【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第一章「小猿米焼く」 中編 18
『摩理勢軍、斑鳩に進軍する』の報を聞いて、驚いていたのは、豊浦の住人だけではなかった。
最も驚いていたのは斑鳩宮である。
山背王にすれば、まさか摩理勢がそこまでするとは考えてもみなかったのである。
同じ頃、豊浦からの親書も斑鳩に齎された。
蝦夷と摩理勢の板ばさみになり、山背王はどう対処していいのか頭を抱え込んでしまった。
あれほど威勢の良かった舂米女王さえ、右往左往するばかり。
摩理勢を迎え、一戦交えるか?
それとも蝦夷の案を受け入れるべきか?
斑鳩の住人たちの意見は分かれた。
その心労で、斑鳩の進むべき道筋を決められないまま、山背王は倒れてしまった。
統率者を失った斑鳩は、さらに混乱を極めた。
そのなかで、唯一冷静だったのが白瀬仲王である。
彼は、病床の山背王の枕もとで、
「同族同士が争って、何の利益がありましょうや? 豊浦と斑鳩が戦をして喜ぶのはいったい誰でございましょうか? 蘇我が滅んで得をするのは何れか? いや、蘇我が滅ぼうと、他の氏族が権勢を得ようと、それは小さきこと。戦になって、一番貧窮するのは誰か? それだけをお考え下さい」
と、諭した。
山背王は、自分の浅はかさを恥じ、弱さに涙するしかなかった。
「それで、宜しいですね?」
白瀬仲王の言葉に頷いた。
結局、白瀬仲王が蝦夷の案を上宮王家の意見として取り纏め、摩理勢に武装を解くように諭すこととなったのである。
白瀬仲王は、摩理勢を彼の屋敷に引き入れると、山背王が心労で倒れたこと、今回の件で斑鳩が揺れたこと、そして蝦夷の案を上宮王家の意見とすることを語り、軍を解き、蝦夷に従うように諭した。
摩理勢は、山背王を追い詰めたのは自分の責任だと涙を流した。
「良く分かりました、白瀬仲様。山背様がそれほどまでに言われるのならば、兵を引きましょう」
「境部臣、あなたは新羅攻めをも任された勇猛果敢で真摯な武人です。そのため、兄はあなたのことを大変心配なさっているのです。我々も、あなたのことを大変信頼しています。今後、何かあった時は、我々に力を貸してくれますね?」
摩理勢は、涙を流して頷いた。
「境部臣、死んではなりませんよ」
白瀬仲王は強く諭し、摩理勢はさらに大粒の涙を溢すのであった。
摩理勢は、その日のうちに兵を引き上げて行った。
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