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『マチネの終わりに』第六章(70)

 洋子は、首を横に振って苦笑すると、母の目を見つめた。そして、

「わかってるから。――ありがとう。お母さんこそ、体に気をつけて。」

 と言って席を立つと、覆い被さるようにして、座ったままの母を抱擁した。

 母が小さくなった気がした。無意識だったが、子供の頃には、二人きりのアパートで、同じようにして、よく母から抱きしめられたのだった。

 洋子は、予定を変更して、もう一泊、長崎の実家に留まることにした。

 ジャリーラを慈しむ気持ちが、一種の責任感として、彼女の精神を保たせていたように、元気そうではあったが、さすがに老いを否めない母の訴えに接したことで、無事にパリに帰らねばならないという思いが強くなった。

 蒔野のいる東京に独りで一泊するという考えに、彼女は耐えられなかった。今の穏やかな気持ちのまま、母との思い出に静かに浸りながら、何とかパリまで辿り着きたかった。

 それまでは、携帯電話の電源も入れないつもりだった。

 あまり惨めな、未練がましい別れ方もしたくないと思えるほどに、洋子は既に現実を受け容れつつあった。

 

     *

 洋子と連絡が取れなくなってしまって数日が経ち、蒔野もさすがに、それが何を意味しているのかをもう疑わなかった。

 洋子は、自分に会う意志がないのだろう。パリに戻る日までまだ時間がある間は、ひょっとすると、何か連絡があるのかもしれないとも期待していたが、残りが少なくなるにつれて、彼女の決意の固さを実感せずにはいられなかった。

 祖父江の意識は未だ戻らず、ただでさえ落ち着かなかったが、日常はその不慮の出来事をも、蛇のような大口で飲み込んで、ゆっくりと消化しつつあった。その重たさが、時間の流れを停滞させ、蒔野の胸を押し潰していた。


第六章・消失点/70=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


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