私の芸術運動62人類の進歩って

人は無くしてからじゃないと気づけない事が多いでしょう。

見つけた時はそれはそれは嬉しいものです、しかし次第に慣れてしまって当たり前と思う事が多いでしょう。

適応と言えば人間の能力の一つかもしれませんが、実際に人間が適応して成長しているのか?というと疑問が残ります。

極寒の地に家を建て、室内に最新の暖房器具を置いて、食料も備蓄して、娯楽も用意して、厚着をして寒いなーと言いながら外の散歩をする生活を送ったとします、それは極寒の地に適応したと言えるのか?

家を建てたのも、最新の暖房器具を発明したのも、設置したのも、数々の娯楽を考え出したのも、保温効果の高い衣類を開発したのも、多分きっとその住んでいる人じゃーないのです、人類にはそういう面がとても大きいように感じます。

実際に人間が適応して成長、もしくは進化している?のか?ととても疑問に感じます

人間はあくまでもアナログであり、自然界に属する生物です

生物単体で見ればあまり強いとは言えない種族です、しかし、知識を溜め、受け継ぎ、適応してきたと言えます、しかし人間自身は何も変わらないのです、人類の知識の集積が今であり、その恩恵を受けているにすぎず、昔の人間よりも今の人間の方が優秀か?と問われると疑問です

例えばわかりやすく、百年前の人間よりも脳が発達して明らかに違いがあるというならば確かに人間は生物的にも進化していると言えますが。

しかし実際は人間は強烈にアナログであり、儚い生物でしかありません

テクノロジーが進歩しても、人間が生物的に進歩したとは一概には言えないと私は思うのです。

つまりテクノロジーがいくら進歩しても人間は決して手放してはいけない生物としての、人間としての能力があったと思うのです。

動物園で飼育された動物が自然界に帰れなくなるのと同じです

もし今、私以外の人間と文明が消えたなら、私は今の文明を再興させることができるのか?答えはノーです、寿命を全うできるのか?すら怪しいのもです。

私は今の文明の利器を使って生きていますが、その仕組みを再現できるほどにはとても理解しているとは言えないのです

私は借りて生きているにすぎません

当たり前じゃーないということです

そんな事を考えるのにどんな意味があるのか?と問われると確かに困りますが、一見無意味に見える事は実は人間が見落としてきた重要なことのようにも感じてきます

人間として今の私が出来る事

それは芸術しかありません

自分の芸術以外は全て借り物です

死ぬときには全て没収されるでしょう

私の手元に残るのは今まで自分が突き詰めてきた芸術しか無いのですよ。

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