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岩手県沿岸縦断300キロを終えて考えたこと(前編)~リスク受容と人間~

 県知事選で歩いて以来、9年ぶりの岩手沿岸縦断が終わった。岩手県沿岸北部の青森県境(洋野町)から岩手県沿岸南部の宮城県境(陸前高田市)まで、国道45号線を中心に、所々リアスの海沿いに点在する漁村に寄り道しながら、連日、野外放送で注意喚起される熊の出没情報に慄きながら、10日間かけて合計302㎞を46万歩で歩き切った。最後の4日間は、足が腫れあがり、痛み止めを飲みながら足を引きずって歩いた。

 何のスケジュールもない行き当たりばったりの道中、農家がオニギリを握って持ってきてくれたり、見知らぬ漁師の嫁が思いに共感して一緒に歩いてくれたり、民泊させてもらった家に突然フレンチの有名シェフが料理を振るまいに来てくれたり、重い荷物を次の目的地まで運んでくれる人が現れたり、痛めた足をテーピングしに来てくれた漁師もいた。人の温かみが身に染みた。その中で、震災後9年間の話をいろいろな立場の方から聞かせてもらった。震災9年後の巨大防潮堤と高速三陸道に挟まれた新たな街並みをじっくり見させてもらった。目を凝らし、耳を澄まし、体で十分に感じることができたので、後はこれからじっくり頭で考えてみようと思っている。このレポートは、その思考の途中経過の記録である。

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リスクテイクすることの意味

 東日本大震災の翌年、2012年のことだったと思う。津波で街が壊滅した岩手県大槌町の高校生たちが、未来の街づくりについて議論する場に立ち会ったことがあった。そこで、ある女子高生がこんな発言をしていた。「津波のリスクから逃れるために内陸部に引っ越すという町民がいるけれど、人口が多い都市には例えば交通事故など過疎地より高まるリスクがある。だから、どこに暮らしてもリスクゼロのところなんかない。そのリスクとどう向き合うかが大事だと思う」。子どもならではの本質を突いた発言だなとドキリとしたことを今でも覚えている。ちなみに、そんなことを指摘する大人は被災地をあちこち飛び回ったけど皆無だった。

 そうなのだ。彼女が言う通り、わたしたちはどこに暮らしていようとも、常に様々なリスクにさらされている。大雨による浸水のように予見できるリスクもあれば、無差別の通り魔殺人のように予見できないリスクもある。仮に、まったくリスクのない世界があったとして、そこで生きる人間はどうなるだろうか。《リスクゼロ社会》では、全ては予見され、管理され、いつも想定内のことしか起きず、進歩や成長がない。そんな世界に人間は生きる意味を見出すことができるのだろうか。

 そもそも、わたしたち人間にとって、生きることそのものがリスクと言えないだろうか。なぜなら、わたしたちは誰ひとり死から逃れることができず、すべての人にいつか必ず等しく死が訪れるのだから。そしてその死がいつやってくるのかは誰にもわからない。だから、生きていること自体が常にリスクと隣り合わせなのである。しかし日ごろ、そんなリスクを考えて生きている人がどれだけいるだろう。わたしたちはこの不都合なリスクから目を背けて生きている。そして《リスクゼロ人生》と勘違いして、漫然と生きながらえている。つまり、自分のただ一度きりの人生を生きそびれているのだ。死というリスクと向き合えば、漫然と生きながらえている暇などなくなるだろう。無事に朝を迎えられたことに日々感謝して生きることができたら、見える景色はがらりと変わるはずだ。

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消費財と化した人間関係の果て

 人間関係も同じだ。愛する人に巡り合い、誓い合い、共に歩んでいく。また、信頼できる友に出会い、盃を交わし語り合う。でも、人間の心は生き物と同じであり変化する以上、リスクとは無縁ではいられない。いつか自分が心変わりし相手を傷つけてしまうリスクがあるし、逆に相手が心変わりし自分が傷つけられるリスクもある。近年、そのリスクを恐れて、相手と深い関係を築くことを避ける人たちが多いという。

 イギリス「ガーディアン」紙のコラムニスト、スチュアート・ジェフリーは、「その役目を果たした」古いものを置き換えてしまう新しいタイプの関係を調査した結果、「かかわり合いをもちつづけることへの恐れ」が観察される傾向にあることを指摘し、「かかわり合いを軽くすることで、リスクにさらされることを最小限にする技術」がより一般的になっていることを発見している。これが、モノにとどまらず、人間関係にも及んでいるのが「今」の流動化社会だと、ポーランド出身の社会学者のジグムント・バウマンは言う。

 わたしたちは消し去ることができない過去すべての瞬間の痕跡を引きずった現在の上に立っているので、未来を支配しようとする意思は、その過去によってその自由が奪われる。近しくて大切な存在が煩わしい重荷になるかもしれないというディレンマに対し、バウマンは「だから、かかわりを持つことはある種のリスクである」とし、ゆえに、幸福を求めてやまない私たちにとって、今や人間関係すらモノ同様に刹那的消費の対象となっていると指摘している。そして、実際にはそうした刹那的消費によって、幸福は私たちの手から遠ざかっていくのが現代の流動化社会の実像であり、この流れは不可逆的に進行していると、悲観的に未来を見ている。

 確かに、《リスクゼロ関係》で、傷つくことや傷つけられることのリスクから逃れられることもできるし、未来を支配しようとする意思がその過去によってその自由が奪われるリスクも回避できる。しかし、わたしたち人間は単なる使い捨ての消費財だろうか。もっと似合うもの、もっと似合う人を探す人生は、際限がないんじゃないだろうか。それでたとえ刹那的な快楽を埋めることができたとしても、決して満たされることはない。そんな人生では、苦楽を共に積み重ねることによって培われる愛や友情の素晴らしさに一生触れることがない空虚な人生になってしまうのではないだろうか。共に長い年月を過ごすことで心に深く刻み込まれた人間の持つ"すがたかたち"の鮮明な印象は、相手の死後も脈々と自らの心に波打ち、消えることがなければ、死んで尚、自分の中で生き続けることになる。それこそが刹那的消費では決してたどり着くことができない「人間生命」ではなかっただろうか。

 一定のリスクを引き受ける自覚を持つことで、愛に溢れる幸福な人生を感謝して享受することが、人生を豊かに耕す。リスクを受容しながらも、人間として互いに成長し、愛情や友情などの人間関係を育むこと自体が人間が生きることの意味だと、私は思う。

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巨大防潮堤と盛り土で遅れた復興

 リスクゼロ思考は、被災地のまちづくりにも如実に表れている。その象徴が、海と陸を隔てる巨大なコンクリートの壁、防潮堤である。津波が集落を飲み込み、地区内の約250世帯のうち、流失を免れたのがわずか10世帯という釜石市両石地区。この9年間の苦悩の歩みを若手漁師のリーダーから浜の番屋で聞かせてもらった。この地区は震災前より高い14.5mの防潮堤をつくり、すり鉢状の地形を埋める形で18mの盛り土をし、居住地域をつくる復興計画を立てた。総事業費40億円。ようやく家を新築し、仮設住宅から出ることができたのが、震災から8年後の昨年。当初の計画が何度も延期された末の完成だった。結果、離散した地域住民で戻ってきたのは全体の3分の1程度。その多くが、痺れを切らして、他の土地に家を建ててしまったという。

 「今となっては、何十億という巨額の資金を費やして防潮堤と盛り土をする必要があったのか疑問も残る」と複雑な心境を吐露していた。それよりも、防潮堤も震災前と同じ高さで、盛り土もせずに、津波が来たら流されることを前提とした住宅を建設する費用を負担してもらい、後は避難路を整備する。これであれば格段に安く済んだし、何より8年もかけずにすぐにできたから、住民の多数も残ったはずだと。

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「非日常」と「日常」のせめぎ合い 

 100年に1度あるかどうかの津波という「非日常」と、残り99年と364日の暮らしという「日常」にどう折り合いをつけるのか。この「非日常」を入り口にしてしまった結果、「日常」を取り戻すのに莫大な時間がかかってしまっただけでなく、日常が損なわれ、失われた例を宮古市でも聞いた。新しく巨大防潮堤が建設された地区で暮らす70代の女性は「海がまったく見えなくなってしまった。自然はただの一度たりとも同じことがない。毎日、表情を変える海の景色を見て暮らすのが好きだったのに、それができなくなってしまった。日常の楽しみがなくなってしまい、何のための防潮堤かと虚しく思う」と語ってくれた。

 「非日常」と「日常」の間にどう折り合いをつけるのか。どこまで「非日常」のリスクを受容し、一方でこれまでの「日常」の暮らしを守り、維持するのか。この議論をすれば、地域によって出てくる結論は千差万別なはずだ。それこそが文化なのだ。例えば、自分の地域は漁師や旅館も多く、海と暮らしや生業は切り離せないから、リスクが大きくなっても、防潮堤は低いままでいい。その代わりに避難路を整備し、住民同士の相互扶助を高めるという選択肢だってあったはずではないだろうか。金太郎飴のような横並びで、《リスクゼロ地域》を目指す復興を目の当たりにし、改めてこれからの災害多発時代におけるリスク受容について考えざるを得ない。真の意味での民主主義が未成熟な「一億総観客社会」の日本は、このリスク受容の議論が非常に苦手である。しかし、もはや避けて通ることはできない。

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自然の持つ二面性と共存する 

 今回、歩き始めたときから、熊本の球磨川の氾濫により、人吉市と球磨村などが甚大な水害に見舞われたことが大きく報じられていた。数十年に一度の大雨という前提に立ったこれまでの防災の常識はもはや通用しない。数十年に一度の大雨が、この7年で16回起きているのだから、これまでの前提や想定が崩れている。ましてや、この前提の崩壊は今後ますます加速していくだろうし、そもそも、自然の世界では人類の想定外のことばかりだ。それでも、今のままの発想で、より強固な防潮堤やダムを全国各地に作っていくのだろうか。それで、地域や日本が持続可能なのだろうか。リスクゼロという幻想を求める発想自体を転換しなければならない。

 わたしたちの人間社会は海の恵みをもたらしてくれる「ありがたい海」と、ときに人間の命を奪う津波のような「ありがたくない海」と不可分な形で接している。同じように、人間社会には「ありがたい川」と「ありがたくない川」とが不可分な形で流れている。近代はそのいいとこ取りを目指し、治水を専門家と行政に委ね、住民は観客席に上がってしまった。科学と技術の力、そしてそれを可能にする経済の力も相まって、洪水被害は格段に減った。しかし、気候危機に伴う災害の強大化と頻発化は、これまでの成功体験からの脱却を私たちに否応なしに突きつけている。それは、自然の持つ両面性という矛盾を受容しないかぎり、問題を解決する糸口は見出せないということだ。

 そもそも、表面的なリスクの解消を目指した結果、「ありがたくない川」はある程度制御できるようになった一方で、「ありがたい川」の生態系は壊れ、豊富な魚類は消え、親水や治水を通した川と住民の暮らしの結びつきも弱り、地域社会は衰退してきたのではなかっただろうか。そう問題提起するのが、河川工学者の大熊孝氏である。大熊氏の著書で紹介していた新潟県の岩塚小学校の校歌にこんな一節がある。

 「青田をうるおす川瀬の水も 時にはあふれて里人たちの たわまぬ力を鍛えてくれる われらも進んで仕事にあたる 心と体を作ろう共に」

 川が溢れて困るから、早く整備してくださいではなく、川は溢れて地域の人々の力を鍛えてくれる、と歌っている。大熊氏は、その「鍛えられるもの」には、地域の知恵や技術、相互扶助もあるだろうし、何よりも、自分たちの手で川を治め、自分たちがこの自然と人間の里の主人公でありつづけることの楽しさを「鍛えてくれる」のではなかったか、と指摘していた。リスクを解消したつもりになるのではなく、自然の持つ二面性と共存しうる力を、と。ハードの整備と行政に依存する従来の防災は観客民主主義の最たるもので、これからは住民も当事者としてその役割を担う必要がある。そのための大前提になるのが、自然の持つ二面性を受容する姿勢ではないだろうか。

 水害というリスクにどう向き合うのか、そのリスクをどう受容するのか、つまり河川の側だけでなく、わたしたち人間社会の側が問われているのではないだろうか。氾濫が起きることを前提に、土地利用のリスク受容をどこまでやるかの、浸水リスクに応じた土地利用、建物利用の議論と合意形成をあらかじめ地域住民が主体となってやっていかなければならないだろう。

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リスク受容の先にある人生と社会

 生きることも、愛することも、まちをつくることも、リスクを一定程度引き受けることで得られる恩恵を感謝しながら享受することが大切ではないだろうか。その感謝を忘れない心の構えが、結果的に、リスクを最小化する。しかし、その感謝を忘れた途端にリスクは水面下で肥大化してしまうし、リスクをゼロに制御しようとすると、生きそびれ、虚無感にさいなまされる。リスクをゼロにするのではなくリスクと向き合うことで、わたしたちは自分が人生の主人公であり続けることの楽しさと、自分たちがこの自然と人間の里の主人公であり続けることの楽しさを取り戻すことができるのではないだろうか。我ら、人間ぞ。

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第690回車座座談会

 最後に告知を。半年間休止していた車座座談会を再開する。テーマは、今回の岩手沿岸縦断の最中にずっと考えていたこと、「気候危機と私たち」について。

 新型コロナウイルスのような新興感染症はこの半世紀あまりで約40種以上出現している。その発生原因は、森林伐採など自然環境の大規模な破壊によって生息地を奪われた野生動物が病原体を拡散するケースがほとんどだ。気候危機の原因である温暖化ガスも人間の経済活動によって排出されてきた。「ありがたくない自然」がもたらす一定のリスクを受け入れることを一切拒絶し、「ありがたい自然」の恩恵だけを根こそぎ奪おうとすることで、「ありがたくない自然」が巨大なリスクを伴って人間の前に立ち現れているように見える。それは、鏡に写った我々自身の姿でもある。人間と自然を完全に切り分ける二元論は、人間の思い通りにしようという意思の露骨な表れであり、人間中心主義の根幹を成す。わたしたちはこの人間中心主義をいかに乗り越えていけばいいのか。誰にとっても身近な「食」を手がかりに考える。

 参加ご希望の方は、高橋博之個人FacebookかTwitterまでDMをください。

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