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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第四章「偏愛の城」 60

 十月一日、信忠は信貴山を目指して出陣、その夜は山岡景隆の城に宿泊、翌日には真木島に入る。

 同じく一日、十兵衛、藤孝、順慶の軍が片岡城を攻撃。

 片岡城は、信貴山の東南にある城で、松永の一味である森秀光(もり・ひでみつ)、海老名勝正(えびな・かつまさ)ら千余りが立て籠もっていた。

 敵も死に物狂いで防戦するため、かなりの激戦になったようだ。

 惟任(明智)軍だけでも屈強な部下を二十人ほど、長岡軍も三十人近くが討ち死にしたらしい。

 その中で、藤孝の息子たち熊千代(くまちよ:忠興(ただおき))十五歳・頓五郎(はやごろう:興元(おきもと))十三歳が、大人に負けぬ奮迅ぶりを見せ、これを何とか打ち破ることができたらしい。

 前線からの報せを聞いた殿は、

「与一郎は、下津といい、息子たちといい、良き武士(もののふ)たちを持っておる」

 と、ひどく感心していた。

「二人に感状をやらねばならぬな」

 祐筆に筆をとらせようとしたとき、近習が入ってくる。

「柴田殿より、上杉勢、七尾城へと引き上げたとの趣旨」

「まことか?」

「柴田殿、上杉の再度の進軍に備え、御幸塚、大聖寺に砦を築き、佐久間玄蕃允(げんばのじょう:盛政(もりまさ))、拝郷五左衛門(はいごう・ござえもん:家嘉(いえよし))を城将とし、越前へ帰陣!」

「うむ、あい分かった。これで、当面北の憂いはなくなった。じっくりと弾正殿の退治と参ろうか」

 十月三日、信忠は大和へ侵攻、信貴山城下をことごとく焼き払い、着陣。

 片岡城を落とした十兵衛たちも合流し、その数四万。

 総大将は織田秋田城介信忠、副将格に佐久間信盛、惟住(丹羽)長秀、羽柴秀吉、惟任(明智)光秀、十兵衛の与力として長岡(細川)藤孝、陽舜房(筒井)順慶らが参陣。

 まさに、織田家の威信をかけた戦である。

 この数を見れば、然しもの久秀も首を垂れてくるのではと思っていたが、城門を固く閉ざし、徹底抗戦の構え。

 五日に始まった戦は、信貴山から二百余りの兵が飛び出して、死に物狂いで攻めてきた。

 初戦は、織田側の兵に多くの死傷者を出してしまう。

「弾正殿も、なかなかやるのう。じゃが、この兵力差では二、三日も持つまいて」、信長は前線からの報せに耳を傾けながら、「心残りがあっては、見苦しい最期になろうて。吉兵衛(村井貞勝)に早々に孫たちの首を切らせい」

 松永久秀の孫 ―― 久通の息子たち二人は、六条河原で首を切られた。

 貞勝の書状によれば、この処刑を見ようと、多くの見物人が集まったらしい。

 息子たちは、その状況にも動揺せず、西に向かって静かに手をあわせ、念仏を唱えたという。

 孫たちの死から数日後、信貴山城は落城した。

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