見出し画像

【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 27

「大王様は、ご自分が思った通りことが運ばないと気が済まない人ですし、大海人様は、あれで意外と小心というか、意外に周りのことを気にする人ですから、お二人をまとめるのも大変でしょう?」

 額田姫王が笑いながら言う。

 流石は、お二人の傍に仕えただけはある、的確な批評だ。

「あら、大海人様って、そんな方なの? 意外ね」

 鏡姫王は、驚いた顔をする。

 確かに、誰にでも愛想が良く、基本敵を作らない人だ。

 大らかで、のほほんとしているので、一見「この人大丈夫か?」と思ってしまう。

 が、頭の中では相当考え、色々と策を練っているようだ。

 傍で見ていて、この人、侮れないなとつくづく思う。

「でも、そんなに小心で、周りのことを気にする人なのに、蒲生野での一件はなにかしら?」

「あれは多分……、焦りでしょうね」

「焦り?」

「あの前に、色々と噂があったから、大王は、次の大王に大海人様ではなく、大友様を指名するって。それで、色々と不満とか、焦りがあったみたいよ。讃良様(大海人皇子の后、のちの持統天皇)にお聞きしたら、狩猟の間にも結構お酒を嗜まれ、宴席に入ったときには、相当酔っておられたそうだから」

 この一件のあと、ぴたりと酒は止めたらしい。

 最近行われた山科野(京都市山科区)の薬狩りでは、もちろん夜に宴席が設けられたが、大海人皇子は一滴も酒を飲んでいなかった。

 少しは自覚をされたのだと、安堵した。

「それでも大海人様は、次の大王を大友様にするなんて噂、本当に信じられたの?」

 鏡姫王は、有り得ないという顔をする。

「その点は、結構気にする人よ、大海人様は?」

「でも、大海人様を差し置いて、大友様を大王になさるなんて、流石に大王様もなされないでしょう」

 本筋からいえば、その通りだ。

 もとより母が采女である大友皇子に、大王の資格はない。

 現時点で有力な対抗馬もいない。

 次は大海人で間違いないのだが………………

「でも、大王様よ?」

 そう、あの葛城大王だ、絶対はない。

 何をしでかすか分からない。

 それだけではない、先の蒲生野の一件で、「大海人様で大丈夫か?」という声も聞かれる。

 朝廷内でも、大友皇子を推す渡来系の氏族や百済の旧臣たちの勢力が強くなっている ―― もともと近江付近を本拠地(うぶすな)としているので、近江派とよぶ。

 大海人皇子を推す勢力 ―― 大伴氏や飛鳥を地盤とする氏族は、葛城大王のもとでは閑職に追いやられている。

 大海人皇子を推す勢力も、飛鳥を地盤とする飛鳥派と摂津・難波を根拠地とする難波派がいて、一枚岩ではない。

 有力氏族の協力を得たい大海人皇子には、不安なのだろう。

 それが、焦りを呼ぶ。

 政の世界は、一寸が先は闇 ―― どちらに転ぶか分からない。

 焦るのは大海人皇子本人だけではない。

 大海人皇子側に付くか、大友皇子側に付くか ―― それで、一族の明暗が変わってくる。

 だから氏族の長は、必死で情勢を見極め、ときには一族の有利になるように強硬な手段に打ってでる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?