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ガチンコファイト航海を通して考える科学


みなさん、お久しぶりです。地球物理の世界に魅了されつつある学生です。

僕は、今現在、ガチンコファイト航海2021に参加しています。
詳しくはこのURL(https://www.jamstec.go.jp/j/about/hr_cruise2021/ ) 
簡単に説明すると、JAMSTEC(国立研究開発法人海洋研究開発機構、以下JAMと略記)が主催する、「しんかい6500」を用いた調査航海に学生も参加させちゃえぇぇっていうとんでもない取り組みです。交通費・宿泊費等もろもろ支給のガチガチ身分で参加しています。ここでは、「大人」と「20歳周辺」という年齢由来の差(経験や強かさ)などはあっても、「教師」と「学生」という一方的な関係はありません。

突然ですが、

科学について考えたことはありますか?


もうちょっと具体的に聞きます。

科学に人が惹かれるのはなぜだと思いますか?


この問いは哲学的だとして、言い切ってしまう人もいると思うけど、一度立ち止まって考えてみたい。

wikipediaさんによると、科学とは「体系化された知識や経験の総称であり、形式科学、自然科学(応用科学含む)、社会科学、人文科学の総称。または探究の営み。」のことを指すらしい。まぁ、こんなことは今回どうでも良い。
世の中には肌感覚として、生活に役立つものを創造するといったものに対して、人々の期待は向いていると思う。確かに、人間の生活を豊かにするための創造は大切であるし、無くてはならないことだと思う。創造するための土台・基礎研究としての基礎科学ないし科学の価値は存在する。では、一見すると直接的に人々の生活に役に立たないであろう、深海・宇宙・遠い昔の事象といった未知の世界に対して人々はワクワク・ドキドキといった魅力を感じるのは、なぜだろうか。
この点について、「科学者・研究者という生き方」を見聞きした立場から推察する。科学者・研究者という生き方」を見聞きした体験については次の記事とかで詳しく書きたいと思います。

どこかで聞いた気がする。誰の発言だったかは忘れたが、「研究とは魂の救いである」(意訳)と。これを小耳に挟んだ時、僕自身はふーん、、、という印象ぐらいしかなかった。ビジネスをやっている人であったり、ものづくりをしている人からしたら、この内容は何をいっているんだという思いにはなるだろう。

先に、僕の考えを述べてしまいます。

「科学と関わる」とは「人が人である所以」ではないか。


これが、僕なりに考えた、科学の魅力の源泉です。以下で砕きながら喋って行きます。

ある研究者は言っていました。「議論することのワクワク。何者かになった実感。」を研究という道で得られる(意訳)。
この話を聞くと、

「知的生命としての自分。自分が何者であるか。」という意味付け

ということが、研究の道でなされているのではないかと推察できます。
確かに、生活基盤等の欲求が満たされていない人々は「何者であるか」という問いを立てて思い悩むことはないと思います。そういう意味では、「何者であるか」という悩みは高次の欲求であるとは思います。ですが、自分が「何者であるか」という問いは人間だからこそ生まれてくる哲学的な問いではないでしょうか。理性・感情・その他を併せ持つ人間は、低次の欲求が満たされるにつれ、高次の欲求を満たしたくなる生物です。心理学とかで習った記憶があります。その最高次に、「自分が何者であるか」という問いを人からの評価ではなく、自分で意味づけたいという気持ちがあるのではないでしょうか。
研究者は、自分の力でこの欲求を満たそうとしています。

では、社会一般の人々が「科学と関わる」ということはどう解釈できるでしょうか。

「人が何者であるか」という問いを「追体験」を通して満たそうとしている

と僕は解釈しました。
「自分が何者であるか」という究極の問いに、研究者でなくても、一般人でもぶち当たることは、欲求が満たされるにつれてあると思います。でも、様々な事情で、研究や学問という分野以外で活躍するということを決心しなくてはならないこともあります。これは、学問に対する苦手・不得意や、自身の夢・興味といった理由によるものです。もちろん、学問以外は邪道であるとは全く思っていませんよ!!
この、自分の力で追求するということが叶わなかった人にとって、この究極の欲求はどのように解消すれば良いのでしょうか。
その答えが、研究者が魅せる「未知の世界」に対する挑戦を、間接的に感じるということです。自分が挑戦することは出来ないけれど、研究者の挑戦を応援したり、「未知の世界」に対してワクワクしたり、研究成果について感動する。このような、ある意味、自分と研究者を重ね合わせることで、研究者と同じ次元に立とうとしているのではないでしょうか。

まとめると、人間は科学に対して、「自分は何者であるか」という究極的な問いに対する答えを求めていると、僕は考えています。それが、途中で、僕が、「科学と関わる」とは「人が人である所以」であると書いた理由です。このことを、考えると、「研究とは魂の救いである」(意訳)という言葉の意味は理解できるのではないでしょうか。
科学の持つ魅力とは、このようなようなところに源泉を持つのではないだろうか。

以上の推論や議論は、21歳の若造学生が、少し考えてみた結果です。異論があることは重々承知しています。ですが、思考の整理をかねて、駄文ですが、まとめてみた感じです。他の経験をするにつれて、考えが変わると思うが、今、現在の僕なりの認識記録として。。。



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