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文武両道校伝説③ 匿名希望


同じ空から降ってきた水が別れるように、人の運命も異なる流れをとる

これはフランスの思想家ジャン・ボードリヤールの言葉だが、同窓会に行くと、その言葉の意味が実感として突き刺さる

同窓生というとそこに共通の何か期待するが、実際は試験によって同程度の学力レベルでスライスされた人間の集まりだ
そういう人たちが時を経て互いの類似性を確認しようとしても、思い出話以外で盛り上がれることは、実はあまりない
当時は「同じ」と思っていた仲間だが、話題が高校時代から逸れると、話はほとんど噛み合わない
「同じ」なのは学力だけで、価値観や考え方は「同じ」ではない
会社の奴らとする馬鹿話の方が、バカの精度が共通なのではるかに盛り上がる
当時、面白いと思っていた奴と話しても、こいつの何が面白いと思ったのだろう、と出土品を前に考え込む考古学者のように腕組みしてしまう

それでも同窓会に来ている奴らには「同窓会に来られるくらいには幸せ」という類似性がある
私が同窓会で確認したいのは、そこに来たかつての同級生がどんな風体になって、どんなことをボヤいているのかということではなく、そこに誰が来なかったのか、ということだ

高校の時、とても爽やかだと評判の奴がいた
彼は球技の部活に入っていて、ここではマーシーと呼ぼう
私はマーシーに対して、爽やかだと感じたことはない
むしろ、あざとい、と思っていた
だが、それを口に出せないほどマーシーは爽やかで通っていて、本人も周囲が抱くそうしたイメージに躊躇なく応えていた

今、振り返ると、マーシーはとても丁度良かった
トム・クルーズのような如何にもカッコいい何かを全面に押し出してくるような顔ではなく、欠点も嫌味もない無印良品といった感じの顔をして、歌謡曲の歌詞に出てくるような前向きなことを常に言う
運動神経は人並み以上あったので部活では活躍し、事実上の部活対抗異種格闘技戦となる全国統一体力テストでは、校内で五位以内に入っていた

クラスマッチのサッカーでは、マーシーがゴールを決めると女子から黄色い声援が飛んだが、当時はマーシーに対してキャーキャー言うのがブームのようになっていた
ちなみにこれは会社に入ってからある年季の入ったジャニオタの人に聞いたことだが、ジャニオタの人はディズニーランドも大好きらしい
そのジャニオタは「私たちはキャーキャー言えればそれがネズミだろうが人だろうが関係ないんです」と胸を張った
女子はキャーキャー言いたいのだ
そのジャニオタは40歳を超えていた
女子高生がキャーキャー言いたくなるのは当然で、彼女たちにとってマーシーは、毎日会えるミッキーマウスやジャニーズタレントのような存在だったのだ

ちなみに私の通った高校は進学校だったので、男子の数が多かった
そのため男子しかいない「男クラ」というとても不平等なクラスがあり、私は男クラだった
バットマンの「ダークナイト・ライジング」で奈落に落とされたバットマンに先輩の囚人が「ここは空が見えるからより不幸」という趣旨のことを言うのだが、それを聞いて思い出したのは男クラのことだった
クラスマッチのサッカーでゴールを決めても喜ぶ女子は一人もおらず、何のために戦っているのか、その意味を逆に問われているような気持ちになった
それでも戦い続け、相手のスネを蹴り再起不能にすると、クラスの男衆からは「殺せー、もっと殺せー」と野太い声援が飛ぶ
そんな中マーシーはフェアプレイで戦い続け、次々にゴールを決めていった

そんなわけで、私はその後のマーシーも黄色い声援に囲まれて生きていくのだろうと思っていた
多分、大学は都内の私立で、合コンがたくさんあるサークルに入り、会社は世間的に見栄えが良く可愛い子がたくさんいて、そこで素敵な嫁を見つけるのだろう、と

だがマーシーは同窓会に来ていなかった
同じ部活に属していた奴に聞いたら、その後のマーシーの人生は、あまりいいものではなかった、という
大学受験で失敗し、大学を卒業しても就職しなかったという
具体的に今何をしているのかはそいつも知らないのだが、生活は楽ではないようで、少なくとも同窓会には来ない、とそいつは断言した

「昔はあんなに爽やかだったのに」
私は残念に感じ、そう言った
するとそいつは「俺はあざといと思ってた」と言った
私は、そいつとマーシーはとても仲がいいと思っていたので、その言葉は衝撃だった
マーシーと仲良くしていられるというのは、当時はステイタスだったのだ

ちなみに、その時の同窓会には結構な人数が集まった
体育館を建て替えるので、その寄付を募るために当時の先生も出席したからだ
半分まではいかないが、3分の1くらいの同窓生が集まった

同窓会は中華料理店で行われた
クラス別に円卓に座り、すぐにも馬鹿騒ぎしたくてウズウズしていたのに、最初の30分間は学校からの寄付のお願いに費やされた
驚いたのは、誰一人、それに文句を言うことなく大人しく聞いてたことだ
それを名門校の卒業生だから、と解釈する事はできる
だが私には、みんなどうしてこんなに飼い慣らされてしまったのだろう、と異様に感じた
とっとと飯食わせろや、というヤジは最後まで飛ばなかった

その後、一年にわたって寄付の催促のメールがきた
現在連絡が取れる人、という欄と、寄付した人、という欄があり、それが月に一回くらいの頻度で1年にわたって送られてきた
私は寄付をしないと決めていたので、メールが送られてくるたびに肩身の狭い思いをした
そして、その度ごとに私はマーシーの名前を確認したが、寄付した欄にマーシーが載ることはなかった

同窓会に来た連中はある程度成功していると思っているから、その成功をアピールしたくて同窓会にやって来た
だが、一方で来ない連中もいる
行くと自分が惨めになるからだ
それ自体はそれでいい
同窓会とはそういうものだ

だが、この寄付のメールは気に食わない
寄付しないことを晒し続けることで、寄付を集めようとする策略はさすが進学校と思うが、それでいいのだろうか?
私たちが受けた教育の目的とは、金を首尾よく集められるようになることだったのだろうか?
彼らは高校3年間の教育によって、飯も食わずに30分間、大人しく寄付の話を聞くほど高い忠誠心を植え付けられていた
飼い慣らす、という意味において、この教育は成功だ
使う側からすると、とても使いやすい人間を作り出した

だが、メールを見ると、弱者へ対する思いやりは見当たらない
高校としては生徒を高い偏差値の大学へ入学させ、高い給与をもらえるようにしたのだから、高校にそれ以上のことを求めても「筋違い」と肩をすくめられて終わるのだろう

だが、高校の3年間を形成したのは学校の先生じゃない
その3年間は私たち生徒が作った3年間なのだ
そこにはマーシーもいて私もいた
私はマーシーのことは好きでも嫌いでもないが、今になってマーシーのような境遇の人たちが肩身の狭い思いをしなければならない、という事態は許せない
勝ち組が勝ち組同士で勝ったことを分かち合うのは別にいい
だが、その勝ちに思いやりがなければ、その勝ちは浅はかだ
武道では勝ってもガッツポーズはしない
それが、負けた相手に対する礼である
文武両道を掲げているくせにこの程度か!
あんたらの言ってたことは全くの無意味だったね、先生
私はがっかりしたのと同時に、その後の人生で本当に先生と呼べる人たちに出会ったことを心から幸せに感じた

そんなわけで、私はその後も寄付をしなかった
それが私が示せる唯一の反抗の意思表明だった
だが、我が母校は進学校である
私より頭がいい奴がいた
ある時、寄付した人の欄に「匿名希望」という文字が現れたのだ
これで新たなメールが送られてきても、誰も肩身の狭い思いをすることはない
誰がやったのかわからないが、流石だ
こんな鮮やかな解決策があったなんて!
私は、自分が寄付をしないことでしか反抗の意思を示せなかったことを情けなく思った

すごい奴がいる
話すに値するようなやつは誰もいないと見限った母校であるが、思いやりを持っていて、しかも頭のいい奴が少なくとも一人いる
一人いるだけで、私には充分だ

そいつがこの先、名乗り出ることはないだろう
そんな野暮なことをするような奴ではないはずだ
だからそれが誰なのか、永遠にわからない
永遠に正体がわからない名もなき英雄
そんな素敵な奴と同じ学校だったなんて!

コロナが明けたので、年末、久しぶりの同窓会が開かれる
「匿名希望」が同窓会に来るのか来ないのかわからないし、来てもわからない
だが、私は行ってみたくなった
少なくとも私たちは「匿名希望」の仲間だったのだ
口だけの文武両道を掲げた教師たちの教え子としてではなく、「匿名希望」の仲間として同窓生に会ってみたくなった

同じ空から降ってきた水が別れるように、人の運命も異なる流れをとる
とはフランスの思想家ジャン・ボードリヤールの言葉である
私はこれにこう続けたい

異なる流れをとった人の運命は、流れ続ける限り同じ海へと辿り着き、同じ空へと還る

教室という枠がなくなっても、同じ枠で学んだという関係は、それで終わることはない
「匿名希望」と共に学んだことを私は自分の誇りとし、次は自分が「匿名希望」のように活躍し、「匿名希望」にあっと言わせたい
それが同窓生というものだ
私たちは教師の教え子ではなく、「匿名希望」の仲間なのだ
自分のことは、自分で定義する


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