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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 61

「左様なことが………………」

 十兵衛は、顔を曇らせる。

 両丹を抑えた功績として、殿から感状と丹波一国と南山城が与えられ、そのお礼の挨拶にと安土までやってきた。

 十兵衛は、丹波の周山に城を築き、ここを明智次郎衛門光忠(あけち・じろうえもん・みつただ)に守らせ(八上城代と兼ねる)、福知山には明智左馬助秀満(あけち・さまのすけ・みちひで)を置き、丹波の赤鬼こと赤井氏の居城であった黒井には斉藤内蔵助利三(さいとう・くらのすけ・としみつ)を配した。

 丹後は、もともと丹後守護であった一色氏の一色義定(いっしき・よしさだ)が北部を、南部は長岡(細川)藤孝(ながおか(ほそかわ)ふじたか)が拝領するが、これらは十兵衛の与力であるので、実質十兵衛の配下にある。

 さらに、大和の陽舜房順慶(ようしゅんぼう・じゅんけい:筒井順慶)も十兵衛の与力のため、淡海西岸の坂本一帯(志賀郡)、丹波・丹後、大和、南山城と広大な所領が十兵衛の手に入ったといって過言ではない。

 丹波拝領のお礼の挨拶をし、それぞれの城への配置を言上した後、殿から先般の信盛の横柄な態度を聞き及び、十兵衛は顔を曇らせたのであった。

「あやつは、むかしからそういうところがある。主を主と思わぬというか、他の武将に対して尊大な態度をとるというか、左様な態度であるから、あやつを嫌っておる家臣も多い。まあ、勘十郎(かんじゅうろう:織田信行(のぶゆき))と諍いになったときに、多くのものが勘十郎についたが、あれだけは儂を信じてついてきてくれた……、その恩はあるが……、それにしも昨今のあいつは、少々どころか、大いにつけあがっておる。恐らく、その恩に着せて、やりたい放題やっておるのじゃろう。大坂がまとまれば、如何にしてやろうかと考えておるとことじゃ」

「如何にとは?」

「力ずくで隠居させる」

「あの佐久間様が従いますか?」

「従わせる。あいつがぐうの音の出ないほどの理由(わけ)をつけてな。いま、久右衛門(菅屋長頼)や乱丸らに、それを探らせておるところじゃ」

 太若丸は、殿が〝神〟となるための方法を探るため、その務めたからは外されている。

 乱を見ると、にんまりと笑う ―― また、何を企んでいるのやら………………

 十兵衛も、乱を一瞥した後、徐に口を開いた。

「大殿のお怒りは御尤もでござりまする」

「そうであろう」

「御尤もでござりまするが……、この件は穏便にすまされますよう、お願い仕る」

「穏便? 穏便にするかどうかは、右衛門尉次第だぞ?」

「左様ではござりまするが、仮に佐久間様が隠居を拒否され、城に籠られると………………」

「この儂と戦をするというか、右衛門尉が? ならば、望み通り戦をして、あの白髪首、切り落してやろう」

 殿は戯言のつもりだったのか、にやりと笑うが、十兵衛は至極まじめな顔だ。

 殿も、すぐさまもとの顔になった。

「松永、別所、荒木と続き、佐久間様まで大殿を裏切り、それを処断するようなことになれば、織田家でなく、天下騒擾のもとになりましょう」

 信盛は、織田家臣団の筆頭格 ―― これと主君が揉めるのは、他の家臣らに良い影響はあたえまい。

 外から見ても、織田家は一枚岩にあらず………………と思われ、付け込まれるやもしれぬ。

 信秀、信長と親子二代にわたって織田家に仕えた重臣 ―― 信盛に限ってよもや左様なこないと信じておるが、万が一〝鞆の浦〟の公方(足利義昭)が信盛を唆し、これに主君に対するあらぬ疑念によって、織田家を見限るようなことになれば一大事。

 それは、松永久秀や荒木村重、別所長治らの裏切りとは比べ物にならぬぐらいの衝撃を織田家に、ひいては天下に与えよう………………と、十兵衛は続けた。

 殿は、これを黙って聞いていたが、また乱が余計な口を開いた。

「殿を裏切るのは、天下大罪。これを攻めるに、何を躊躇いたしまするか? 逆に、佐久間様の態度を諫めず、野放しにすることこそ、天下騒乱のもとになりましょうぞ。それでなくとも、菅屋様や某が探りました佐久間様の所業には、他の武将に余計な口出しをしたり、色々と裏で私腹を肥やしたりと、目に余るものが散見されまする。これを罰せずば、織田家が足元を掬われまする」

 よくもまあ、小姓の癖して、いらぬことをたらたらと………………

「織田家家臣団の筆頭として、他の家臣に口出しするのは当然では?」

 と、十兵衛は簡単に返す。

「私腹というのが如何ほどかは分りませぬが、大殿に何事かあり、〝いざ鎌倉〟となったときのために蓄財に励むは、むしろ褒められるべき所業ではござりませぬか? そもそも頂いた領地は、〝御恩と奉公〟の〝御恩〟にございまする。その地を頂いたならば、その地を如何様にするかは、その者次第、その恩として、武士は命を懸けて主君に〝ご奉公〟するのでござりまする。これに口を出すは、たとえ主君でも………………」

「大殿の領地は、大殿のものでござりまする。某を含め家臣のものは、大殿の領地をよくよく差配するようにと言われているにすぎないのです、その地の民やものも、すべて大殿のものです」

「それは……」、十兵衛は首を首を振る、「あまりに乱暴な考え。それでは家臣はついていきませぬぞ」

 まったくもって、十兵衛の言う通りである。

 それこそ鎌倉殿が幕府を開かれたときなら、乱のいうこともあり得ようが、いまや戦乱 ―― 己が生き残るためには、主君も家臣もない世の中 ―― 主君が家臣を選ぶというよりも、家臣が主君を選ぶ世の中 ―― そんな主君がいないなら、自ら主君になるものも………………斯様な連中を従わせ、〝いざ鎌倉〟の際は命を懸けさせるのだから、そこには主君としての威厳とともに、〝御恩〟の効力が発揮するのであって、これがすべて主君のものだからとなれば、当代の武士(もののふ)らは、ならば、己が主君となろうと、主君に従わないだろう。

 今の世の中の〝御恩と奉公〟は、絶妙な均衡のもとに保たれているのだ。

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