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真理に到達しそうなハナシ2
3か月ほど前に、真理に到達しそうなハナシという記事を書いたら、結構好評だった。
読んでくださった方に感謝する。
今になって読み返すと、「かなり行き着くところまでは行っている」、「頑張っているな」、という印象だが、いかんせん愛が足りない。
これは決定的な弱点だ。
今回は、前回の続編であり、進化バージョン。
まさに、回心と言うべき出来事が起こったのである。
前回までの到達点
前回は、現代日本という制約された世界、ザ・世俗の世界で、どこまで真理を追い求める暮らしができるか、ということだった。
そこで僕が到達したのは
1つには、株式配当によって生活して、お金のための活動を一切放棄する
2つには、自分が買った山の中で、芸術的感性を磨く(土から陶芸作品を作る)
3つには、同じく山の中で、宗教的感性を磨く(一心に祈る)
という暮らしだった。
実際にこの暮らしを続けると、それまで社会に囚われていることで生じていた「苦しみ」が減り、心が驚くほど透明になった。
その喜びの中で書いたのが、前回の記事だ。
その反面、自分だけで高度な境地を楽しむことの「寂しさ」が、ふつふつと高まっていた。
今ならわかるのだけれど、僕の根底には、人間に対する大きな不信感があった。
「みんな、世俗に振り回されていて、自分が探し求めている境地を理解してくれる人なんて、出会えるはずがない」、という思いだ。
これが、僕の傲慢であり、孤独の根底であった。
大きな転換
さて、僕には大学時代の先輩で、当時宗教学を専攻しており、深く尊敬している女性がいた。
知的で情熱的な美人で、当時、芸術や哲学について、ゼミに乱入していた他学部の僕に、色々なことを教えてくれた。
もう7年くらい、会っていなかった。
最近、彼女がこっちの方に来る用事があり、「会おう」という連絡をもらった。
7年ぶりの再会だ。
積もるハナシもほどほどに、どうしても話題は真剣な方面に向かっていく。
普段なら、僕は、尊敬している人に対しては、聞くことに徹して、自分の世界をぶちまけないのだが、この時はなぜか、自分が到達した世界を熱心に、必死に説明した。
自分にウソをつく人生は嫌だということ、これ以上はカネも名誉もいらない、もはや世俗的な達成には興味がない、現代日本社会の中でも真理を目指す生活はできるということ、自然の美しさを超えるものはないこと、しかし、その思いは身の回りの誰にも理解してもらえず、寂しい思いを抱えているということ。
切切と言ううちに、だんだん感情的になってきた。
山に案内し、「誰も、この喜びを分かってくれないんだよ!」と言いながら、素っ裸で清流に入り、インドで学んだマントラを唱えて見せた。
耳に心地良いリズムで、たちまち忘我の境地に入れる便利な歌だ。
普通に考えたら、かなりヤバイ奴である。
コイツのオモテの顔は、エリート弁護士兼デイトレーダーである。
きゅうきゅうと世俗にもまれる人たちに対して、普段は高みの立場から、生意気なことばかり言っているのである。
それが、ウラの顔では、こんな山奥で全裸で、実は内面の孤独に苛まれながら、何かに必死に祈っているのだ。
僕は思いっきり祈って、唱えて、無我夢中となった。
普通に考えたら、これはドン引きされるだろう。
しかし、そうはならなかった。
突然、思いっきり抱きしめられた。
僕は目を開いた。
「私も、聖なるもの以外には興味がない」、と彼女は言った。
僕は驚いたが、言葉を発しなかった。
肌を刺す冷たい清流の中で、唇が紫になるまで、ただ抱き合った。
自分の最奥の境地を理解してくれる人がいた。
この瞬間、僕の人間に対する不信が晴れたのだった。
これは回心だった。
その後
彼女は、僕が次に学ぶべき世界は、「宗教学」であること、キリスト教の「愛」について学ぶことは大きな実りをもたらすはずだと教えてくれた。
そこで僕は、キリスト教への苦手意識を全部取っ払って、勉強してみることにした。
僕は、上座部仏教のマインドフルネス的な瞑想と、チベット密教の性エネルギーを活用した瞑想にシンパシーを感じており、絶対神はナンセンスだと考えていたのだが、とにかく、くだらない先入観を捨てて学ぶことにした。
いきなり聖書を読むのはキツいので、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を入り口に、聖書の世界を学ぶべきだとの助言をもらい、勉強を開始した。
小説と論考と聖書を交互に、一心に読み進めた。
僕は、甘っちょろい愛とか道徳とかいうものには、ゴマカシとルサンチマンがあるので、徹底的に拒絶する。
驚くほどに、キリスト教の説く「愛」は恐ろしく厳しく深いものだった。
僕は、打ちのめされた。
ひるがえって、仏教の「慈悲」という究極の価値観への理解、チベット密教の瞑想への理解が、飛躍的に進んだ。
それまでの僕は、傲慢であり、人間への不信に囚われていたので、「慈悲」という考え方が全く理解できていなかったのだ。
そのため、仏教の理解も、合理化されたもので、愛を欠いたものであったから、瞑想テクニックにとどまってしまっていたのだった。
次に僕は、ヘーゲル「宗教哲学講義」と西田幾多郎「場所的倫理と宗教的世界観」を読んだ。
宗教とは、「絶対なるもの」の探求であること、絶対なるものの探求には、「絶対無」に直面し、己の生存の根底と向き合わなければならないということを理解した。
そのためには、自己中心性はもとより、「人間中心的な道徳観」すら超えなければならないということが分かった。
僕が山にこもって色々やっていたのは、要するに、真の生命を疎外した、人間中心的な俗なる世界観に息が詰まっていたせいなんだ、ということが、深く納得された。
宗教とは、盲目的な信仰ではなく、己の存在と決定的に向き合い、突き詰めて突き詰めて、突き詰め抜いた「無我」の先に、「愛」又は「慈悲」を発見することなのである。
感情と知性の究極的共同作業である。
知性を伴わない愛は、すぐに憎しみに変わる。
中途半端な知性は、愛を殺す。
真の知性は、絶対的な愛に到達する。
今の生活
現在の生活は、究極の世俗的側面と、究極の聖なる側面に分かれている。
前者としては、相変わらずデイトレードをやっている。
岸田政権になってからは、特に読みが的中して、儲けが積み上がっていく。
「お金」のために働くことを超えてはじめて、「仕事」は、純粋な「愛」をモチベーションとするものに変わる。そのためにこそ、資本主義を徹底的に理解しなければならないのだ。
お金は、心を犠牲にして稼ぐものではない。資本が運動して積み上がっていく自律的な運動なのである。お金に労働の結晶が詰まっているという認識は、逆説的に、究極の拝金主義である。その労働は愛ではなく、お金から出発する不純なものであるという他ない。
この真理を体得するには、マルクス「資本論」、レーニンの「帝国主義論」、タレブの「反脆弱性」等を学んで資本主義への理解を深めつつ、同時に、資本主義の中心地である取引所に乗り込み、身銭を突っ込んで投資を行い、リスクの本質と資本の増殖を身を以て体験する必要がある。「資本は自己増殖するものである」「精神的な構造は、物質的な生産関係によって規定される」「リスクの構造を理解せよ」という3つの真理を、常にお経のように読み上げて身に染み込ませなければならない。
ここで少しハナシが逸れるが、純粋な宗教と社会主義思想は、突き詰めると、どちらも、人々が盲目的に従う「ニセ道徳」を徹底的に攻撃するものという共通点がある。宗教は、道徳に潜む人間中心性を暴き出して攻撃するし、社会主義は、既存の道徳が、実は支配者による弱者支配を基礎付けるものに過ぎないという点を暴き出して攻撃するものなのだ。
実際には、宗教はすぐさま権威を帯びて人間臭くなるし、社会主義は新たな支配を生み出してしまうのだが。
さて、ハナシを戻す。
究極の聖なる側面としては、専ら宗教を研究している。
理論面では、哲学的な見地から宗教の研究を、実践面では、チベット語を学び、チベット密教に真剣にコミットしている。
目標は、端的に、「無我」を基礎とした「愛」の解明である。
相変わらず、思索的な毎日だ。
しかし、そのモチベーションは過去と決定的に変わった。
過去の僕は、自分の精神を高めるのが目的だった、
今は、自分が精神を高めるのは、まずは彼女と高い境地を目指すとともに、同じく「正しい道」を経済的・哲学的・宗教的に解明し、求める人にシェアするためである。
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