私の芸術運動228画家になったら

いつか成果が出る、いずれなんとかなる、そうやって騙し騙し最近は生きてる、別に自分に嘘をついてるわけじゃない、だけどそれは嘘は!ついてないというだけなのです。

私は何があってもこれまで、大丈夫!なんとかなる!と思って生きてきた、実際なんとかなる程度の事しかしていないから、やんわり刺激的で安全圏を出ない冒険、かといって自分を危険に晒す様なことをわざわざしたいわけでもない。

何が言いたいか?というと、このブログのタイトル通り私の芸術運動についての事なのです。

客観的に聞いたら別に大したことのない、取るに足らないことなのかもしれない、私自身ふとした時に完全物質的な現実世界に放り出された様な感覚になって、芸術なんてなんの意味があるんだ!!と叫びたくなる時がある

他の誰かが私に描けと言ったか?

他の誰かが私の絵を見たいと言ったか?

他の誰かが私に諦めるなと言ったか?

そんなことを言っているのは私だけなんだ

この世界で私1人だけ、でも、その1人が私で、しかも熱望している、これを無視する事ができるか?死ぬまでそれに蓋をして生きていけるか?

もし仮に蓋をしたとして

歳をとって死期が近づいた頃に自分の心を振り返るといつも聞こえてくる「画家になるんだ!」という言葉、それが実は遠い過去ではなくて遠い昔から変わらず今も耳元で聴こえていることを思い出したら、私はきっと泣いてしまう、なんでやらない?なんでやらなかった?と自分を許せなくなる、目からポロポロと涙を流しながら何かを叫ぶだろうし、周りにあるものを手当たり次第に投げると思う、まるで子供みたいに、この世界で私1人が自分に熱望している、この世界は多数決じゃないことを知る、たとえ私1人だけだったとしてもそれがどれほど熱を持った事かわからないほど私も馬鹿じゃないでしょう?

だから私は画家なのです。

本当は時間も忘れて絵を描いて、アトリエに篭ったと思ったらいきなりリュック一つ背負ってどこかに旅に出て行って、帰ってきたらまた絵を描いて、本を読んでコーヒーを飲んで、たまには仲間と酒を飲みながら絵の話を言って聞かせてみんながまたかよーという顔で私を見て、そんな生活を送りたいと考えているけれど、そうできない理由を色々探してしまうとキリがなくて、どう考えたって無理なんじゃないか?と思ったりする、だけど私にはそれが出来ると思っている、無理だけど出来ると思うこのギャップを埋める方法はまだわからない、何故か別に焦りもしてない、自由を得たくて右往左往している今が自由なんじゃないか?と思う事がたまにある、なりたい自分になるために自分はどうする?という事がまさに自由であり、そこが人生の実というものに思える、それを収穫するのはその後空いた時間に暇つぶしにするとして。笑

何より私の中にはその熱量がある、これがなければ始まらない、この熱量だけで私は貧乏な20代を過ごしてきた、ガス、電気、水道、携帯、が止まって、家賃も払えなくなったり、差し押さえされたりしてもそれは不自由じゃなくて自由だった、バイトもいくつもやって、幾度となく一人旅に出た、心に熱があったからなんだってよかったんだ。

私の父親は若くして亡くなった

私はそんな父の年齢になった時、つまり30歳になった時、人生の分岐点だと思った、普通に30歳ともなれば将来のことを考えて板についたことをするし考える、それにしても遅いとさえ思った、周りの友人は結婚して、子供もできて昇進して、愚痴を垂れて生きている、愚痴を言えるほどに暇で自由で収穫の時期に差し掛かっている、だけど私はここからの10年間が勝負だと思った、20代ほど体も軽くなく、世間も優しく無くなった今が勝負なんじゃないかって。

変なビジネスに関わっているとか、いい金儲けの話があるわけじゃない、ただ純粋に自分の絵がまだまだここからだと思った、自分の心の為に、心の熱量に応える為に、これからだって旅に出て、絵を描いて、コーヒー飲んで映画見て本読んで、仲間と酒を呑んで、出会い別れを繰り返して行く、40歳になった頃自分がどんな人間になっているか?

路頭に迷い、社会生活も送れなくなっているかもしれない、だけどそれがこの30代での自分の行いの結果なら仕方ない、その時になったら考える。

今私が考えるのは自分が画家としてどういうふうに生きていくか?それを10年間かけて考え行動していく、恥も承知で。

10年後にまた会いましょう。

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