私の芸術運動182理想郷

世界を変えるという事について昨日は恋人と夜中まで話しました。

私は油絵画家を志す上で、とある言葉をふと思い出します、それは「世界を変える気がない芸術家は辞めた方がいい」という言葉です。

極端な言葉ですが私はその言葉になぜが背中を押される事があります。

私は世界を変えてやろうと考えるよりかは、私が芸術をやれば世界が変わらないわけが無いだろうと思っているから、根本にそれがあるのです。しかしそれをあえて、ならば世界を変えるために何をするのか?について考えてみるのも良いと思いました。

実際私が絵を描いてから世界が変わったか?と言えば変わりましたけど、それは私の芸術性が世界を変えたわけじゃなくて常に世界は変わるものだったからです。しかし、しかしですよ?

私が絵を描いてきた8年という年月を私がもし絵の道に進まずに他のことをやっていたらどっだったか?と考えると私はそれもまた違って世界だったと思うわけです。つまり私のこの8年の画業は何かしらの影響を与えている事はまず間違い無いでしょう。

次のステップとして、意識的に何をどのように変えていくか?を決めてそれに向かって動いてゆくのも楽しそうだなと思いました。

世界を変える事が夢にはなり得ないけれど、より良い世界が開けるなら私だけに留まらず世界中のみんなで開くべきです。

つまりは私の理想郷を目指せば良いという事です、よく無いと思う事を良いなと思う事にする為に33歳のフリーターの私が何かをし始めるのも面白いと思いますし、みんなで作り上げている世界なのだから誰かがその中でのけものにされるのは違うなと思うわけですが、それはあくまでも生い立ちや、性別、外見で判断される世界は間違えているという事です。

私の思う個人的な理想郷というのをまず話すと、アトリエがあり、裏手には山があり、ふらっと散歩に出かけたりできて、本があり、映画がありお茶と珈琲があり、自分で何かを育てて食べて、スーパーで足りないものは補って、生きていく事です、いやいやそれは贅沢だよという人もいるでしょう、そうやって生きていけたら良いに決まっているけど社会はそんな甘く無いよ!と。

だけど本当にその生活が選ばれし金持ちしか送れない生活でしょうか?

一昔前はみんなそんな生活だったんじゃ無いかな?特に日本という農耕民族の社会はそうだったんじゃなかったっけ?ひもじいと言いながら笑って一汁三菜。

空いた時間に読書して、絵を描くこともできたけれど。みんな刺激を求めて、何かを欲してきた結果今の社会が生まれたように思います、本当にみんなが幸せになる為に今の社会や街が築かれていますでしょうか?

本当に人が平和に、幸せに生きていくのに今以上の贅沢が必要でしょうか?有り余っている人と無い人がいて、その全体が今よりさらに良い生活というものを望む、無限に満たされることのないループに入ったような気がします。

誰のために?何のために?

私が前回と前々回でのブログにも書きましたが、半分しか感じ取れないからなんじゃないかな?と思うわけです、だから満たされない、欲求不満なわけです。

一から10までの数字の中で偶数しか見えてない人と奇数しか見えない人、お互い半々しか見ていないようなそんな気がします。

今持っているものを増やしても満たされないのは至極真っ当です。

じゃー10全てを手にした人が幸せか?逆に持っていない人が不幸か?というとそういう感覚では幸せになる事はないということです。

お互いに補える、学べるようになってます、持っていないのではなくて知らないだけだと私は思います。

私は芸術もそのうちの一つのピースであり、感覚的に一から10までを感じ取るためには欠かせないものだと私は考えています。

みんなが芸術家になろう!!ではなくて、そういう感覚にも触れる余裕が大切ということです。

芸術を投資や投機目的で捉える人はお金を求めているわけです、詰まるところ、今に感謝できることや、自然を愛でる事や、他に対して愛情を出す事が今の人間には必要だと私はよく感じます。

多分ですがこれだけでも世界はかなり変わると思います。

それは自ずと芸術性を帯びてくるだろうと私は思いますし、そういう世界ならば、私の理想郷も金持ちしか送れない贅沢な生活だからと諦めるような事じゃなくなるんじゃないかな?と思います。

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