君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む。(論語 衛霊公)
(意味)
君子は自分を責めることが深く、全てこれを反省する。小人はこれに反し、これを他人に求めて自分で反省しない。
他責にする人
責任が自分に及ばないように予防線を張って火の粉が舞い込まないようにうまく避けたり。
または問題が起きたとき、自分の守備範囲から外れているから関係ない、と。
これらは何か外部の刺激を受けたときに自己防衛的に、刺激に対して直接反応しているのです。
育った環境、社会通念、常識などの周辺環境によって、その刺激に対する結果は一義的に決まっていて、それに従うまでだ、という決定論に基づいて反応している、いわばパブロフの犬のような状態です。
孔子の言う小人の反応は、上述のような状態でしょう。防衛本能からそうなっている。
刺激と反応の間にある選択の自由
この言葉を読んだときに、「七つの習慣」(S. R. Covey著)を思い出し、読み返してみたところ、この言葉に通じることを書いていました。
人間は刺激と反応の間に選択の自由を持っている。
この選択の自由の中にこそ、人間の人間たる四つの独特な性質
<自覚・想像力・良心・自由意志>がある。
この人間の独特な性質を発見することにより(中略)「主体性を発揮する」という習慣を身についた。
主体性
この、「主体性」こそが、孔子の言う「これを己に求め」であり、自分事として捉えることとなります。
「7つの習慣」の中では、この「主体性を発揮する」ことが、効果的な人生を営む最も基礎的な習慣として位置づけられています。
仕事に限らず人生において、主体性を持って生きていくことが、人徳を持った人間の入り口なのかもしれません。
(引用)
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