『マチネの終わりに』第六章(69)
「いいの、今更どうこう言うつもりはないの。ただ、お母さんとそんな約束をしておきながら、出て行ったお父さんはどうなのかしらと思っただけ。幸いわたしは健康だったけど、どこかの年齢で障害でも出たら、お父さん、戻ってきたのかしら?」
「……お父さんのせいじゃないのよ。」
「いつもそう言うけど、離婚の理由をちゃんと言わないから、わたしには永遠にわからないでしょう? わたしは、お母さんに同情してるのよ。お父さん、お母さんと別れてから何してたの? 何年も空白期間があるけど。」
洋子は、話の流れで、以前、蒔野に尋ねられて以来、気になっていたことを訊いたが、家を出るまでの短い時間では、とても話せない内容だろうと思い直した。必ずしも答えを求めているわけではないと示すつもりで、彼女は、朝食の皿の後片付けを始めた。いずれこの話は、今はロサンゼルスに住んでいる父にこそ尋ねるべきだった。
母の方も、首を振って、
「今したかったのは、そんな話じゃないの。」
と言った。そして、目を赤らめて、唇の端を震わせながら、今度は日本語で語った。
「あなたが健康でいることが、わたしにとっては何よりなのよ。わかるでしょう? あなたが生まれてからは、自分の体調よりも、あなたの健康こそが心配だった。それが母親の心情よ。」
「大丈夫よ、わたしは。おかげさまで健康に生んでもらってるから。」
「わからないのよ、こういうことはいつどうなるか。」
洋子は、自分の体調不良を、母が幼時の被爆体験と結びつけて心配していることに戸惑った。後遺症の不安というものは、こんな風に突発的に蘇るものなのだろうか。彼女自身は、そんなことは夢にも思っていなかったが、それとて、母が娘を決して〈被爆二世〉としては育てなかったからだろう。
「大丈夫だから。今、疲れてるのは、イラクに行ったせいよ。それに、……失恋しちゃったから。」
「からだにだけは気をつけなさい。何をするにしても、あなたの自由だけど、もういい年齢なんだから。過信しないで。子供が欲しいんでしょう? だったら、……」
第六章・消失点/69=平野啓一郎
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