閑窓随筆 ~『法隆寺燃ゆ』蘇我氏って滅んだの?
昨日の「大化改新」つながりで、蘇我氏についてです。
古代の人の名前は面白いという話ですが、その筆頭が、やはり蘇我家でしょうね。
教科書で『蘇我馬子』とか、『蘇我蝦夷』『蘇我入鹿』などと出てくると、昔の人のネーミングセンスって、すごいなぁ~、などと思ってしまった人も多いのでは?
いまだと、キラキラネームですか?
さすがに現代の親が、自分の子に馬とか、蝦夷とかはつけないと思いますが……でも、「イルカ」はありそうですね?
そういえば、「イルカ」さんという歌手、いましたよね?
一応、あれは芸名です。
さて蘇我氏ですが、武内宿禰という伝説上の大臣の子孫だと記録にはあります。
が、有力豪族は大体武内宿禰が起こりなので、蘇我氏もそれを真似たのでしょう。
では、本当はどこから来たの?
……と、これは古代史の謎のひとつです。
大王の血縁とか、半島からの渡来人だとかありますが、河内の石川付近の豪族であったとか、葛城地方の豪族であったとか諸説ありますが、飛鳥時代に葛城氏に代わって大きな権力を持っていたのは間違いありません。
蘇我氏の系譜ですが、武内宿禰のあとに、「蘇我石川宿禰(いしかわのすくね)」 → 「満智(まち)」 → 「韓子(からこ)」 → 「高麗(こま)」 → 「稲目(いなめ)」と続きます。
「韓子」とか「高麗」の名前があるので、渡来人では? という説もあるようですね。
「稲目」のあとが、「馬子」 → 「蝦夷」 → 「入鹿」です。
この辺りは、教科書でお馴染みでしょうか?
みんな面白い名前ですよね。
「イナメ」に、「ウマコ」に、「エミシ」に、「イルカ」。
「エミシ」や「イルカ」は、乙巳の変の罪人なので、名前を変えさせられた蔑称ではないかという説もあります。
むかしは、犯罪者は卑しい名前に変えさせられるという罰もあったのです。
有名なところで、「宇佐八幡宮のご神託事件」の和気清麻呂(「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と名前を変えさせられました)とか。
「エミシ」や「イルカ」も、本来の名前から、王権に従属しない民族の蔑称や動物の名前に変えさせられたのだといわれています。
ですが、逆の説もあります。
「エミシ」は勇猛果敢な部族にあやかって、「イルカ」も当時は神聖な生き物と見られていたので、それに因んで……などと、真逆の説もあるのです。
まあ、これが真名(まな)である可能性は低いでしょうし、もし仮に「エミシ」や「イルカ」が真名であれば、生きている間はそれを他人に教えるわけがなく、当時の人は別の呼び方をしていたでしょう。
蝦夷であれば、住んでいた場所にちなんで「豊浦大臣(とようらのおおおみ)」ですね。『日本書紀』には、「毛人」とも書かれていますが、これはエミシのことです。
入鹿は、「林大臣(はやしのおおおみ)」、または「鞍作大郎(くらつくりのたろう)」との別称がありました。
入鹿が住んでいた場所に「林」があったのかもしれませんし、「林」という地名があったのかもしれません(すみません、私は探し出すことができませんでした……)
鞍作は、仏師である「鞍作止利(くらつくりのとり)」が有名ですが、技術者集団となんらかの関係があったのではないかと……、もしかしたら母親が鞍作出身だったのかもしれません。
古代では、身分の高い人は通い婚(男性が女性の家に行き、婚姻形態をもつ)が一般的で、生まれた子供は、そのまま母親の実家が養育を受け持つことになっていたので、もしかしたら入鹿は鞍作氏の庇護を受けていたのかもしれません。
大郎は「長男」の意味です。
長男ということは兄弟がいたの?
と、教科書でしか古代史を知らない人は思うでしょうが、『日本書紀』に「物部大臣(もののべのおおおみ)」という弟がいたとあります。
なぜ蘇我氏なのに、宿敵であった「物部」と名乗っているの?
と思われるかもしれませんが、蘇我馬子に物部守屋の妹(太媛(ふとひめ))が嫁いでいるからです。
そう、蘇我氏と物部氏って、意外に仲が良かったんですよ。
そうなると、「蘇我VS物部の争い」である「丁未の乱」はねつ造?
とか思ってしまいます。
崇仏派であった蘇我氏と廃仏派であった物部氏の衝突などと教科書にはありますが、実施はどうだったんでしょうか?
私は、当時の権勢を二分していた蘇我氏と物部氏が手を組むことを好まない連中が、衝突することを画策したのではないかと睨んでいます。
さて蘇我氏ですが、入鹿の暗殺、蝦夷の自死によって滅びたと思われがちですが、滅びたのは「本家」であって、傍系である「蘇我倉家」は生き延びます。
この家系が後に、「石川家」へと発展していきます。
そして、入鹿のいとこあたる「蘇我連子(そがのむらじこ)」の娘(娼子(しょうし))が藤原不比等に嫁いでいます。
この娘が、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)の3兄弟を生んでいますが、このうち房前がの後の藤原北家の祖となり、藤原氏の栄華を誇っていきます。
「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」
で、有名な藤原道長や息子の頼道は、この系譜に連なります。
そう考えると、蘇我氏は貴族の血脈の中に生き残っていくんですね。
さらにいうと、先程出ました「宇佐八幡宮のご神託事件」の中心人物である道鏡(どうきょう)ですが、彼は弓削(ゆげ)氏出身です。
物部守屋の母親は弓削氏出身、ゆえに守屋は「弓削大連」とも名乗りました。
『続日本紀(しょくにほんき)』には、道鏡の先祖は「大臣(おおおみ)」であったと書かれています。
これは「大連(おおむらじ)」の間違いで、物部守屋の子孫ではないかとの説があります。
ですが、物部の名前を持ち、大臣であった人物を、我々はすでに知っていますよね?
そうです、「蘇我入鹿」の弟である「物部大臣」です。
「乙巳の変」では、入鹿は暗殺され、蝦夷は自死しますが、弟がどうなったのか記録にありません。
私は、彼がしぶとく生き残ったのではないかとみています(『法隆寺燃ゆ』では、物部一族に幽閉されたと書きましたが……)。
道鏡は蘇我入鹿の弟である「物部大臣」の子孫で、「乙巳の変」以降賊臣であった蘇我氏の栄華を取り戻そうと、孝謙天皇に近づき、「宇佐八幡宮のご神託事件」を起こして、政権奪取を図ろうとしたのでは?
などと想像を膨らませています。
ちなみに孝謙天皇ですが、系譜を天智天皇までさかのぼっていくと、彼に嫁いだ蘇我遠智娘が持統天皇を生み、その子の草壁皇子と元明天皇が結婚 —— 元明天皇も天智天皇と蘇我姪娘の娘であり、草壁皇子と元明天皇の息子が文武天皇となり、文部天皇の子が聖武天皇(奈良の大仏で有名な天皇です)となって、その娘が帝位についています。
つまり、孝謙天皇もまた、蘇我の血が受け継がれているわけです。
「乙巳の変」で逆臣となってしまった蘇我一族ですが、その後も意外にしぶとく生き残り、血脈を続々と引き継いでいったわけですから、なかなか侮れない一族です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?