見出し画像

【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第四章「偏愛の城」 19

 西国の雄大内義隆(おおうち・よしたか)を討った家臣陶晴賢(すえ・はるかた)と、毛利元就(もうり・もとなり)の周防・長門二国 ―― 大内氏の遺産をかけた決戦である。

 天文二十(一五五一)年、陶隆房(たかふさ:改名し晴賢に)は、文治政治のもと、西の京と呼ばれるまでに繁栄した大内文化を築いた主君大内義隆を討ち、これに代わって義隆の猶子である晴英(はるひで:改名し義長(よしなが))を当主に迎える。

 大内晴英は、豊後国大友義鑑(おおとも・よしあき)と大内義興(おおうち・よしおき)の娘(義隆の姉)との子で、兄は大友宗麟(そうりん)こと義鎮(おおとも・よししげ)である。

 義隆の養子であった晴持(はるもち)が戦死したため、猶子であった晴英が次期当主として迎えられたが、義隆に実子義尊(よしたか)が誕生したため、養子関係を解消され、豊後に返されてしまった。

 だが、義尊も義隆とともに、晴賢に殺害される ―― 大寧寺の変である。

 晴賢は、大内氏の当主として、晴英を迎えるが、斯様な経緯ゆえ、傀儡になるのは必定であった。

 この際大内氏傘下にあった元就は、新当主誕生と晴賢による大内氏掌握を追認し、従属、一方の晴賢も安芸の国人の取りまとめとしての役割を、以前通り元就に任せた。

 天文二十三(一五五四)年、三本松城(津和野城)の吉見正親(よしみ・まさちか)が、打倒陶氏として挙兵する。

 これを征伐するために、大内・陶軍が三本松城を包囲、晴賢は元就にも参陣を要請した。

 元就は、動かなかった。

 これ以前に、大内氏の好敵手であった尼子氏を撃退し、陥落させた旗返山城を、元就が城代として入りたいと上伸したが、晴賢はこれを退け、自らの家臣である江良房栄(えら・ふさひで)を入れ、関係が捩れていた。

 さらに晴賢は、動かぬ元就に業を煮やして、彼を通さずに安芸の国人衆に出馬を迫る。

 安芸の支配は元就によるとの約束である。

 それを頭越しにやられたものだから、元就もこれが大内・陶と縁を切る良い機会だと、関係を断行した ―― いわゆる防芸引分である。

 これ以降元就は安芸を完全に掌握、そのまま周防へと侵攻、大内・陶との戦に入る。

 その最期の戦が、厳島である。

 厳島は、平清盛による厳島神社で有名であるが、大内・陶軍の水軍の重要拠点であった。

 これに対抗するため元就は、来島村上氏の当主村上通康(むらかみ・みちやす)に、毛利氏の一門衆である宍戸隆家(ししど・たかいえ)の娘を、元就の三男小早川隆景(こばやかわ・隆景)の養女として嫁がせ、婚姻関係を結び、味方に引き入れた。

 さらに元就は、陶方の武将たちに内通したり、有力家臣である江良房栄の偽りの誓約書をこしらえるなどして、陶軍の内部崩壊を誘発させた。

 最終的に、村上水軍らの活躍もあり、元就は厳島の戦いに勝利 ―― 陶晴賢は逃亡し、自刃。

 三年後の弘治三(一五五七)年には、大内義長を勝山城に追いやって自刃させ、一挙に西国大名として名乗りをあげた。

 同時に、大内氏配下の水軍も手に入れ、村上水軍も瀬戸内のいち海賊衆という立場から、毛利氏の警固衆へと変容を遂げた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?