【自伝的随筆】『女帝は嗤う』4

ここ数週間、仕事もプライベートも忙しく、小説の更新はしていましたが、こちらは休んでいました。

仕事では、新しい企画を立ち上げ中で、さらには他からも仕事が入りそうで、バタバタしていました。

プライベートでは、引っ越しを決め、来年2月には新生活の始まりです。

先月から、すべて捨てる……生活環境も変え、生活態度も改め、いままで執着していた仕事も止め、交友関係も改め、一から出直すつもりで、精神的にだけでなく、物理的にも整理を始め、環境は強制的に変えないとダメだと思い、引っ越しも決めて、いままでコレクションしていたものも捨て、人間関係も切る人は切るようにしました。

そうしたら、仕事のほうで少しづつ話が出てきて、来年は少し忙しくなりそうですが、これは元々止めようしていた仕事なので、来年は会社のほうをもう少し組織的にして、他の人間に任せて、自分はやりたいことをやろうと思ってます。

そういう訳で、最近少しバタバタしていましたが、年末年始で落着きそうなので、こっちでは心の整理を続けたいと思います。

私の実家のことを、特に女性陣のことを書いてきましたが、最後にもう一人、母方の祖母のことを書きます。

祖母もまた、気の強い人でした。

多分、うちの女性陣はみんな遺伝です。

姉と母が喧嘩すると、祖母も母の加勢に入り、姉対母祖母の大喧嘩に発展します。

ですが、普段は温厚な人で、どちらかと言うと、私はおばあちゃん子でした。

姉も、喧嘩をしながらも、普段は祖母に優しく、彼女もまた、おばあちゃん子だったと思います。

私の中では、料理は祖母がしていたイメージで、前にも書いたことがありますが、普通の夕食はもちろん、梅ぼしからうめ酒、正月用の餅、黒豆、風邪のときのたまご酒と、なんでも作った人でした。

母も一緒に台所に立っていたはずですが、私には料理は祖母が作るものというイメージがありました。

なので、子ども頃は魚や野菜が多く、肉料理はあまり出てきませんでした。

そのせいか、大人になっても魚や野菜がメインで、肉を食べると、どこか罪悪感を覚えてしまい、あまり食べないようにしていました。

たまに、食べたくない訳ではなく、食べたいときもあったので、そのときは牛丼とか、ステーキ(安いやつです)とか食べるのですが、食べたあとに、何だか分からないけど、後悔の念がわいてくるのです。

だから、ヴィーガンとなって肉を食べないことには、なんら躊躇いもありませんでした。

もう肉を食べたいとも思いません。

たまに魚介類は食べたくなりますが、何とか我慢しています。

こんなところで、祖母の影響が出ようとは……

祖母から受けた影響は他に、時代劇が好きだとか……子どもの頃は、よくテレビで時代劇を見ていました。

歴史が好きになったのは姉の影響ですが、時代劇は祖母の影響です。

水戸黄門に、長七郎江戸日記、大岡越前……年がバレますが、よく見てました。

時代小説を書くのも、その影響でしょう。

逆に恋愛小説が書けないのも、そのせいです。

書くと、どうしても古くさく、時代劇のように人情臭くなるので、これは性にあってないのだなと、諦めてます。

あと、前にも書きましたが、般若心経はいまでも諳じることができます。

毎晩、祖母の側に着いて、仏壇に向かって唱えてましたので。

私の人生に置いて、よく仏教的な事がからでくるのですが、保育園がお寺の経営だったので座禅をさせられたとか、なぜか高校も禅宗だったので、座禅を組みました。

いまは膝の靭帯を切ってしまったので座禅はできませんが、それまでは普通に座禅を組む事ができました。

そういえば昔、父に、お前は将来坊さんになるんじゃないかと心配だ、と言われた事がありますが、流石に出家はしませんでしたが、いまは肉も魚も食べない、酒も飲まない、結婚もしていません(笑)ので、そこらの生臭坊主よりは坊さんらしいと思います(笑)

祖母は、70過ぎても背筋のピンとした人で、洋裁をしてたので、その仕事もしていました。

が、晩年の数年は、やはり年には勝てず、5年近く認知症を煩い、最後は老人ホームで亡くなりました。

祖母の葬儀に私も参列しましたが、最後の数年間は私も実家を出て生活してましたので、祖母とほとんど会うこともなく、たまに実家に帰っても、私と認識していない状態で、棺桶の中の祖母を見たとき、あれ? こんな人だったっけ? と、どこか他人のような、なぜかそんなに悲しくなく、真夏の、カンカン照りの日で、喪服が妙に暑かったのだけは覚えています。

きっと、認めたくないのだろうと思います、祖母がなくなったのを。

多分まだ生きているんだと……

彼女もまた、私の基礎を作った人なのでしょうね……

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