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「ガンジスに還る」と僕の野望

昨夜は、本当に良い映画を見た。
「ガンジスに還る」
と言うインド映画。
死を悟ったおじいちゃんと、家族たちの、ガンジスのほとり、死の家を舞台にした、カルマ精算と深いコミュニケーションの物語。

まず、インドという舞台。
インドには、時空を歪めるパワーがある。
僕の人生は、大学時代に参加したヨガのクラスと、受講したサンスクリット語のクラスで完全に決まってしまった。
東京の真ん中にいる自分が、突然、古代インドの無始無終の時間の中に呑みこまれ、精気を湛えた大河の前で、聖者の導きを受けているような感覚に陥る。
それまでの、法律エリートを目指すエネルギーは、すでに走り出してしまっていたので止まらなかったけど、精神のレベルでは、完全に、インドの世界観の虜になってしまった。僕は、インドに持っていかれてしまった。

日本は寂しい。インドには、何かがある。
こう確信してしまった。

都会にいても、友達といても、仕事をしても、家族といても、どうしても満たされない、魂の渇望のようなものがある。
それを満たす何かが、現代日本にはない。古代インドには、ある。
こう確信してしまった。

人間には、知的レベル、感情的レベル、精神的レベルがある。
知的レベルは、高度な職業に打ち込めば、満たされる。
感情レベルは、愛しい人と一緒にいれば、満たされる。
しかし、精神的レベルは、それではどうしても満たされない。
何かが欠けている。それを埋める何かが古代インドには、ある。
こう確信してしまった。

もう止まらなかった。

インドのリシュケシュというヨーガのメッカに行った。
ヨガアシュラムに滞在した。偉大なヒマラヤ、聖なるガンガー、濃い朝霧、染み渡るサンスクリットの美しいマントラ、聖典に基づいたレクチャー、ハチミツとマンゴーとヤギのミルク、沐浴・・・。
もはや、説明は不要だった。
そこには、確実に、それがあった。

「ガンジスに還る」を見た時も、ああ、こういう世界が地球に存在してくれて、本当に良かった、と思った。
何かが、そこにある。
そしてそれは、他のあらゆる宗教の中に、僕が見出せなかった、何かだった。

世界に目を向けると、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、というセム型一神教が燦然と輝いている。
僕はダメだった。
峻厳な砂漠の神は、どうしても、この豊かで水に覆われた日本に育った僕の心を満たしてくれない。
仏教は、長い歴史と目も眩むばかりの多様性に阻まれて、その根源が遠すぎる。最初の精神は、教団のドグマに埋もれてしまっている。
日本の土着信仰、柳田国男の「遠野物語」のような、もの悲しく、幽玄な世界は、一番、日本人である僕の精神に響く。しかし、巨大先進国と化したこの国では、伝統は途切れ、力を失ってしまった。そして、一度途切れた伝統は、もう戻らず、イベント、見せ物として存続するのみ。僕は、残酷すぎるその現実を、嫌というほど見てしまった。
新興宗教は、どうか。
僕にはダメだった。現世利益の傾向に走るか、世界の宗教をごちゃ混ぜにした知的エリートの趣が強く、どちらにせよ、「人間の傲慢さ」を感じて受け付けなかった。

牛は、寂しいけれど、静かな目をしている。
仮に、屠殺されるとしても、その瞬間が目前に迫っていても、その目が怒りや恐怖に燃えることはない。
人間には、静かな目をした人が少ない。
目は、精神の窓。
目は、激情に燃え上がり、不安に転々とする。
ガンジスに還っていく人の目は、奥深い水のよう。ガンジスだけが映っている。
言葉にならず、美しい。
そして、周囲の見守る人は、その美しさに触れ、別れがもたらす、人間的な悲しみは、聖なる感動へと昇華される。

ああ、人は必ず死ぬ。
避けられないなら、僕は、悲しみたくない。
誰かを見送る時は、悲しみではなく、聖なる感動の涙で送りたい。
そして、自分自身も、聖なる感動でもって死にたい。

死から逆算して、全ての生を組み立てて行きたい。
自分が死ぬのは遠いかもしれないし、考えるのは難しい。
しかし、身近な人についてはどうだろう?
家族の死は、世代ごと、およそ20年ごとに巡ってくる。
今から、逆算して準備しなければ、時はすぐに迫ってくる。

「ガンジスに還る」では、おじいちゃんが、精神の深い世界に入っていき、無言で息子に何かを伝えようとする場面が何度もある。
そんな時、必ず、ヴーヴーヴーと息子の携帯が鳴る。
仕事や家族の呼び出しだ。
おじいちゃんとの僅かしかない代えがたい時間が打ち切られる。
なんて、胸が締め付けられる場面なんだろう。
仕事を辞めて、家族との最後に尽くすことは、現代人の多くにとって難しい。
ああ、マックス=ウェーバーが言った、「プロテスタンティズム」が育んだ、資本主義の精神、「鉄の檻」、止まることのできない職業人の世界。
天職、天職、天職。
僕は、これを憎む。
あらゆる人から、生命の感動を奪う、鉄の檻。
死は、生命の感動を分かち合う、最後にして最大のコミュニケーションであり、愛だ。
亡骸が薪の炎に焼かれて灰になり、自然に還っていく様子。自然と人間の生命の、究極のコミュニケーション。
ああ、還るとは、心の奥底に、そして、地球に。
こんな聖なる瞬間を、人任せにし、俗っぽい悲しみで処理するなんて、悲しすぎるし、寂しすぎる。

僕の野望は、脱、鉄の檻。
豊さを失わず、職業という脅迫観念を消滅させること。
資本主義との対決というより、「資本主義の精神」との対決。
そのための精神的基盤となるのが、プロテスタンティズムが生み出した合理的観念と対決できるだけの哲学。物質的基盤となるのが、資本。
哲学と資本を作り上げなければ、いけない。
そんなことして何になる?
一人でも多くの人と一緒に、生と死を通じた、生命の感動を取り戻すこと。












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