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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 88

 八月十三日、鳥取に毛利勢が駆けつけるとの話が入り、殿は先鋒として十兵衛、長岡(細川)藤孝親子、池田恒興親子に、すぐさま出陣できるように命じ、その他の諸将にも仕度を急ぐように陣触れをまわした。

 十兵衛と藤孝は、大量の兵糧を舟に積んで、いつでも出陣できるように千代川に待機させた。

 結局、毛利勢の来襲はただの噂に終わったが、十兵衛からの書状では、例の軍法度がよくよく役に立った、これを草案した権太殿に感謝するとあった ―― 素直に嬉しかった。

 その添え紙に、織田家内の様子はどうかとある。

 十兵衛も、相当気になっているようだ。

 織田家の次男北畠信勝も、三男神戸信孝も、いよいよ動くと送った。

 九月、信勝が動いた。

 総大将として、五万の兵をもって伊賀へと侵攻した(第二次天正伊賀の乱)。

 伊賀は、京・大和に近いため、古くは東大寺や興福寺などの寺社の荘園があった。

 時が経つと、地元の荘官の力が強くなり、これを横領するようになった ―― 『悪党』の登場である。

 これは多くの荘園に見られたが、伊賀も同様で、地侍の力が強くなり、やがて地侍たちが割拠し支配する、いわゆる『惣国一揆』となった。

 二木氏が守護職につくことが多かったようだが、この力も及ばず、伊賀十二人衆の評定によって何事も決められたらしい ―― 他国から襲われたらまとまってこれを防ぐことや、他国の侵軍があれば、すぐさま武器を持って駆けつけ、この侵入を防ぐこと、十七歳から五十歳までの男子はすべて戦に参加すことなどの掟が決められているようだ ―― 地侍同士のまとまりが強く、これを切り崩すのは難しいようだ。

 さらに伊賀攻略を困難にしているのが、彼らの戦い方である。

 四方を山で囲まれた土地であるため、あまり米などの収穫が見込めず、頼まれれば戦に参加するなどの出稼ぎに頼っている ―― つまり戦慣れしているのだ。

 また山などの地形を巧みに使い、ときに単独で、とくに複数でと、草むらに隠れたり、夜襲をかけたりと、不規則な攻撃をしかけてくる。

 先の伊賀侵攻で手痛い目にあったのも、これが原因だ。

 だが、こちらも同じ手は効かぬと、これまでも斯様な戦をする雑賀衆などを相手にしてきたのだ、小に対するは大と、五万の兵をもって四方八方から攻め立てたのである。

 近江の甲賀口からは、先鋒を滝川一益率いる甲賀衆、蒲生教秀(がもう・のりひで:のちの氏郷(うじさと))、惟住(丹羽)長秀、京極高次(きょうごく・たかつぐ)、多賀常則(たが・つねのり)、山崎片家(やまざき・かたいえ)、阿閉貞征(あつじ・さだゆき)・貞大(さだひろ)親子、そのあとを総大将北畠信勝が続く。

 信楽口からは、堀秀政率いる近江衆、永田正貞(ながた・まささだ)、進藤賢盛(しんどう・かたもり)、池田景雄(いけだ・かげかつ:のちの秀雄(ひでお))山岡景宗、青地元珍(あおち・もとたか)、山岡景佐(かげすけ)、不破直光、丸岡民部少輔(まるおか・みんぶしょうしょう)、青木梵純(あおき・ぼんじゅん)、多羅尾光太(たらお・みつもと)。

 伊勢の加太口からは、滝川勝雅(たきがわ・かつまさ:のちの雄利(かつとし))率いる伊勢衆、その後を織田信包。

 大和口からは、陽舜房順慶率いる大和衆が侵攻した。

 先年の敗北に対する報復戦である。

『逆らうものは、老若男女、身分の貴賤、僧侶、神人にかかわりなく撫で切り!』

 との、殿の厳命である。

 三日に、織田勢は各口から怒涛の如く押し寄せた。

 あまりの大軍と勢いに圧倒されたのか、北部の柘植にあった福地氏が降伏、ここに不破直光を置き、ついで河合の田屋氏が首を垂れた。

 勢いに乗った織田勢は、抵抗するものは切り捨て、村々を焼きながら進軍、六日には甲賀口と信楽口の軍が合流し、総大将信勝は御代河原に陣を張り、その周辺に一益、長秀、秀政らが陣を展開し、壬生野と佐那具を攻め立てる。

 十日には、壬生野と佐那具だけでなく、近くの一ノ宮をはじめとした寺社仏閣まで攻撃し、焼き払ったので、これに対抗して佐那具の足軽連中が撃って出たが、返り討ちにした。

 このままでは持たぬと思ったのか、佐那具の伊賀衆は夜中に逃走、信勝が入城。

 織田勢の勢いは止まらず、奥へ奥へと進軍………………が、五万余りの殺気立った兵が集まったせいで、混乱をきたしたようだ ―― こういうことがあるから、十兵衛は軍法を定めたのだ、流石は十兵衛である。

 ここで再び軍を四つに分けて、各方面へと侵攻。

 織田信勝は、伊賀郡へ。

 織田信包は、山田郡へ。

 惟住(丹羽)長秀、陽舜房(筒井)順慶、蒲生教秀(氏郷)、不破光治、多賀常則、京極高次らは、名張郡へ。

 滝川一益、堀秀政、永田正貞、阿閉貞征、山田景隆、池田景雄(秀雄)、多羅尾光太、青木玄蕃允、青地元珍らは、阿拝郡へ。

 敵方からも激しい抵抗はあったが、諸将は勢いのままに進軍し、これを制圧。

 逃亡したものも見逃さず、順慶が山まで追いかけ、これを皆殺しとした。

 斯くて、あれほどまでに強いと言われたいた伊賀は、ひと月もかからずに平定された。

 伊賀衆の死者は百姓らも含めると三万とも、砦だけでなく、寺社仏閣や村の家々まで焼け落ち、一国が消滅するほどの惨状であったとか………………織田家の面子を潰された仕返しがこれとは、やはり殿は恐ろしい。

 その後、殿がこの地を視察され、信勝には伊賀・阿排・名張の三郡を、信包には山田郡が下賜された。

 一方の信孝も、高野山を大軍で取り囲んだ。

 それ以前の八月十七日に、松井友閑の足軽連中を殺害した報復にと、諸国に遍歴していた高野聖数百人を捕らえて処断。

 これを契機に、高野山側は領内の武士にも動員をかけ、僧兵とともに三万近くが立て籠る。

 また学侶方が、殿を降伏させる祈祷をはじめたらしい ―― これを聞いた殿は、鼻で笑っていたが。

 信孝は、織田家本隊と根来衆も引き連れ、紀ノ川北岸に布陣し、再度残党の引き渡しの交渉を続けた。

 織田家内における、信勝、信孝ふたりの株があがっている、いままでは織田家の次男、三男という血筋だけの立場であったが、武士(もののふ)として、一家の棟梁としての器量も認められるようになっている、このままでは本当に征夷大将軍や関白などへの補任があるやもしれない、また武田家に人質としてとられていた信長の五男信房も戻ってくる、織田家の力がますます大きなっていく、これはよくよく見極める必要があろうと、十兵衛には送った。

 返答は、十一月に入ってやってきた。

 信房が元服するというので、その祝いの品とともにである。

 書状には、件のことにはまったく触れておらず、里村紹巴らと一日で千句を読む連歌会を催したなどと暢気なことや、信房の元服に対するお祝いが書かれていた。

 十兵衛は、なんとも思っていないのか?

 また、家中法度を定めたらしい。

 その写しもあった。


  ひとつ、道中で織田家の宿老、馬廻りの連中と出会ったなら、脇にそれ、丁寧に畏まって挨拶し、お通しせよ


  ひとつ、坂本丹波を行き来するものは、京へは紫野から白河を通ってあがり、京からは汁谷大津を超えてくだるべし(これは大回りになる)

      また、京での用事は人を遣わして調べること、己が赴く場合はその旨を説明すること(つまり、無暗に京へ入るなということだ)


  ひとつ、用事を申し付けたものの、洛中での騎乗を禁ずる


  ひとつ、洛中洛外での物見遊山を禁ずる


  ひとつ、道中において他家のものと口論になれば、理非の如何に問わず成敗する

      ただし、考えが及ばぬなりゆきであれば、その場で一命をかけて解決せよ


   これ右のこと、御座所や領地が近いので、よくよく考えること。万一思いがけないことがおこれば悔やまれる。若人や下人以下のものにもよくよく申しつけるべし、仮にこれを犯したものは、ただちに処罰する。八幡様が見ておられるのだ、許すわけにはいかぬ………………


 つまり、織田家や京での振る舞いについて定めたものだが………………、ここまで厳しく定める必要があろうか?

 これではまるで、織田家に媚びているというか………………いや、家臣なのだから、当然であるが………………十兵衛は、征夷大将軍になるという夢を諦めたというのか………………

 これも殿にお見せし、惟任家中に令することの許しを得てほしいとある。

 仕方なく殿に見せると、

「十兵衛は斯様なことまで考えておるのか、流石よのう。うむ、許す、是非とも下令せ。そしてここにあるように、下人以下の従者らにも、しっかりとこれを守らせるようにとな、しっかりと、しっかりと」

 と、念を押した ―― 殿には珍しい。

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