見出し画像

個人を犠牲にするシステム学/落語「鹿政談」より

1 はじめに


今回は,落語「鹿政談」を,個人の自由の視点から考えてみたいと思います。

この記事は,下記PDFで述べた「個人の自由」に関連し,個人を追い詰めるシステムをイメージ的に例解するものです(念のため:この記事は鹿政談を対象として現行法を解説するというような種類のものではありません)。


一般に知られている落語「鹿政談」について,拙い下記テクストを作成したので,これをベースに考えていきます。



2 テクスト

【テクスト「鹿政談」】
 奈良三条横町に,豆腐屋を営む与兵衛がいました。四十二歳で,妻子との三人暮らしです。

 豆腐屋の朝は早い。
 豆腐を作り,二番目の豆の臼を引いていますと,外でゴソッと何か音がします。与兵衛が顔を出して見てみると,大きな犬が,桶の雪花菜(キラズ.卯の花のこと)をむしゃむしゃと食べています。雪花菜も売り物であり,与兵衛は「しっ,しっ」と言って追い払おうとしますが,犬は桶に鼻先を突っ込んだままやめようとしません。
 与兵衛はそばにあった薪を一本とって投げつけました。すると,打ちどころが良かったのか悪かったのか,薪は犬の眉間に命中して絶命してしまいました。ところが,与兵衛が近づいて確認してみますと,死んだのは犬ではなく鹿だったのです。


 奈良では鹿は神獣とされ,お上より毎年三千石分の餌料が下されます。鹿の守役の代官が置かれ,大和守護職を務める興福寺の職分領域ともなっていました。そして,神鹿を殺した者は故意でも過失でも死罪とするとの法規があったのです。

 守役の代官 塚原出雲と,興福寺の番僧 良然が連名で署名し,与兵衛の処罰を求める願書が奉行所に提出されました。

 奉行は根岸肥前守
 与兵衛,代官の塚原,番僧 良然,町役らが居並ぶなか,調べが始まりました。

 根岸は,与兵衛の生まれや病気の有無などを尋ねますが,与兵衛は正直に答えるのみです。
 すると根岸は,鹿の死骸をあらためると言います。白洲に置かせた死骸を見るなり根岸は,「これは鹿ではない。犬である。皆の者,よく見よ」と言い出します。町役は喜びながら,「はい,これは犬にございます」と答える。根岸は,「誰でも勘違いというものはある。願書は取り下げれば済む。どうだ,守役,番僧」と投げかけます。
 しかし代官の塚原は,「恐れながら,私は長年鹿の守役を務めております。犬と鹿とを間違うはずはございません。これは明らかに鹿でございます」と答えます。根岸は,「そうは言うが,これには角がない。角がないのにどうして鹿と言えるのだ。もう一度よく見よ」と再度塚原に投げかけます。塚原は口元を歪ませ,「お奉行様ともあろうお方のお言葉とも思えません。鹿は春に若葉を食べ,これにより弱るとみえて角を落とします。これを鹿のこぼれ角,ないし落とし角と申します。角の落ちたあとを袋角,ないしこれを鹿茸ともとなえ...」。
 根岸は塚原を厳しく見据えて言います。「もうよい。鹿の落とし角の講釈は必要ない。奉行はもとより知っている。塚原,では聞くが,神鹿のために毎年三千石分の餌料が公金で下付されている。これにより鹿が腹を空かすはずはない。なぜ,与兵衛の雪花菜を食べるような腹を空かせた鹿がいるのだ。側聞するところによると,この餌料の公金をくすね,奈良の町民に高利で貸し付け,挙句に役人がその権柄をもって取り立てているとの話がある。奉行としては,与兵衛の本件より先にその件の調査をしようとも考えている。誰が誰と図って,そうしたことを行っているのか... さてその上で聞くが,これは鹿か,それとも犬か,どうだ塚原」。
 塚原は震えだし,トンチンカンな返答のすえ,犬であると答えます。

 塚原と良然は願書の取り下げを申し出て,与兵衛は死罪を免れました。



3 「鹿政談」への一視角


鹿を殺すと死罪となるとの法規が不合理である,との認識でこのお話はスタートしています。それは,根岸肥前守が最初から与兵衛に助け舟を出す質問をしているところ,また,「これは鹿ではなく犬である」との根岸の無理筋な論理を町役らが喜んで承認するところに明確に示されています。

そして,この不合理な法規の適用を避けようとする根岸の二つのアイデア,①鹿ではないと事実を歪ませる詭弁と,②訴えを続行するなら不正を調査すると脅して願書取下げを迫る,が着目されますが,お話として大変面白いのですが,こうした論理構造は古今の物語を見渡せばそれほど珍しいものではないと思います。


ここで注目すべきは,根岸の機知ではありません。
着目すべきは,「なぜ守役や番僧が,そこまで与兵衛の死を求めるのか」です。

相手の死を求める,これは尋常ならざる事態です。単にそのような法規があるから,では理由になりません。

彼らは何が何でも相手を死刑にする決意があります。この強固な決意は,何度も根岸に問われても塚原が態度を変えず,落とし角の講釈まで垂れはじめ,挙句にトンチンカンな返答をさらすことに明瞭に示されています。塚原にとって,態度変容が心理的に容易ではないことがよく分かる流れです。

なぜそうまでして与兵衛の死を求めるのか。それはなぜなのか,がここでの問いです。

与兵衛を追い詰めているものは何か。
与兵衛に覆いかぶさる闇に,鹿にまつわる,権限を有する人的な結合体と,これと不可分の法規体系がぼんやりとみえてきます。すなわち,鹿を神獣として保護,鹿の餌料の公金受給,守役や番僧という管理者の設置と権限授与,鹿殺傷者への厳罰,という法規体系が一体となった,守役 塚原を表面的な代表とする人的結合体が背景に厳然と存在しているのです。

こうした法規にバックアップされた人的結合体の彼らにとっては,鹿殺害の刑罰の実効性を示すことは,鹿にまつわる法規体系全体が実効性を強め価値を高めることにつながります。
それはすなわち,同法規体系によって利権をえている構造がより強くなることを意味し,それは自分たち構成メンバーの「威信」をも高めることにつながる。利益確保体制が強化されるだけではない,こうした深い心理的要素があるはずです。
そうすると逆に,この不合理な法規が蔑ろにされることは,構成メンバーの威信が侮辱され,軽視されることを意味することになります。ここに,逆上的に反動してくる要因が生まれるのであり,これが「粗暴な言動」となって表出することになります。本件では,「与兵衛の死を求める」という尋常ならざる行動となって象徴的に示されていると考えます。

守役として,不合理な法規のやむを得ない適用としての個人の犠牲,というものでは全くないということです。彼らは,個人を犠牲にすることを厭わないどころか,何やら嬉々として情念に駆られたように個人を追い詰める。「何が何でも個人を犠牲にしなければならい」という強固な意思。この暴力的で利欲的で情念的なメンタリティーがどのように育まれてきたのかは非常に興味深い研究対象であり,前述の論理はそのごく小さな側面に関する一試論です。



4 おわりに


個人を犠牲にするシステムは,利権構造がその背景にあり,その最も有用な道具は残念ながら法規であることが多い。法規は,本来こうした利権構造の結合たる諸集団を解体し,個人の自由を守るためにこそ制定され運用されるべきものですが,「政治」が利権諸集団に侵食されて機能不全に陥れば,当然そこから生み出される法規は利権諸集団を守り強化するものへと醜く変容する(法規は一見してもそれが見えないようにカモフラージュされて出来上がってくる)。これは「政治」の失敗です。その歪んだ法規が廃止も改正もされずに生き続けていけば,「政治」の失敗は完成に至り,ついに個人を追い詰めていくシステムが自動的に駆動し始めることになります。




5 補論


「鹿を犬と事実認定する」という無理筋の論理ではない論理で根岸がお裁きを下すとしたら,という思考実験をしてみるのもよいでしょう(戯れに下記)。

奈良において鹿は神獣であり,これを殺した者は故意・過失を問わず死罪となるとの法規の存在は動かしえません。

ではこの法規の趣旨は何か,という事に進みます。

まず,「奈良において鹿は」ということは,奈良(大和国)という国においては,ということであり,他国(隣接する河内国,和泉国など)では同法規のような法規はないとみてよいでしょう。ということは,奈良(大和国)だけに特有の事情によって,同法規が存在していることになります。

(実証考証が必要ですが一切省いて論理だけで考えて)奈良にだけ同法規があるのは,大和国という「神域」に棲まう鹿であるがゆえに,神獣たる「神鹿」であるといえ,それゆえかかる神鹿を害することは重罪たるのであって,よってこれを死罪とすることが正当化されるからである,ということができます。なぜなら,他国にあっては,同じ鹿であっても,これを害しても死罪とされることはないことからすれば,これらを「神鹿」とみていないことが明らかだからです。

さて,次に今回の鹿についてです。

今回の鹿は,本当に「奈良の鹿」でしょうか?
延々とのびている大和国の国境(クニザカイ)には,これを完全に塞ぐ柵も壁もありません。獣は国を超える。しかも,奈良の鹿であれば,下付された公金から十分賄われる豊富な餌により,お腹を空かすような鹿ではありえません。

つまり,「与兵衛の雪花菜を食べるような鹿は,奈良に棲まう鹿であるはずがない」と根岸は言うことできるように思われます。

そうすると,今回,与兵衛が殺してしまった鹿は,「「神鹿」たる奈良の鹿」ではなく,「偶然他国から越境してきた単なる鹿」であると推認することが可能でしょう。

そうであれば,「神鹿を守るため」(趣旨)という同法規を適用する前提を異にしますから,本件の鹿は同法規が予定する「鹿」にあたらない,という法解釈・適用をすればよいと考えます。



*見出し画像 出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク

【参考文献】
木庭顕『誰のために法は生まれた』(朝日出版社,2018)
麻生芳伸編『落語百選 夏』(ちくま文庫,1999)





【関連記事】




この記事が参加している募集

古典がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?