私の芸術運動181奇遇奇

今日は、昨日の記事の続きのように書いてみようと思います。

私は他の人が忘れている事を覚えていて、他の人が覚えている事を忘れる。

同じ体験をしたのになぜが覚えているものが違うという事、みんなが奇数を覚えていたら私は偶数を覚えているような感じだろうか?

だけど私自身実感として感じる部分もある、良いなぁと思う物事を考えながら頭の隅っこではこの良さわかってくれる人いるのかなぁ?と思う事が何度もある、つまり私が思う良さ!というものが他人にとっては良さでは無いかもしれないなと思っているのである。

だけどそんな感覚的な事は人間みんな違うという事は間違いないわけで、みんなそれぞれが自分の思う良い!!というものを持っている。僕、私にはそんなものは無いというひとにもちゃんとそういうものがあるわけです。

だから私は自分のこの感覚を大切にしておきたいと思う、それが私であり、たとえそれが私一人だけであってもそれが私の思う良さ!!であるならそれは良い!!もしそれがふと誰かの心に共鳴する事があったならそれも良い!!

他の誰かが良い!!と思う感覚に自分を合わせて生きていく事が全てなら結局右往左往して誰かにとって良くて誰かにとっては良く無いという事になる、じゃあその結果自分にとってはどうだったか?と思い返すとなんかちょっと苦しいという思いが心に残る気がしてしまう。

それが仕事なら、割り切れるしそうであるべきことの方が多い、だけど自分の人生と捉えた時にそれがどういう事なのか?を考えて見れば自ずと何か思う事があると思う。

要はバランスであり、フィフティーフィフティーならいいバランスだとも言えないのか難しいところですね。

しかし私の画業、芸術運動に関してはバランスなんて要らない、私が思う良い!!というものこそ良い!!のです。

私の良い!!が他の誰かの覚えていない事だとしても、私は良いと思っている。

他の誰かが覚えている良いというものを私が絵にしようとしているわけじゃ無いのです。

消費者に向けて提供するものじゃ無い、言ってしまえばニーズに合わせた商品じゃ無いのです。

私の芸術でやりたい事は、ただ皆さんに思い出してもらいたいだけです。

ん?なんだろうこの感覚

から始まり、それが次第にその人の心の中の忘れられた偶数を思い出していくような

そうなれば奇数しか覚えていなかった人の中に偶数がピタリと収まって、自分が見えてくるような、そういう事を描きたいのです。

新しい価値を提供するとか、新しい価値観をとか、そういう事じゃ無くて、そこに価値や価値観を思い出させるという事です。

そうなれば人生が変わりますし、それは自ずと世界を変えてゆく足掛かりとなるかもしれません。

綺麗でオシャレなデザイナーズマンションのテーブルで一人飲む珈琲もいいです、だけど狭い畳の部屋の窓辺で飲む緑茶も美味しいんですよ。

と言いつつ私は今ドトールコーヒーショップで珈琲飲んでますけども。笑

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