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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第二章「性愛の山」 68

 安慈は、僧兵数十人を集め、三井寺を脅しに行くと、山を下りて行った。
 そして、そのまま京へと出て、叡山領内の商いの状況を見てくるという。
 三井寺は、淡海の南西岸に位置する、これも天台宗の寺である。
 比叡山延暦寺とは、目と鼻の先である。
 同じ宗派で、お互い淡海の西岸に位置するが、この二寺、仲が悪い。
 ただ仲が悪いという状況ではない ―― お互い親の仇のように毛嫌いし、何度も戦をしている。
 三井寺は、もともと七世紀に半島から来た大友(おおとも)氏が建立した寺であったが、九世紀頃に、円珍(えんちん)が別当となり、その興隆に寄与した。
 だがこれが、後に六百年と続く、比叡山・三井寺抗争の起因となる。
 円珍は、比叡山にも座し、五世座主にも補任された ―― 智証大師(ちしょうだいし)である。
 当時の延暦寺は、開祖最澄が入滅してから五十年も経っていなかったが、すでに二つの派閥に分かれ、お互い牽制し合っていた。
 最澄存命の間から、その兆候はあったらしい。
 最澄亡き後、誰が御山を継ぐのか?
 最澄の愛弟子円澄か?
 それとも他所から来た義真か?
 最終的に、義真が初世座主となり、円澄がそのあとに続いた。
 が、一度意見が分かれれば、まとまることはできず、以後義真派と円澄派が争った。
 この教義はどうだこうだ、なんじらはこの経典を正しく理解していないだこうだ、いや、正しくはこの経典を使うべきで、その経典を使うそなたらは異端だ………………などと、表向きはもっともらしいことで争っているが、要は座主の位を巡る権力争いである。
 円珍自身は、叡山で義真に指示していたので、義真派といえばそうなのだが、重箱の隅を穿るようなことをして御山を分けるのは馬鹿々々しいし、世俗のような権力争いを御山に持ち込むことこそ、仏罰が当たろうと思ったのだろう、義真派・円澄派の争いを収めるべく、骨を折ったらしい。
 が、この抗争は円珍死後も収まらず、悲しいかな今度は円珍の派閥と、三世円仁の派閥が争うようになり、円仁派であった良源が十八世座主になると、その強硬な姿勢に相容れず、円珍派は、彼が別当を務めていた三井寺へと降りていったのである。
 ここから、御山を拠点とする山門派と、三井寺を本拠地とする寺門派とに袂を分かち、争いがはじまる。
 この抗争 ―― お互い口角泡を飛ばすような生易しいものではない。
 互いの僧兵を使って、焼き討ちをかけるほどである。
 どちらかというと、御山が一方的に攻撃を仕掛ける方が多いようで、何度も灰すら残らず燃やしてやったと安慈は自慢していた。
 今回は、三井寺が信長と通じ、所領を安堵してもらったと聞き、それで脅しをかけにいくらしい。
 ついでにその後、京へ上って、商いの状況を見てくるとか。
 これも当時の寺の特徴というか、特質で、都の一等地を所領に持ち、そこで商いをする者から地代を撥ねていた。
 もちろん寺の勢力が及ぶ『不入地』である。
 強欲の癖に、事が起こると商売人など簡単に見捨てる公家や大名の土地よりも、寺光を傘に商売する方が良い。
 となると、商売人や金持ちが集まってくる。
 必然、御山の懐も潤う。
 そこに、各地の荘園からの年貢や、公家や大名、有徳者からの寄進で、左団扇状態。
 その潤沢な銭を使って、貧しい公家や侍、百姓に高利で貸すのだから、銭はさらに山積みに ―― 生臭いにもほどがある。
 安慈が京に上がるのは、これら商売地の様子と、公家数人に高利で貸した銭が戻ってこないので、僧兵を使って脅しをかけに行くそうだ。
「仏の御慈悲で借りておる銭を返さぬなど、不届き! そういう仏敵は、懲らしめてやりましょう!」
 と、若い僧兵らと意気揚々と御山を下りて行った。
 ところで、僧兵はいつごろから存在するのだろう。
 叡山だけではない、南都の興福寺をはじめ、各宗各寺に存在する。
 これが発生した時期は分からないが、平安末期には、武家と並ぶ強大な戦闘集団として存在していた。
 特に、南都興福寺の僧兵は衆徒として、北嶺延暦寺は山法師として恐れられた。
 御山の山法師は、十八世座主良源 ―― 慈惠大師(じけいだいし)が組織したのではないかと云われている。
 だが、良源より以前に、僧兵はいた。
 彼は、「無才の僧を組織して、武門一行の衆徒とする」と語る。
 つまり、勉学に劣る僧を僧兵としたようである。
 一方、良源が記した、僧侶の風紀を正す『二十六ケ条起請』で、寺内では覆面を取れ、武器を捨てよという。
 良源在位のころには、僧の乱暴狼藉には目に余るものがあったらしく、彼はもとの清貧な御山に戻すべく腐心したようだ。
 僧兵は否定しない、むしろ規律のもとに統制し、仏敵のもとから御山を守らせようとしたのだろう。
 ちなみに、良源の弟子に、恵心僧都源信(えしんそうず・げんしん)という僧がいる。
 浄土教の祖でもある。
 彼は『往生要集』という浄土に関する有名な書物を記しているが、『弘児聖教秘伝私』という稚児灌頂に関する書物の作者ではとも云われている。
『弘児聖教秘伝私』に、「恵心述」とある。
 また、師から教えを賜わったともある。
 師とは、良源である。
 本文中には、この良源、天下一の稚児であったと著述されている。
 故に、この頃、稚児灌頂が整ったのではとも云われている。
 だが、『弘児聖教秘伝私』は秘文の秘文で、御山はこれを表に出さない。
 調査・研究も進んでおらず、真偽は不明だ。
 ただ『往生要集』では、男色や子どもと交わること、また不倫をすれば、地獄に落ちると書かれている。
 師である良源も、僧と稚児が猥雑に交わっていると嘆いている。
 おそらく、稚児灌頂という特異な儀式の起源を、御山の乱れた風紀を立て直そうとした良源とその弟子源信に求めよとしたのだろう。
 十八世良源こそ、延暦寺の中興の師であり、ここが御山の分岐点でもあった。

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