【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 29
「私も、まだまだ死ぬわけにはいきませんね」
「もちろんです」と、妻の鏡姫王は怒ったように言う、「死ぬなんて、縁起でもないことを言わないでください。あなたは絶対に死にません。どんなことがあっても、私が助けてみせます」
少し涙目になっている。
やはり、この人と一緒になって良かった。
「そうですわ、死んでお姉様を悲しませないでください。もしそんなことがあれば、私、黄泉の国まで追いかけて行って、連れ戻しますわ」
額田姫王は笑顔で言う。
「いやはや、これは怖い。伊弉諾の逆ですか。ですが、こんな美女に黄泉の国まで追いかけてきてもらえると、嬉しい限りですな」
と、珍しく冗談を言う。
「あら、良くおっしゃって」
暗く沈んだ雰囲気が一気に和む。
―― そう、まだ死ねぬ!
妻のために。
そして家のために。
史に、無事この家を引き継ぐために………………
外を見ると、先ほどまでの青空が嘘のように雲が広がっている。
「あら、一雨来そうですか?」
鏡姫王が慌てて戸を閉めようとする。
そのとき、雲の一部がふとあの形に見えた ―― 夢の中の目の形に………………その眼は………………
―― あれは………………
戸が閉まり、一瞬辺りが暗くなる。
―― あれは………………
油皿に灯った火に炙られて、男の顔が浮かび上がる ―― 男は眉間に皺をよせ、何かを必死で思い出そうとしていた。
だが、何を思い出そうとしているのかさえ、もう思い出せなかった。
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