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「無」の思想

人生を究めようとすれば、必ず、「無」の思想と巡り会うことになる。

僕が30歳にしてようやく辿り着いたこの思想を、ここにまとめる。

「無」は、単なる形而上学的なものではなく、実践的な概念だということを示す。

「無」とは

「無」といえば、仏教の禅、老子・荘子が思い浮かぶ。

東洋思想には「無」が溢れているが、「無」の明確な定義はない。

そこで、西洋哲学の定義を拝借する。

「無」とは、述語で限定できないものである(ヘーゲル、小論理学)。

「私は人間だ」と言う時、「私」には限定する述語がついているので、「私」は無ではない。

「無」は「無」としか表現できないものなのだ。

「無我」とは、難しく考える必要はなく、「私」を「無」のままにしておくことを意味する(道元、正法眼蔵)。

抽象的な話はここまで。

「無」の実践

「無」の実践として、1つ目の重要な分野が「投資」だ。

普通の人は、学生時代に「将来は何かになろう」と考え、実際にそれになるか、又は別の何者かになって、お金を稼ぎ、人生を送り、そのことに満足する。

いわゆるサラリーマン。

これが、「無」を知らない生き方だ。

「私」を研究者、サラリーマン、セールスマン云々に限定して、限定されたことに安心し、その立場にこだわり、一生をまっとうする。

「私」を一生懸命定義し、その定義に固着し、「無」ではなくなる。

しかし、「私」=「無」の領域に到達した人間には、この普通の生き方は極めて残念なものだと言うことがわかる。

最も根本的な理由として、あらゆる苦しみは、「私」を限定し、限定された「私」に執着することから始まるのだが、そのことを理解している人があまりに少ない(仏教)。

何らかの職業人として自分を定義することは、「私」を述語によって限定してしまうことに他ならない。

ほとんどの親が「無」に到達していないがために、あらゆる子供たちが、将来の夢として、何か限定された職業を口に出し、「私」に執着し、苦しみに向かって行くのは、極めて残念だ。

さて、投資の話に戻る。

「投資」は「私」を「無」に保ったまま行うことができる。

つまり、「私」は何者でもないまま、私の所有にかかるお金という資本が、自律的な増殖運動を繰り返していくのだ(マルクス、資本論)。

労働力をお金と交換したり(労働者)、サービス・商品を別のサービス・商品と交換したり、お金と交換しているうちは(経営者)、私は「何者か」であり続けなければならない(いわゆる、ラットレース)(ロバート・キヨサキ、金持ち父さん・貧乏父さん)。

しかし、お金をお金と交換するようになると、出発点とゴール地点がどちらもお金なので、ループが発生し、お金は、もはや私の意思とは無関係に増殖運動を開始する(いわゆる、お金が働いている状態)。

これが金融資本主義の到達点であり(レーニン、帝国主義論)、その時、「私」は単に資本が運動する場所にすぎない。

この感覚は、実際に投資をしてみればすぐにわかる。

放り込んだ100万円の株が200万円になった時、驚くほど私の存在は意味をなさない。

ただ、資本が自己運動しているだけなのだ。

次の重要な分野が「」だ。

なぜなら、「美」は、「」を感覚面から捉えたものだからだ。

「美」とは、感覚的な対象物を通じ、感性が、自己の内面に見出す快感をいう(カント、判断力批判)。

「自分の感性」には、思考を含まない。

だから、有名な絵だから美しく感じる、という判断は、思考の産物であって「美」ではない。

また、テレビなどの分かりやすい笑いは、一義的な面白さを押し付けるものであり、つまり、「ここで笑え!」と言われて笑うようなものであるから、「内面に」見出した快感ではなく、美ではない。

逆に、美を内面に生み出しうる作品は、全て多義的でなければならない。

そうすると、美とは、純粋に作品と自己の中に沈潜した時に、心の奥底に生じる繊細なリズム感覚である。

これは、例えばモンドリアン、バーネット・ニューマンなど、抽象的な表現を突き詰めた作家の作品に正面から向き合った時、良く実感することができる。

ちなみに、このリズム感覚が、外界の感覚に依存することすらなくなった場合は、それは究極の瞑想状態であり、宗教的真理となる(仏教)。

座禅を続けると、単なるリズムのみが存在している状態に到達する。

瞑想の到達点は「純粋な意識」なのだ(上座部仏教、マハーサティパターナスッタ)。

ここまでで、次のことに気づく。

「無」とは、否定ではなく無定義であり、無定義であるが故に、資本の自律的な運動に身を委ねたり、感性の奥底のリズムに身を委ねたりすることができる。

そして、その「無」の喜びを一度知ってしまうと、もうそれまでの世界には戻れなくなる。

自己のアイデンティティ、お金、芸術作品に対する考えが、全て転換してしまうのだ。

立派な人間になるよりも、己が限定されていないことが何よりも嬉しく、何かをしてお金を稼ぐよりも、お金が自分で運動していることが楽しく、強い刺激を与えてくれる娯楽よりも、繊細なリズムに没入できる芸術の方が尊い。

「無」の生き方

人間は自由になりたい、もっと便利な暮らしがしたい、という衝動と共に進化してきた。

人間の歴史は、自由の衝動が作り出してきた道なのだ(ヘーゲル、歴史哲学講義)。

この衝動は、自分を限定したくない、もっとのびのびと生きていたい、という精神の根源的衝動であり、煎じ詰めれば「無」への衝動なのだ。

故に、人類の歴史は、「無」への渇望であり、金融資本主義の進化は、「無」のまま、投資によって、つまり資本の自己増殖運動によって生きていける物質的基盤を整えたという点で、「無」を渇望する人間の本性に見事に応えた。

さらに、「芸術」は常に人を引きつけるが、この芸術も、ルネサンス期のような何かダイナミックなシーンを描くものから、純粋な作品のリズムを楽しむような方向に変化しており、これもまた、「無」に沈潜したい人間の衝動に、感覚面から見事に応えている。

「有」が生み出す快感は、強くて短く、必ず苦痛を伴う。

しかし、「無」が生み出す快感は、深くて長く、苦痛を離れている。

これは老荘思想や仏教の真理であるとともに、エピクロスら西洋哲学が到達し、深めてきた真理なのだ。

以上、無の思想について、簡単にまとめた。

この思想を実践することが、私のライフワークだ。

私の目標は、子供たちが「将来何になりたい?」と聞かれて、「何よりも、私のままでありたい。」と答えられるような社会にすることだ。





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