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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑦   空のうえの戦争・特攻隊

《 空のうえの戦争 》

 空襲はあったけれど、幸いなことに、僕の家にはケヤキの木がいっぱいあって森みたくなっていたから、B29はその上を避けて通った。上空の飛行機から見たら僕の家はケヤキに隠れて見えなかったんだ。
 杉七の校庭や屋上には軍隊がいて、飛んできたB29に高射砲を打っていた。けれど性能が悪くて、1万メートルも上を飛んでいるB29までは飛んでいかずにみんな途中で落ちてしまった。夜の襲撃にも探照灯(今で言うサーチライト)で飛行機を見つけては打っていたけど、みんな外れちゃって一機も落とせなかった。
 
 ある晴れた日、青空にB29が十機くらい飛んでゆく中に、小さな日本の飛行機が胴体ごと体当たりして、一機のB29を墜落させたのが地上から見えた。その下にはらはらといろいろなものが舞って、成宗っていう阿佐ヶ谷から歩いて10分ほどのところに落ちていった。 道端で見ていた一同が拍手した。僕も学校でB29だ、グラマンだ、ロッキードだと、敵機の見分け方を習っていたから、B29が墜落したのを見て嬉しかった。
 日本軍は特攻隊と言って体当たりでぶつかって行ったけど、そのほとんどが体当たりする前に撃ち落されていた。日本は攻撃する弾さえ無くなってきて、あるのは捨て身の勇気だけだった。
 
 またある日は、僕の家の真上でぶつかって燃えながら落ちていって、荻窪の先の高井戸に墜落した。B29に乗っていたアメリカ人はパラシュートで助かったのに、ぶつかった日本人は死んだ。
 
 夜間に襲撃してくる敵機を見つけるため、夜には高射砲(サーチライト)がゆっくりとグルグル回って空を照らしていた。敵機が見つかると空襲警報を鳴らして知らせた。頭の上で敵機のブーン、っていう爆音がして、次は「ヒュルルルルー」と爆弾を落としてくる音が聞こえる。今でも覚えてる。なんとも嫌な音。
 まだ僕の家は良かった。燃えなかったから。隣同士でもほんの数メートルの違いで、爆弾で燃やされて家が無くなってしまった人と、残った人がいた。なんて理不尽なんだろうと思った。

《 特攻隊 》

 日本軍はだんだん敵を攻撃する爆弾が無くなって、仕方ないから飛行機を体当たりさせて、みずからの命とひきかえに敵の飛行機をやっつける作戦をとった。神風特攻隊だ。
 多くの少年たちもこれに志願した。僕の周りにもいたみたいだけど、親父とお袋はそのことは決して僕に話さなかった。将来、僕が志願したらいけないとでも思っていたのかもしれない。
 もし僕が15歳になって特攻隊に志願した場合、それをダメだと止めることは許されなかった。非国民だって、犯罪者になるから。

 友達のいとこが15歳で特攻隊に自分から志願して、死んじゃった。その後に、国から「菊の御紋」の形のお菓子が送られてきて、それをみんなで食べたって。当時、砂糖は本当に貴重だった。
 そんなものより、いとこのお兄さんには生きていて欲しかったんじゃないかなぁ。お兄さんの写真が一枚しかなくて、複製してみんなで分けたそうだ。

 みんな国のため、勝って家族が平和に暮らせるためにって、死んでいったんだ。

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