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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第三章「寵愛の帳」 114

 その〝猿〟が、官位の礼にと挨拶に参じた。
「此度は、筑前守という職を頂き、ありがたき幸せ。この羽柴、これからも殿のために精一杯務めさせていただきます」
「そりゃ儂じゃなく、帝に言え!」
 殿は、むすっと顔をしている。
 まあ、確かに、此度の官職は朝廷から下賜されたものだから、実際はそちらに礼をすべきであろう。
「も、もちろん、そちらにもお礼はいたしますが、この職を頂いたのは殿の推挙があったからで、そのつまり……」
 あまりにも慌てているので、殿の肩を揉んでいた太若丸もついつい噴出してしまった。
 殿も、けらけらと笑っている。
 つられて、秀吉も恥ずかしそうに笑った。
「戯言だ、戯言。今日日、守護など何の役にも立ちはせん」
 通常、守護職は将軍から任命される ―― というのは幕府が存命していればの話である。
 将軍義昭は今や行き方知れず、幕府はもはやない ―― 実際は、どこにいるかはある程度掴んではいるが………………
 将軍でもない殿が守護職を任じることはできず、帝から賜ることになったのだが………………殿の言うとおり、昨今守護職など役に立たない。
 守護が、守護代や家臣、国人たちに土地を接収され、いわゆる戦国の世が始まる。
 日向守、筑前守などと貰っても、実際そこを支配するわけでもない。
 現状、将軍職と同じで、ただの権威付けに過ぎないのだ。
「まあ、飯の種ぐらいにはなろうて」
 と、殿はつまらなそうに言っていたが、
「滅相もございません。ありがたい職でございます。存分に働かせていただきます」
 と、秀吉は実に嬉しそうだ。
「相変わらず、律儀なやつじゃな」と、殿は苦笑した、「その律義さで、そろそろ越前を治めよ」
「はっ、申し訳ございません。実のところ………………」
 一向宗などと折衝にあたっているが、なかなか上手くいていないとのこと。
「拙者ではなかなか………………、やはり殿のご威光が必要かと………………」
 秀吉は、申し訳なさそうに、ちらちらと殿の顔を伺っている。
「やはり、儂が出張らねばならぬか、まったく役に立たんやつじゃ」、ふんと鼻で笑って、「越前へ出陣じゃ!」
 すぐさま、陣触れの太鼓が鳴らされた。
「やれやれ、儂もなかなか隠居ができぬな」
 殿は、肩をぐるぐる回されながら笑われた。
 秀吉は、畏まりながら退出したが、太若丸は廊下で呼び止めた。
 ―― 本当に殿が行かねばならぬほど、越前は大変なのか?
 正月から岐阜と京への度々の往復、さらに大坂、長篠・志多羅の連戦で、ここ最近殿も少々お疲れ気味、そこに越前への出馬となると、殿の身体が少々心配なのだが………………
 秀吉は、いや、その……と、頭を掻く。
「本当のところを申しますと、別に拙者でも治めることはできるのですが………………、まあ、やはり最後は殿に出張ってもらった方が良かろうと………………」
 つまり、花を持たせるということか………………
「殿のご負担にならないように、そこは重々気を付けて差配いたしますので、ご安心くだされ、太若丸殿」
 よろしくお願いいたしますと頭を下げて別れたが、なるほど、これが秀吉の出世術というか、人垂らしの所以なのだろう。
 十兵衛ならば、逆に殿の負担にならないように、自らやりきってしまうところだろうが………………はて、どちらが、家臣として有能か?

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