相手は私が思うところの相手です/落語「三人無筆」より
〔このnote記事では、古典落語「三人無筆」の内容やサゲに触れながら、自分に問いかける趣旨で書いておりますので、この点ご留意願います〕
1 はじめに
江戸時代、といってもどの時的範囲を捉えるかにもよるでしょうが、職人などの庶民が「無筆」、つまり文字を書くことができないのは特段めずらしいことではなかったそうです。落語世界の庶民 大工の熊五郎も無筆でありましたが、葬儀参列者の名を帳面に記入する帳付係を請けてしまいます………
今回は、古典落語「三人無筆」を素材にした下記拙文をもとに、現実認識の仕方、とりわけ「相手をみる」とはどういうことかについて、限られた視点からではありますが考えてみたいと思います。
2 落語「三人無筆」への一視角
(1)自他相違の思い込み
「相手も自分と同じようなもんだと速断して、現実はこれとは違った」というモチーフも一般的なら、「相手は自分とは違うはずだと速断して、現実はこれとは違った」というのも普遍性のあるモチーフのように思われます。前者を仮に「自他同様の思い込み」、後者を仮に「自他相違の思い込み」と名付けておきましょう。
「三人無筆」のお話は、後者「自他相違の思い込み」に依っているということになります。
熊五郎は、自分は無筆だが源兵衛は字が書けるはずだと考えますが、現実はそうではない(一つ目の自他相違の思い込み)。むしろ源兵衛も、自他相違の思い込みで行動しているところにおかしみが生じていることは言うまでもないことです(二つ目の自他相違の思い込み)。そのうえ、熊五郎と源兵衛は、参列者は俺たちと違って字が書けるはずだと思って各自記入方式を実行しますが、これも現実に裏切られる(三つ目の自他相違の思い込み)。最後に無筆の半次が遅れてやってくること自体は、三つ目の自他相違の思い込み系列の続きにすぎないものです。
ところが振り返ってみますと、もう一つ「自他相違の思い込み」が隠れていました。熊五郎とご隠居親族との挨拶の場面です。熊五郎は、このご親族はいやに長く頭を下げる丁重な挨拶をするおひとだなと思うからこそ、自分が頭を上げたときにまだ相手が頭を下げたままだと、これはいけないと思ってすぐ下げるわけです。熊五郎の心境は、「自分はそんなにまで長く頭を下げて挨拶はしない。だがこの相手は長く頭を下げるという流儀のおひとだ。同じ程度の礼節を示さないと失礼になるから、相手と同様に長く頭を下げよう」というものです。しかし実際は、相手も同じように何度か頭を上げたのですが、そのたびごとに熊五郎が頭を下げているので、相手こそ熊五郎のことを「いやに長く頭を下げる丁重な挨拶をするおひとだな。これに合わせないと」、と思っていたというわけです。双方、自分と相手は違う行動様式の人だと思い込んでいたら、現実は、ふたりとも同じような常識的な頭の下げ時間をする同様の人間であり、単にタイミングが僅かにずれていたために、挨拶の止め時が、頭を上げた瞬間が運よく一緒になる時まで延ばされる、という構造です。双方とも相手に対する認知は修正されずじまいです。
(2)共通原理「相手をみていない」
「自他同様の思い込み」も「自他相違の思い込み」も同じく思い込みですから、その原理は当然共通しています。「相手をみていない」ということに帰着します。「自分と相手は同じようなはずだ」というのと「自分と相手は違うはずだ」というのは、全く逆のことを指し示すようでいて、実は「相手をみていない」という同一原理から発生する二つの現象ということになります。
相手をみる、すなわち「現実」をみることができるかできないか。これが天地を分けるのです。
(3)相手をみるということ
これでようやく、このお話で問うべき問いにたどり着きました。それは、「はぜ熊五郎は相手をみることができなかったのか」です(「落語ですから」「そういう設定なんだから」「熊五郎はそういう奴です」という回答はそれはそれで正しいと思います。ただ、この古典の扱い方としてもったいないような気がします)。
熊五郎が相手をよくみていれば、ご隠居親族は普通程度の挨拶をする自分と同じような人間なんだと分かったはずであり、源兵衛も自分と同様に無筆だと分かったはずであり、参列者も自分たちと同様の人間がくるのであるから、これまたほとんど無筆だろうと予想できたはずです。しかしそれができない。それは何故なのか。
なんだか当たり前のようなことですが、思い込みを発生させるのは、吟味省察をしていないからです。吟味省察は時間を要します。心理的ゆとりが必要です。焦燥感に駆られたり、他者から自分がどう見られるかなどと余計なことに囚われたりしていては、「現実をみる」という、柔軟な心と集中力を要する作業には取りかかれないのです。
熊五郎は喉を通過中の大福に心がもっていかれています。だから、相手の所作が本当はよく見えていない。頭を下げているから見えていないのではなく、感じ取れていないのです。面目や格好を云々する熊五郎は他者の視線を意識していましたが、自分のための他者の視線ですから、相手をみるということにはつながっていおらず、むしろこれを意識しているから現実をみることに取りかかれない。熊五郎は高慢ちきな源兵衛をよく思っていないから、彼への認知が高慢ちきで止まってしまって、付き合いの中でそれ以上の様相を感知するに至らず、彼も無筆だと気付けない。“もう参列者が来てしまう、記帳のお役をどうしよう“ と事象に迫られあおられているから、参列者の人物像に思いを馳せられない。こうなると、卒然と思い込み速断し、そうでありながら自信をもって行動する熊五郎が出来上がるというわけです。
3 おわりに
この落語自体は大変楽しいものなのですが、上記の構造が、私にはどうしても現代社会の人間模様、国際政治の歴史や現状と重なって見えてしまって、笑うに笑えないような気分にもなります。とりわけ恐怖すら感じるのは最後、現実をみない熊五郎と源兵衛によって、半次がこの世からその存在を消されてしまうことです。自分の観念から世界をみる、すると現実と整合せず矛盾に直面して行き詰まる、そこでこれを一挙に打破しようと「現実否認」に行きつく。「現実否認」の先には、深い省察を欠いた不合理な行動を陶酔的に遂行することが、すなわち破滅が待っています。
しかし、ここでもう一度振り返ってみますと、私たちは確かにこの落語に大いに笑うことができていた、という事実にも気づきます。これが何を意味するか。それはこのお話を、つまりは落語世界の愛すべき住民 熊五郎たちを優しい眼差しで見つめながら広い意味で省察対象とし得ていた、ということだと思うのです。相手から距離をとっている、だから笑える。これがいわゆる「自分事」になってしまっていたら痛切過ぎて本当に笑えないように、文学の一つの、そしてとても大事な役割は、このように対象から距離をとり、自分が個として省察対象と向き合うことを可能とするということにあるはずです。そうあれば、このお話を聞いて笑い合える私たちにはきっと希望があると思うのです。
*参考文献:麻生芳伸編『落語百選 秋』211-228頁(ちくま文庫,1999)
*補注:「三人無筆」のバージョンによっては、「熊五郎」が「八五郎」になっているもの、「半次」が「八五郎」になっているものもあるようです。
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