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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 70

 六月の終わりになって、刑部の屋敷から赤子の泣き声と、男の野太い声が聞こえてきた。

「おお、よしよし、どれどれ襁褓かな? お乳かな? 襁褓は大丈夫、おお、これはお乳か」

「何やってるんですか、あんたが胸を出してどうするんですか!」

 大騒ぎである。

 安に遅れて、内蔵助もやってきた。

 太若丸の屋敷では、刑部の妻らに用意させた肴で濁酒を飲みながら、騒ぎを聞いていた十兵衛らが笑っていた。

「相変わらず、騒がしい夫婦じゃな」

 と、藤田伝五行政(ふじた・でんご・ゆきまさ)が酒を飲みながら煩そうに顔を顰める。

「いやいや、仲睦ましいことで羨ましい」

 と、明智左馬助秀満は笑う。

「しかし、我が子の顔見たさに、黒井を留守にするとは………………」

 と、溝尾庄兵衛茂朝(みおぞお・しょうべい・しげとも)は眉を顰めた。

「まあ、良いではござらんか、子は誰も可愛いものでござります」

 と、十兵衛は微笑んでいた。

 久々の十兵衛の家臣揃い踏みである。

 残念なことに、明智次右衛門光忠だけは、八上城に残って様々な処理をしているとのことである。

「次郎右衛門殿にも、お会いしたかったですな」

 と、稲葉刑部少輔が、伝五の空いた杯に酒を注ぐ。

「あやつ、初めて城をもらって色々と張り切っておるのよ。そんな心配せんでも、下のものに命じてやらせろと言ったのじゃがな」

「初めての城ですからな。もともと細かいところに気を使う男ですから、次右衛門は。下のものには任せておけんのでしょう」

 と、左馬助。

「それが間違いのもとじゃ。よいか、主君は動かんでよい、山のようにどっしりと構え、考え、何事かあれば、家臣に命じてやらせればよいじゃ。主君があっちこっちと動いていたは、肝心なときに大将がおらんと、家臣らが不安がるぞ。だいたい、大将があれやこれやと口を出してはいかん、一度命じたら、あとは家臣らがやりやすいようにじっと待っておるのが良い。そんな大将、儂なら願い下げじゃ」

「そうで、ござりましょうや? 某は、細部まで気遣う主君のほうがようございますが」

 と、庄兵衛。

「おぬしの言う細かさとは、十露盤勘定じゃろ?」と、伝五は空で十露盤の玉をはじくように、指先を動かす、「そんなもの、戦場で何の役に立つ? 良いか、戦で大事は、槍とこの足じゃ!」

 たんと膝を叩く。

「十露盤も、十分に役に立ちまするぞ。戦に大事は兵糧、それをどれぐらい集めなければならないかと、算術するのはこれでございまする」

 と、庄兵衛は懐から使い古した十露盤を取り出し、じゃらじゃらといわせる。

「ええい、それを鳴らすな。その音を聞くと、虫唾が走る」

 そういう行政の目の前で、茂朝は嫌みのようにじゃらじゃらといわせた。

 それを十兵衛や左馬助は、笑って見ていた。

「ええい、そうやって細かいと下のものがついてこんぞ! 内蔵助を見てみい、内蔵助を。あいつなんぞ、下のものに任せっきりで、子作りばかりしておるが、なにも大事なかろうが」

「まあ、確かに」 

 と、左馬助は頷く。

「大丈夫ですか、そんなので?」

 刑部は心配そうである。

 まあ、従兄妹の嫁入り先である、心配になるのは当然か。

 そういうところに、がらりと戸を開けて入ってくるのが内蔵助である。

「いやいや、参った参った、なかなか寝なくて」

 と、にこにこ顔で刑部の隣に腰を下ろした。

 刑部が、聊か不審そうな顔で見ている。

「どうなされた、刑部殿? 濁酒を」

 と、自ら杯を突きつけ、強請っていた。

 みな、くすくすと笑っている。

 内蔵助は立て続けに三杯呷って、

「で、大殿のご様子は如何ほどでしたかな?」

 と、別の話をしてきた。

「うむ、息災であられえた」

 十兵衛が答えた。

「それは何より。それで、品々のほうは?」

「喜ばれておられた」

「それも、何より」

 と、内蔵助は喜び、さらに酒を煽った。

 此度の十兵衛の登城は、双名洲(四国)全土に着々と勢力を伸ばしている長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)からの献上品を披露するためである。

 鷹十六羽に、砂糖三千斤 ―― 殿は酷く喜ばれ、砂糖は馬廻り組のものらに分け与えられた。

 四国は、阿波・讃岐・土佐の三国を細川家が、伊予を河野(こうの)家が守護していた。

 が、先の大乱と内紛によって、細川家が零落、その重臣であった三好氏が阿波を支配、讃岐には十河(そごう)氏、香川(かがわ)氏が台頭、伊予も河野家の力が弱まり、西園寺(さいおんじ)氏や宇都宮氏が表舞台に躍り出た。

 土佐は国人らが支配する ―― 本山(もとやま)氏、吉良(きら)氏、安芸(あき)氏、津野(つの)氏、香宗我部(こうそかべ)氏、大平(おおひら)氏、長宗我部氏の土佐七雄である。

 そこに京から下ってきた公家の一条(いちじょう)氏も加わり、まさに群雄割拠。

 そこから頭角を現したのが、長宗我部氏であった。

 あれよあれよという間に近隣の国人らを排除していき、元親によって天正二(一五七四)年には土佐一国を支配した。

 それ以降、元親は阿波・讃岐・伊予へと触手を伸ばし、残すは阿波に僅かに残された十河(三好)存保(まさやす)の領地と伊予のみである。

 此度の献上品は、四国制覇を盤石にしようと、更なる織田家との繋がりの強化するためのものである。

「ならば、引き続き長宗我部が双名洲をどうにでもしてよいのだな? 上々、上々、早速土佐の出来人(元親)に報せよう」

 内蔵助は満足そうに、ひとり頷く。

 内蔵助の義理の妹が、元親に嫁いでいる。

 元親の妻は、幕府の奉公衆であった石谷光政(いしがい・みつまさ)の次女である ―― 幕府とのつながりを持つことで、土佐七雄のなかでの立場を確固たるものにするためであろう。

 光政には男児がいなかったので、同じ土岐氏の流れを組む明智家に縁のあった斎藤利賢(さいとう・としたか)の嫡男頼辰(よりとき)を長女の婿として迎い入れ、後継ぎとした。

 内蔵助利三は、利賢の次男、頼辰の弟である。

 土佐の出来人とは、その縁である。

 縁者であり、仲介役の内蔵助にしたら、良い報せであろう。

 夜中でありながら、いますぐにでも腰を上げようとしたので、

「あいや、待たれ」

 と、十兵衛が止めた。

「分かっておりますよ、某だって、そんなにせっかちではありませぬよ。しょんべんですよ、しょんべん」

 と、笑いながら席を外した。

「相変わらずじゃ」

 と、左馬助や伝五らは笑っていたが、十兵衛だけは笑ってはいない。

 まあ、当然といえば、当然か、殿からあんなことを言われては………………

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