさがす。郵便局のすこし向こう、日がささないファミマの駐車場にベンチが見えた。そこへ麻里絵を座らせ、ハンカチで真っ赤な目頭をそっと押さえてやる。
「私が戻ってくるまで、ここを動いちゃダメだよ。絶対に」
 厳しく言い置いたわたしは、ジュースと日傘を麻里絵に押しつけると、戸田公園駅へ向かって走り出した。ロータリーで客待ちするタクシーを呼んでくるためだ。
 走りながら自問する。
 わたしは、麻里絵の親友と言えるのだろうか。千鶴先輩でさえ、彼女の異変に気づいていた。なのにわたしは、心のどこかで麻里絵に嫉妬していたのは何故?──



 たった数キロのあいだに何度、停車を命じただろう。麻里絵はタクシーに乗せられて間もなく吐き気を訴え、ついには胃の内容をぶちまけてしまった。正露丸をかみつぶしたような表情の運転手に頭を下げ、汚れたシートを清掃させられ、脱力しきった麻里絵を車内かからひっぱり出すまでに、途方もない労力と時間を費やしていた。結局、麻里絵の自宅がある氷川神社の参道にたどりつくまでに、三台のタクシーに手を挙げていた。
 重心が定まらない麻里絵を支えて、つるバラがからみつく門の前に立つ。防犯カメラで見ていたのだろう、家政婦を引き連れて飛び出してきた麻里絵のママに、
「軽い熱中症だと思います。そんなに心配はないと思うんですけど、ゆっくり休ませてやってください」
 みなまでは言えなかった。それでも辞去する間際、まだ何か聞き出したそうなママに、
「あの、麻里絵は……」
 言いかけて、やめた。上がり框に横たわる親友の視線が、うすく開けたまぶたの隙間から釘を刺していたせいだ。麻里絵は静かに目を閉じ、細く長く息を吸い込んだ。
「わたしなら、もう大丈夫。気分が良くなったらLINEするから」
 心配だった。心配だったけど、背を向けるしかなかった。親にも言えない秘密を知るわたしがずっとここにいたら、麻里絵は心配で気絶すらできないだろうから。

 自宅へと向かう足どりは重かった。
 武蔵一の宮の氷川神社、その表参道を左に折れ、ゆるい下りのバス通りへ入る。西日がもろに背中を炙る道の先は、積み木を重ねたような家ばかりが目立つ住宅街になっている。参道を折れてからふたつ目のバス停、『庚申塚』の真ん前がわたしの住いだった。
 申し訳ていどの前庭を数歩で渡り切り、呼び鈴を押すこともなく鍵穴にキーを突っ込む。弟の朝日は部活で帰宅が遅い。ママがまだ帰っていない、というより、朝まで帰ってこないことに気づいていた。隅田川で溺れかけたわたしを看護するために、ママは病院の誰かと夜勤を交代してもらっていたんだった。
 格子戸を開けると同時に、ハチローが飛びついてくる。全身でわたしの帰宅を歓迎するビーグル犬の、老いて白くなりはじめた頭をひとなでしてからキッチンへ向かった。
 タイマーがセットされた炊飯ジャーを見送り、レンジに乗っけられた鍋の中身を確かめる。七分くらいに煮込んであるクリームシチューとミネストローネ。弟の朝日が帰ってから火を入れればいい。こうすれば出来立て食べることができ、しかも腐ることもない。こういうのを、合理性と愛情のコラボレーションと言うんだろうな。
 キッチンの小窓がオレンジ色に染まっている。弟はこんな時刻に帰ってくるはずもないし、お腹もすいていない。足元にまとわりつくビーグル犬に顔を近づけ、
「ハチロー、ハウス!」
 玄関の定位置──パパが生前、愛用していたクッションなんだけど──で待つよう命じておいてから、ねだるような犬の鳴き声に送られて階段を登る。身体をベッドに投げ出した時になって、ようやく気づかされた。
 この家には、わたしとハチロー以外、誰もいない。
 シーツに顔を押しつける。
 いきなり涙が込み上げてきた。
「パパ……どうして死んじゃったの?」
 まぶたの裏側を、楽しかった思い出がめぐりはじめた。
 家族四人で出かけた八景島。ジェットコースターに乗って、わたしだけが悲鳴を上げなかった。中二の夏だから、パパが亡くなる少し前の思い出だ。笑顔で大波をかぶてはしゃぐ朝日を見たのは小六の夏休み、大洗のプールだったよね。シーラカンスを観たのは福島の水族館。ティーンズに仲間入りしたばかりの秋だ。次は、ピーカンの湯沢。朝日はまだ、そり遊びしかできなかった。古い記憶が、パラパラ漫画のようにめくられ、そして、現実と回想の境目がわからなくなった。

 暗いトンネル。
 遠くに見えるちいさな光。
 すこしずつ大きく、強く、まぶしく、わたしを包み込む。

 視界が開けた。
 ジョン・レノンとヨーコ・オノが抱き合うポスター。
 さいたま新都心のミュージアムでパパが買ってきたものだ。書斎に貼ってあったのを、形見分けにもらったんだった。
 意識が浮かんでいたのは、自分の部屋だった。
眼下にわたしが見えた。
 トリコロールのユニフォームを着たまま、ベッドに突っ伏している。
 死んじゃったのかな?──
 そう思っただけで、意識が肉体へ近づいていく。
 寝息が聞こえた。
 生きている。
 ママが言うところの体外離脱。わたしは戸惑わなかった。むしろ楽しもうとさえ考えていた。
 思った通り、ドアは突き抜けることができた。たぶんフローリングの床板にも同じことができたんだろうけど、階段に沿って一階へ降りる。キッチンのデジタル時計は、午後七時に近くを刻んでいたがリビングに灯りはない。。弟の帰宅はもうちょっと後だという確信があった。今日は水曜日。女性同伴客に限り、一の宮通りのカラオケ店が出血大サービスをしてくれる。ちょうど一週間前、彼がバドミントンのラケットを抱えた女の子と、カラオケ店へ入っていくのを偶然にも見かけてしまった。
 ちょっとした興味が湧いていた。私が念じさえすれば、男子高校生の彼が、ドアに鍵をかけてまで守ろうとする秘密のジャングルへ侵入することできるはずだった。
 ふわり、という表現が正しいかはわからないが、私の意識は、リビングの真上に位置する弟の部屋へと舞い上がっていく────やめた。
 いたずらに他人のプライバシーをのぞいちゃあダメ──
 ママに言い渡された御法度が、歯止めをかけていた。さらに、あることに気づいて憂鬱な気分になってもいた。
 ママは、体外離脱できることを告白した。もしかしたら、わたしがのぞこうとしていた弟の秘密や、私の部屋の引き出しのなか身も、とうの昔にのぞき見ていたんじゃないのか──
 目を閉じてかぶりを振る。意識だけの存在なのに、まぶたを閉じれば視界が閉ざされるから不思議だった。ママは、わたしのプライバシーをのぞき見てはいない。そう言い切れる証拠はなにもない。だけど、
 いたずらに他人のプライバシーをのぞいちゃあダメ──
 御法度を突きつけたときのママの目は、真剣そのものだった。あれは、自分自身への戒めもこめて告げられたのではないのか。ママと私、同じ能力を持つもの同士、互いのプライバシーをのぞかないという紳士協定としての意味もあるかもしれない。
 玄関にいたはずのハチローが、リビングに浮かぶ私を、尾を振りながらまっすぐに見上げていた。ためしに、ちょっとだけ動いてみる。今年で六歳になるビーグル犬の目は、正確にわたしを追っていた。声をかけてみる。
(ハチロー、わたしが見えるの?)
 尾の振りが強くなる。音声としてかは怪しいけど、彼にはちゃんと伝わったみたいだ。
 生身の人間にも聞こえるのだろうか。もしかして、姿も見えたりなんかして──
 俄然、試してみたくなっていた。
 ハチローの傍らに舞い降り、白くなりはじめた頭をなでてやる。
(いい子で留守番してるんだよ。朝日が帰ってくるまでには戻るから)
 尾の振りで応じたハチローの瞳のなかを、わたしの指が素通りする。愛くるしいビーグル犬の頭部が、ヴァーチャルに浮き上がった3D映像であるかのように。
 ハチローの甘えた声に見送られ、玄関ドアを突き抜ける。まだ青さが残る空へと一気に舞い上がり、大宮駅の方へ振り向くと、さいたま新都心のビル群が、夕日を従えて黒く浮かび上がっていた。
 丹沢に沈もうとする太陽を目指して飛ぶ。眼下を流れていく家並みの感じからして、わたしの移動速度は自転車より早く、原チャリよりは遅いという感じだった。
 氷川神社に向かって、テールランプの列がつづいている。あの赤い光が尽きる辺りに、麻里絵が傷ついた心と身体を横たえる豪邸があるはずだった。
 これから私は、親友がひた隠しにするプライバシーをのぞき見ることになるかもしれない。いや、たぶんそうなる。ママは、いたずらに他人のプライバシーをのぞいちゃあダメ、と言った。だけど、きっと許してくれると思う。わたしが目論んでいることは、いたずらじゃあない。大切な親友にとりつく卑劣漢をとっちめるためなんだもの。



『杉崎』と書かれた表札の前に降り立った時に、ちょっとした迷いが生じていた。
 もしも、麻里絵とその家族に霊感があったなら、わたしは間抜けな闖入者として映ることになる。その場合、どう言い訳しても面目が立つよう、まずは杉崎家のご両親の顔を拝むことに決めた。
 重厚な扉を突き抜ける。中庭をはさんだ先、床から天井までガラス張りになった部屋が、杉崎家のリビングなのだった。池の上に浮かんだまま、中の様子をうかがう。コの字型に並べられたソファ、とびきり大画面のテレビ、ホームバー──絵に描いたようなお金持ちの部屋がそこにあった。応接セットから離れた位置に、キッチンを隔てるカウンターがあり、ダイニングテーブルには人影がある。
 おしゃれな感じの中年男性。麻里絵のパパだ。ダメージ加工されたジーンズ。ラムネ色のサマーセーターからは筋肉質の腕が伸び、ほどよく日焼けした口元にはつややかな髭が蓄えられていた。
(なあ、恵子)
 唐突に男性の声が飛び込んで──いや、頭の中で響いた気がした。ずいぶん距離があるのにハッキリ聞こえた。口髭の男性に意識を集中する。
(麻里絵に付き添っててやらなくてもいいのか?)
 カウンターの奥から、麻里絵ママが、料理を乗せたトレーを手に現れる。
(さきほど、東栄町の石坂先生に往診していただきました。熱中症と言っても、たいしたことはなさそうだから、ゆっくり休めばいいって、おっしゃいましたけど。もし、明日も具合が悪そうだったらって、大宮赤十字の紹介状をくださいました。あそこなら、白倉さんのママも勤めていることだし)
(誰? 白倉さんって)
(麻里絵と仲良しの東子ちゃんのママ。救急フロアの師長さんを任されているのよ。なにかと便宜を図ってくれると思います)
 窓の内側で、髭面が大きくうなずくのが見えた。
(そりゃあ願ってもないことだけど、明日まで様子をみるって……。そんな悠長なこと、言ってていいのか?)
 麻里絵ママは、パパらしき男性を一瞥して、食卓に料理をならべていく。
(石坂先生を信じましょうよ。赤十字みたいな大きな病院は、かかりつけの先生が紹介状を書いてくれなきゃ、一瞬足りとも診てももらえないんですから)
(……でも、やっぱり心配だな。ちょっと俺、麻里絵の様子をみてくるわ)
(やめてください、麻里絵を起こすような真似は! 年頃の娘って、父親が部屋に入るのを極端に嫌がるんですから。お気持ちはわかりますけど、少しは落ち着いてくださいな)
 すでに私は、不機嫌顔でビシソワーズをすするパパの傍らに立っていた。念のため、彼の耳元にささやく。
(お邪魔します)
 気づかないのを確かめてから、普段訪れているように、リビングの横から暗い階段を上り、この家でもっとも日当たりのいい部屋の前に立つ。
 ノックする指が、そして顔がなんの抵抗もなくドアを素通りする。
 いた、麻里絵だ。ベッドにではなく、机に向かってケータイ──スマートフォンの画面を見つめている。
 背後にそっと忍び寄って、ささやく。
(こんばんわ、麻里絵)
 反応がないことはわかっていたけれど、顔をのぞき込まずにはおれない。
 血走った目で彼女が見つめていたのは、ツイッターの画面だった。
《ミス・F大の激ヤバ写真みつけた、なう》
 最初の文字列で、わたしは凍りついた。
 日付は先月になっている。
 もっと早く気づいてやるべきだったんだ。
 鼻をすすり上げる音が聞こえる。
《ビーチクの下のホクロが可愛い》
《俺も見てえなー、ちくしょう!》
《尻に、ハート形のアザがあるんだ。この写真も見つけたよ》
 もう、文字を追うことさえけがらわしい。だけど、見るべきなんだって言い聞かせる。彼女を救ってやれるのは、たぶん私だけだろうから。
 麻里絵の指が、日付順にツイートを呼び出す。下着の色やデザインが、事細かく記された、そんなろくでもないツイートがつづき、
《美少女の生写真、たくさんゲットなう。そんなに欲しけりゃあ、売ってやるよ》
 最後のツイートにはURLが記されていた。
 ダイレクトメッセージの着信音が流れ、すかさず麻里絵の親指が応じる。
《杉崎麻里絵さま。これ以上、貴女の画像を世間にばらまきたくなければ、わたくし宛に、とびきりエロい写メを返信してください。それで終わりにしましょう。でも、ちょっとやそっとの画像じゃ満足しませんよ。わたしは、あなたのすべてを見たい。この意味、わかりますよね?
 追伸:警察を含む第三者に連絡して何らかの対抗策をとられた場合、わたしは貴女に全力で反撃いたしますよ。くれぐれも自重くださいませ。》

 節電機能で画面が暗転してもなお、麻里絵は卑劣な文面を見つめていた。無視したくても、目をそらせないはず。麻里絵しか知りえない身体の特徴はもちろん、下着のデザインさえも、しかも微に入り細をうがって語られている。当てずっぽうなどではあり得ず、誰かがのぞき行為をしていることは確実だった。麻里絵が自宅以外で着替えをするとしたら、のぞきの現場はやはり戸田の艇庫だろうか。その時だった。
 フラッシュライトが閃き、シャッター音が聞こえた。
 麻里絵はスマートフォンのレンズを自分に向けている。最初の一枚は、パジャマ姿の胸元が大写しになっていた。彼女の細い指が、パジャマのボタンにかかる。
(麻里絵、やめて!)
 麻里絵の指はすでに、胸元のボタンをひとつはずしてしまっていた。
(そんなことをしても、相手の思うつぼだよ!)
 無駄だとわかっていても、叫ばずにはおれない。麻里絵の耳に届かないもどかしさが、スマートフォンを奪い取ろうとする。だけど、わたしの指は、麻里絵の裸身を映しつつある液晶画面を虚しくすり抜けるだけだった。
 とうとう白い肩が剥き出しになる。
 霊の姿では、どうすることもできない。ならば、わたしの家に横たわる肉体に戻って、ケータイで忠告すればいい。それまでに、彼女が写メを送信してしまわない保証はなかったけれど、それより他に良策はなさそうだ。
 ブラジャーの肩紐に手がかかる。ためらう指先が、何度目かの試みの末に、肩紐を華奢な肩から滑り落としてしまった。もう一刻の猶予もできない。強く念じれば、もしかしたら自動車くらいの速度で家にたどり着けるかもしれない。だけど、たとえジェット機みたいなスピードで家にたどり着けたとして、どうやったら自分の肉体に戻れるかがわからない。単純に精神と肉体を重ね合わせるだけでは、とうてい目的を達し得ないような気がしていた。
(麻里絵、お願いだから気づいて)
 彼女の傍らで念じつづけるだけ、それが私にできる唯一にして最良のことのように思えてきた。
 麻里絵の半裸になった上体が、ビクリとふるえる。わたしにも、その理由はわかっていた。窓の外で、どこかの犬が轟然と吠えている。中庭からだ。でも、この家に飼い犬はいないはず。麻里絵の背中につづいて、窓から顔を突き出す。
 ひと目でわかった。トライカラーのビーグル犬、ハチローだった。麻里絵の部屋を見上げて尾を振っている。わたしは体外離脱した状態で家を出たのだから、戸締りをしていない。そしてハチローは、前足を器用に使って玄関の格子戸をこじ開けることができる。きっと餌だ。彼に夕御飯をあげるのを忘れていた。不当なおあずけを抗議するために、わたしを追いかけてきたに違いない。
「どこのノラ犬だ、こんちくしょうめが!」
 怒声が響く。麻里絵のパパだった。低く構えて臨戦態勢に入っていたハチローめがけて、銀色に輝くなにかを振り上げる。たぶんゴルフクラブだ。
 窓から麻里絵が叫ぶ。
「お父さん、いじめちゃダメ! その犬、東子ん家のハチローだよ」
 麻里絵パパの手から、ゴルフクラブが滑り落ちる。そのすきに、わたしはハチローの傍らに降り立った。
(いい子。この人は悪い人じゃない。さっきは、ちょっと驚いただけ。勘弁してあげて)
 長い舌で鼻っ面をひと舐めするハチロー。緊張が解けたサインだった。
「こいつ、よく見りゃ可愛いもんだな」
 言いつけ通りハチローは、麻里絵パパがさしのべた指をひとなめして軍門に下ってみせた。なのに──
 麻里絵パパの腕の中で、ハチローが低い唸り声を上げる。わたしにもわかった。悪寒としか表現しようのない、どす黒い圧力みたいなものが、頭上から降り注いでくる。ハチローが見上げる夜空に、ぼんやりとした赤い光が浮かんでいた。人の形をしてはいるが、輪郭が定まらない。顔にあたる部分には、目鼻らしきものが浮かんでは消えている。
 冷めた意識で気づいていた。こいつはママが言う、とびきりタチの悪い霊なんだって。
(お前は生霊だな)
 しゃべった。声は、頭の中心に響くような感じがする。
 ママの忠告を、あらためて胸に刻む。積極的に話しかけてくる霊は悪い霊。話しかけられても応じてはいけないのだ。
 麻里絵の部屋へ飛び込む。ベッドに腰かけ、泣きじゃくりながらも胸のボタンをとめはじめた親友を隠すように立ちふさがる。逃げようと思えばできた。だけど、そうしなかったのは、こいつこそが麻里絵を苦しめている元凶なんだって予感があったからだ。
(答えろ。おまえは誰だ。どこから来た)
 私を追いかけるようにして、窓から赤い霊が入ってきた。さっきより輪郭が明確になっていたが、顔の造作まではわからない。ただ、嫌らしい笑みを浮かべていることだけはわかった。
(クスリはどこだ……)
 クスリ?──。心に呟いたはずなのに、
(そうだ、クスリだ。幽霊になれるクスリ……。おまえは、どうやって手に入れた?)
 まるで読心術。うかつに言葉を思い浮かべられない。
(答えないのなら、白状させてやる)
 恫喝を残して、赤い霊の姿がかき消える。次の瞬間、足首を冷たい感覚が覆いつくした。
 床から、赤い色の腕が生えていた。ごつい指が私の足首をつかんでいる。恐怖が半分、驚きが半分。霊の姿では、触れるものはすべて素通りする。なのに今のわたしには、足首を触られている実感があった。もしかしたら、幽霊同士ならば互いに触れ合えるのかもしれない。だったら──
 予感は的中した。最初の蹴りが、足首をつかむ指を捉える。爪先に手応えがあった。赤い霊も指先に鋭い痛みを感じていたはずだ。悲鳴と怒号をごちゃ混ぜに吐き出しながら、赤い霊はわたしを追いかけてくる。もはや、気づいていた。あいつが危害を加えられるのは、わたしのような精神的存在だけなんだってことに。
 これを利用しない手はない。すかさず、上空へと移動する自分をイメージする。赤い霊を、できるだけ空高く引きつけてやるつもりだった。移動速度はわたしとほぼ同じ──ではない。わずかずつだけど、距離が詰まってくる。不敵に笑う口元がどす黒い言葉を投げつける。
(逃がさん。必ず、おまえを引き裂いてやる)
 揺れ動く赤い輪郭のなかから見つめる目玉が、炎をまとった悪鬼の眼差しに思えた。冷たい感触が足首をかすめる。
 もうダメ。捕まってしまう──
 思わず目をつぶる。

 あまりに唐突だった。悪寒に似た気配が遠のいていく。
 駅前の高島屋越しに、西口のソニックシティビルが見えていたから百メートルは上昇しただろうか。赤い色の霊は、はるかに低い高度に漂っていた。輪郭がくずれ、もはや人の形を成していない。赤い色も薄れている。
(ちくしょう、降りてこい。このドブスめが!)
 ドブスかどうかはともかく、判断できることがひとつ。あいつには、行動範囲に制約があるみたいだ。
(今度出会ったら、必ずひどい目に合わせてやる)
 ぼやけた輪郭のなかに、目鼻が見えなくなった。背を向けたんだと思う。高度を下げていくにつれて、人の形と赤い色を取り戻していった。麻里絵の家には向かわずに、氷川参道に沿って南へと飛んで行き、さいたま新都心の歓楽街に赤い色を埋没させていった。
 安堵のすきまから、新たな疑問が顔をのぞかせる。
 おまえは生霊だな?──と、あいつは言った。ニュアンスからして、わたしと同じように肉体から抜け出た精神だと考えるのが無難だ。
 いつのまにか、麻里絵の家の甍が足元に近づいていた。瓦屋根を突き抜けて、麻里絵の傍らに降り立つ。涙で視界がにじむのか、彼女はパジャマのボタンを掛け違えている。できることなら、彼女に気づかれぬよう、そっとボタンを直してあげたかった。だけど、霊の姿ではできない相談だった。
 やがて麻里絵はベッドにうつ伏せになり、枕に顔を押し当てむせび泣いた。
 いろんなことがあったんだろう。
 優しい子。そしてか弱い子。かけがえのない親友に寄り添う。
 これまでに麻里絵の前に現れた人間は、すべて善人か、彼女の歓心をひきたい男の子だけだったんだろう。悪事には免疫がないぶん、悪人の要求を鵜呑みにしてしまう。
 麻里絵は、枕の下からスマートフォンを取り出した。さっき撮った半裸の写真を、画面に呼び出す。『画像データを消去しますか?』の問いに、彼女の指が操作パネルの上をさまよった挙げ句、『はい』を選択したのをたしかめ、わたしは目を閉じた。
(正解だよ、麻里絵。写メなんか送っちゃいけない)
 やがて、寝息が聞こえてきた。
(おやすみ。わたしがついててあげる)
 親友が再び目を覚ます時まで、添い寝してやるつもりだった。まもなく弟の朝日が家に帰ってくることや、わたしを追いかけてきたハチローの存在を忘れて。

ゴースト・リンク③


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