日月星辰

30歳でアーリーリタイア/デイトレードとインド哲学研究/生命の感動を取り戻すためのコミ…

日月星辰

30歳でアーリーリタイア/デイトレードとインド哲学研究/生命の感動を取り戻すためのコミュニティ構築に向けて日々努力中

最近の記事

「ガンジスに還る」と僕の野望

昨夜は、本当に良い映画を見た。 「ガンジスに還る」 と言うインド映画。 死を悟ったおじいちゃんと、家族たちの、ガンジスのほとり、死の家を舞台にした、カルマ精算と深いコミュニケーションの物語。 まず、インドという舞台。 インドには、時空を歪めるパワーがある。 僕の人生は、大学時代に参加したヨガのクラスと、受講したサンスクリット語のクラスで完全に決まってしまった。 東京の真ん中にいる自分が、突然、古代インドの無始無終の時間の中に呑みこまれ、精気を湛えた大河の前で、聖者の導きを受

    • チベット仏教から学んだこと

      かれこれチベット仏教を勉強しはじめて2年になる。 3年前に事故で入院した時に、本を手にとったのがきっかけだった。 その後、チベット語を勉強したり、チベット仏教寺院のクラスを受講したり、研究者の方とお話ししたり。 振り返ると、世界旅行にも匹敵する、精神世界の大旅行だった。 今でも解脱できたわけではないけれど、現代日本で、不自然だと感じていた常識が、相対化されていき、ドグマから解放され、ずいぶんと楽になった。 現代の中で、多くの人が感じている閉塞感を破るきっかけになれたらと思い、

      • 真理に到達しそうなハナシ2

        3か月ほど前に、真理に到達しそうなハナシという記事を書いたら、結構好評だった。 読んでくださった方に感謝する。 今になって読み返すと、「かなり行き着くところまでは行っている」、「頑張っているな」、という印象だが、いかんせん愛が足りない。 これは決定的な弱点だ。 今回は、前回の続編であり、進化バージョン。 まさに、回心と言うべき出来事が起こったのである。 前回までの到達点前回は、現代日本という制約された世界、ザ・世俗の世界で、どこまで真理を追い求める暮らしができるか

        • 「月と蛇と縄文人」から学ぶ「精神性」

          「豊さとは何か?」、「精神性とは何か?」 そのとっかかりとなる素晴らしい本、「月と蛇と縄文人」(大島直行著)。 少し、内容を紹介して、僕の考えを話したいと思う。 現代人と縄文人現在の私たちは、おおむね経済的・合理的思考によって世界を理解し、説明する。 一方、縄文人は、神話的思考を使う。 どういうことか? 例を挙げてみる。 赤色は血の色で、「生命」の象徴だから、お墓にはベンガラ(赤い染料)を撒いて、復活を祈ろう。 蛇は「再生」の象徴だから、土器のデザインに取り入

        「ガンジスに還る」と僕の野望

          真理に到達しそうな話

          僕は今、田舎暮らしをしながら、ほぼ真理に到達しそうになっている。 実践こそが最も重要であり、人間はその人の言葉ではなく、その人の行動で判断すべきだ。 だから、僕の生活の内容を説明してみるので、真理に近そうか判断してみてもらえたらと思う。 経済的自由ほぼFIRE(働かなくて良い)の状態。 配当と、朝20分間くらいの日経先物デイトレードで十分。 もちろん、勝つ可能性が高い日かつ気が乗った日しかやらない。 仕事は、よっぽど緊急性のある案件しかやらないので、月数日程度。

          真理に到達しそうな話

          「無」の思想に救われたハナシ

          僕は、偉そうに話せるほどの不幸な目にはあっていない。 でも、その代わりに、「正しいこと」「善いこと」にはずいぶんと苦しめられた。 「こうするのが正しい」 「こうするのが良い」 「嫌われるようなことをしてはいけない」 「それはおかしい」 「そんなのは変だ」 「あの人はすごい」 こんな言葉を聞くたびに、心の奥底に反抗の炎が燃え上がる。 そして、行動に打って出る。 それでも大抵は失敗する。 そうすると 「ほらみたことか」 と言われる。 悔しくて仕方がない

          「無」の思想に救われたハナシ

          「無」の思想

          人生を究めようとすれば、必ず、「無」の思想と巡り会うことになる。 僕が30歳にしてようやく辿り着いたこの思想を、ここにまとめる。 「無」は、単なる形而上学的なものではなく、実践的な概念だということを示す。 「無」とは「無」といえば、仏教の禅、老子・荘子が思い浮かぶ。 東洋思想には「無」が溢れているが、「無」の明確な定義はない。 そこで、西洋哲学の定義を拝借する。 「無」とは、述語で限定できないものである(ヘーゲル、小論理学)。 「私は人間だ」と言う時、「私」には

          「無」の思想