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SNSは、敵対的コミュニケーションに「倫理的交戦規定」を課せるか?(1)

私の一連のnoteを少しでも読んでいただいている方にはおわかりであろうが、私は基本的に今のインターネットで、異なる立場の間ではまともにコミュニケーションは成立しない、という立場をとってきた。

これは、残念なことに場の信頼感の欠如による構造的原因なので、いくら個人、団体が工夫してコミュニケーションを行っても無駄……というところで打ち切り、今までのnoteを書いてきた。

そして、各種SNSやオンラインサロンといった「場」が敵対的コミュニケーション禁止、規制したり、空気で抑制したりすることは、内部の非対称性が固定化され、弱者に不利で、しかも外部から批判を受け付けないので、もっとヤバいことになる、という立場もとってきた。誹謗中傷規制、フェイク規制などは、自然な発想だが危険だ。

ただ、あくまでコミュニケーション論としてもう少し話を広げることもできる。SNSに、敵対的コミュニケーションの存在を前提としつつも、最低限の倫理が守られるようなシステムを導入できるのか?

あえていうなら、ゲリラと正規軍の暴れる非対称な戦争の場に、最低限の交戦規定を課すために、国境なき医師団を派遣し、炊き出しとか、各種インフラ整備などを行うことで、非人道的虐殺、空爆による巻き込み、民間人同士の衝突による死、リンチ、難民からテロリストへの変化、等を防止できるのか?という方向性である。

武力介入、和平交渉とか、停戦協定ではないことに注意。その危険性と非対称性はさんざん論証してきた。

SNS言論の場で唯一特別な実行力をふるえるのは、当然SNSの運営会社だ。例えば、トランプ大統領のツイッター上の発言をツイッター本社が特別にシグナリングしたことは記憶に新しい。他にも、ツイッター社は様々なシステム変更を行うことで、言論や思想、事実認識の絶対的対立、分断を緩和しようと試みている。その試みの動機自体は素晴らしいと思う。

だが、現実として、残念ながらそういった行為は分断を全く緩和できていないように見える。これも、表現規制や事実認識の直接変更による調停の試みという、自明に失敗する行動だからだ。ツイッター社の具体的やり方というより、方向性自体が悪い。

SNSには何ができるのか?

本noteで独自研究を行うだけではやや無責任、というか貧弱すぎる。

もう少し真面目に、数理モデルを建ててアカデミアレベルで「研究」するなり、金を集めて実際のSNSを設計、運営することによって「実装」を試みたほうがいい、この方向ならやろうと思えばできるのでは?という当然のご批判もあろう。

だが、その前に、素人がゼロから考え、皆さんも素人としてゼロから考えるのがやはり必要だ、というのが本noteでの私の立場だ。よって、お目汚しながら、noteだけの素人談義としてやっていく。

次回のナンバリングから本論に入る。

追記:続きです。


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