地に足をつけること - 秘密結社「喫煙所」(第9通目)
友達と価値観を話し合うのって、意外とハードなことだよね。それぞれの価値観に触れなくても、話したり、ある程度仲良くなれたりするから、いざ話し合ってみると、まさに以前書いた「摩擦」って感じで、驚くことがある。
まず、「他の力をかりることなく、また他に従属することなしに存続すること」が「自立」の定義ならば、そんな人おらんわ〜!って辞書作った人に対して思った笑
「自立」の語源が気になって少し調べてみたら、古代ギリシャ語がルーツみたいで、哲学的というか、「自由とは?」みたいな問いが、もともとは含まれていたみたいだね。自分なりの法を持つみたいな。
それが今は、「誰にも依存せずに生きていく」「自分の稼いだ金でやっていく」というニュアンスになってきている。「そろそろ自立しなきゃ」みたいな、一人暮らしをする口実に使われる言葉になってる感あるよね。タオさんの友達はまた違うみたいだけど、自立はなんだか都合よく使われがちというか、焦燥感を覚えるようで、あんまり好きな言葉じゃないかもな。
だから「自立」に対して、特別な認識は持っていなかったんだけど、「自分の足を地面につけて、この世界で確かに立っている感覚」はあるんだよね。「自」と「立」という字が入っているから、略して俺にとっての「自立」ってことで、どうだろう笑
物事や感情に対して、問いを立てるようになってきて(そもそも"問い"なんて言葉さえ馴染みがなかった)、すごく生きている実感がある。ただ、頭を作って考え込んでいくと、どこかで息苦しくなってくる。ときには手立てがないように思い込んでしまう。だからこそ、頭との調和をしつつ、自分の身体性に着目してみる。問い続けながらも「地に足をつける」ってことの大事さが身に染みるようになった。
ゆっくり歩いて、すぐ立ち止まってしまう。ごく狭い範囲しか歩いていないような気がするけど、出発点は自分になったような感覚。初めて自分の足で大地を踏みしめた気がした。地に足がついた。たまに膝から崩れ落ちることもあるけど。いや、結構あるけれども。椅子に座ってうんうんと渋い顔をしているときがあるから。
自立したいと思うのは、なんでだろうね。自分で決めたい。誰かに依存して嫌われたくない。人に迷惑を掛けてはいけない。大人は自立するものだから。やっぱり怖さかな。失うのは怖いよね。だから、強い自分でいて、誰かに与えないといけないみたいな。そうなると、与えないと嫌われるって思考になるのは気を付けたいよね。出発点が他者になるとタフだと思う。
「地に足をつける」ってことに立ち返ってみる。地に足をつけたからといって、なんでも自分でやるわけじゃない。できることは少ない気がするし、歩みは遅いし、不安だ。でも、たとえフラフラだろうと、自分の足で大地に立つことで、いつだって世界を捉え直せるんじゃないだろうか。それは希望になるし、楽しみも増える。
自分の足で立つことは、ひとりでもないし、誰かと一緒でもないような気がする。むしろ、いつのまにか誰かを頼ってしまうし、知らないうちに誰かに頼られていると思うから、あまり頼る・頼られるで捉えていないかも。
生きてると、なんでも完璧に上手くいくわけじゃないし、役割を全うできないこともある。だから、「〜しなければ」となるぐらいなら、まずは自分を優先して、またいつか余裕があって「〜したい」となったタイミングで、それをすればいいのだと思う。
たとえば、急いでるときに道を聞かれたら、無視するかもしれない。だけど、特に予定がなかったら、目的地まで案内することもあると思う。そのぐらいの構え方が、地に足をつけるってことなのかもね。
だから、自分を出発点にして、小さいところから始めてみる。カッコつけたくなるけど、足の震えは止まらない。立ったばかりだから。立ち上がるときに誰かの肩を掴んで、一緒に転んでしまうかもしれない。でも、そういう"人間くささ"が、地に足をつけるってことなんだと思う。自立について思うところは、そんな感じかな。
・・・
今回はすっごく感覚的な話をしたから、タオさんや読んでくださった方にとって、なにかひとつでも伝わってくるものがあったらいいなと願いながら書いてみた。例にも漏れず、初めて一人暮らししたとき、「俺は自立したんだ。自由だ〜!」と息巻いてたなぁ。フライドポテト(業務用)ばっかり食べてたら、1年で9kg太った。自立を志すと太る。
【今回の問い】
【前回の問いと返事(追加の問いに対する返事)】
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