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努力か消費か労働か?

やっていることには3種類しかない
努力か消費か労働か
その三つが区別できなければ、消費者か労働者にしかなれない
決して、創造者にはなれない

大抵の人間は、消費と努力の区別がついていない
学校に行って何かを学んでいるとして、それを努力と捉えている
しかし、それは消費でしかない
金を払って教育というサービスを消費しているだけだ
あらかじめ用意された教材を、その解釈通りに読み聞かせしてもらっているだけだ
それで何かを創り出すことはできない
できるのは、そのコピーだけ
そこで教えられた根本を抜き出し、自分で再構築して新たなものを作ることもできなければ、そもそも何が根本なのかもわからない
教える側も教材のコピーである
コピーがコピーされ、回を重ねるごとに劣化していく
だから本家に直接習うことが価値を持ち、高価格となる

労働も努力ではない
決められた通りに働いて、その分の対価をもらう
それによって何かを創り出しているのではない
ただ時間を売っている
その証拠に、その労働は他の人でも代替可能だ

何かを創り出すための活動を「努力」と呼ぶとする
消費や労働は努力ではない
自分でないと創れないもの、まだ誰も見たことがないものは創れない
消費や労働は既にあるものをなぞるだけ
金を払ってなぞるか、金をもらってなぞるかの違いだけ

この世にいるのは、ほとんどが消費者か労働者だ
なぜなら、国家というシステム、企業とシステムは消費者と労働者しか求めていない
国家や企業が意図するものを作ってくれて、それを消費してくれるだけでいい
自分の力でオリジナルのものを作る人間は、競合相手である
競合相手を潰すのが資本主義の戦い方
国家や企業というシステムは、自分で何かを創ろうとする人間を潰すように動く

その潰し方には硬軟ある
システムの外に出ようとするものには厳しく当たる
国や会社にいると社会保障が優遇されるが、個人で何かやると全て自己負担
既存の流通システムの中に入れてもらえず、成果物を金に替えるルートは限られる

一方で、
消費や労働には甘い幻覚剤を混ぜられている
システムの中での労働には「意義」が与えられ、達成すると賞賛される
消費においては、商品を買うと自己実現したかのような気になる
広告により形成されたコンセンサスのランクを、金を払うことで登ることができるからだ
ポルシェに乗れる身分になった、と

だが消費しても労働しても、自分のために何かを創り出したわけではない
既存のものに自分を重ね入れただけで、それは自分ではない
自分を創り出したわけではない
ポルシェに似合う男になった、と思ったところで、それは既にあった概念で、それに乗せられただけだ

みんな何かに、常に騙されている
何に騙されているのか、それに気づかない
いつ騙されているのか、それがわからない
だが、実際はとてもシンプルだ
金を媒介としたすべての行為
そいつが常に騙している

値段の付かない行為
金に尺度を握られていない行為
それをしている時だけ、自分として生きている
それをしていない時、あなたは消費者か労働者に成り下がっている

現実の世界では、生活には金がかかる
だから、金にならないことをするためには金が必要だ
学生や扶養家族はそれがわからない
だから、平気で金を使いたがる
学生には学生時代という期限があるが、扶養家族にはそれがない
その上で、瑣末なことで平等を求めてくる
メディアが平等を喧伝するからだ
だが、そもそも平等でないのだから、平等に扱うと歪みが出る
その歪みは、最終的には出費という形を取るので更なる労働が必要となる
要するに、国家や企業というシステムは、メディアを使い平等を喧伝し、それによって労働者を労働者として縛っている

現実の世界では、生活には金がかかる
だから休日は大切だ
休日は、金にならないことをするために、金で買った時間である
休日に働いたり、休日に金を使っているようでは、どこまで行っても自分自身になることはできない

だから休日には覚悟がいる
そもそも「休日」という概念自体、労働日に対する「休日」だ
労働者であることを前提とした時間の定義である
労働日の労働のために休んでおけ
それを意図した言葉である

だから休日を休日としてはいけない
休日を休日としている限り、労働者として固定される
休日は、金にならないことをするために、金で買った時間である
創造者として生きるために、金で買った時間である
そんな日に、寝たり、買い物に行ったり、働いたり
どこまでお人好しなのか

休日は自分のために時間を使う
自分を極めるために時間を使う
休日こそ真剣
休日こそ戦場なのだ


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