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「無」の思想に救われたハナシ

僕は、偉そうに話せるほどの不幸な目にはあっていない。

でも、その代わりに、「正しいこと」「善いこと」にはずいぶんと苦しめられた。

「こうするのが正しい」

「こうするのが良い」

「嫌われるようなことをしてはいけない」

「それはおかしい」

「そんなのは変だ」

「あの人はすごい」

こんな言葉を聞くたびに、心の奥底に反抗の炎が燃え上がる。

そして、行動に打って出る。

それでも大抵は失敗する。

そうすると

「ほらみたことか」

と言われる。

悔しくて仕方がない。

「自分はダメなのか。もっと、みんなが善い、正しいと言うことを受け入れないと、生きていけないのだろうか。ロクな人間にはなれないのだろうか。」

とてつもなく悔しくて、胸をかきむしりたくなる。

20歳になり、サラリーマンは組織内の「正しさ」と「良さ」に従わなければ生きていけないことを知る。

自分らしい生き方ができる、自営業の道が魅力的に思える。

しかし、20代半ばになって、いざ自営業の道に足を踏み入れると・・・

「皆様のニーズにこたえたい」

「世の中を良くしたい」

「色々な人に笑顔になってほしい」

「地域に貢献したい」

数多の上場企業がほざくような言葉を本気で言うハメになった。

この息苦しさも、また狂おしかった。

何かが違う・・・何かがおかしい・・・!!

胸の奥が爆発しそうになる。

僕は絶望した。

「人生って、こんなんだっけ?」

「善いこと、正しいことを言わなければ生きていけないんだっけ?」

「自分って、何なんだっけ?」

20代も後半になって、こんな息苦しさが一層渦巻いていく。

そんな苦しみが高まっていった、30歳。

カントを紐解いて、ようやくピンときた。

「正しいこと」「善いこと」は、普遍的な価値観、誰が見ても「正しいこと」「善いこと」なのだ。

その中には「わたし」がない。

ああ、そうか、「わたし」がないから、寂しくて、苦しいのか。

当たり前のことが、ハッキリとわかった。

若い頃、「正しいこと」「善いこと」を言われた時に、まるで「わたし」が無視されているように孤独と怒りを感じたのは、そういうことだったのか、と分かった。

そして、自分が社会システムに組み込まれるに従って、いつの間にか「正しいこと」「善いこと」を言わなければならない状況に置かれるようになり、いつの間にか、自分で「わたし」を殺していることに気付いた。

あれ、「わたし」が死んでいくのは、誰かのせいじゃなくて、自分のせいじゃないか。

そうなると、次は、「わたし」とは何か?と言う探求が始まる。

ここで答えることができないと

「ほーらみろ。お前なんてちっぽけな人間なんだ。偉そうに自分探して何になる?世間のニーズに答えながら、賢明に生きるしかねーんだよ!!」

という言葉に殺されてしまう。

凡夫が凡夫を凡夫の道に引き摺り込むための常套句に勝たなければならない。

しかし、曲がりくねった苦難を超えてきた僕、ドイツ観念論と仏教哲学に真剣に向き合ってきた僕にとって、この言葉を乗り越えるのにそれほど時間はいらなかった。

「そもそも、わたしは無だ。わたしは何者でもない。わたしの人生には意味が無い。」

「しかし、無というのは、虚無ではない。」

「無とは、無限定だ。」

「わたしは、無限定だ。」

「「わたし」は、強くもないし、弱くもない。カッコよくもないし、ブサイクでもない。誰かと比べることはできないし、誰かに理解されることもない。」

「しかし、無限定であるから、自由だ。」

この確信が胸の奥から燃え上がった。

般若心経の一節が浮かんだ。

「無明もない。無明が尽きることもない。老いと死の苦しみはない。老いと死の苦しみが尽きることもない。」

世界が180度変わってしまった。

「正しいこと」「善いこと」は、「わたし」とは無関係の、形而上学的な事柄だ。

「わたし」の人生はまたたく間に過ぎていくものだから、そんな大きな問題とは適当に付き合って、あとは「無限定」のまま生きていこう。

自分を職業に縛るのはやめよう。

無限定のまま、お金を稼ごう。

無限定のまま、世界を楽しもう。

そう思った。

そうして辿り着いたのが、「投資」と「美」の世界。

「投資」は、世界の動きを読み取るだけで、お金が稼げる。

「わたし」を何かに仕立て上げ、「限定」し、誰かの役に立つ必要がない。

こんなに自由な世界があったろうか?

「美」は、自分の心が震えるモノだけを追求すれば良い。

みんなが「キレイ」「カワイイ」「スゴい」というモノを追いかける必要はない。

美術館に古典的な名作を見に行って、「美しい肖像画だなー」と感心することも、いらない。

これは、対象を「美しい人物」という既存の概念に当てはめて、「限定」して愛しているに過ぎない。

「何だかわからないけど、感動する!!!」

これこそが、無限定の「美」だ。

何だか分からなくても、心は震えるし、生きることができるし、お金を稼ぐことができる。

「無」を資本主義に適用すると、「投資」に到達するし、感性に適用すると「美」に到達する。

1960年代、資本主義とアートを極めたアメリカで、投資と抽象画が大流行したのは、絶対に偶然ではない。

ああ、僕は、ついに救われた!!

もう、何になる必要もない。

もう、世間の流行を追いかける必要もない。

悲しみもない。

悲しみが尽きることもない。

喜びもない。

喜びが尽きることもない。

美もない。

美が尽きることもない。

ここまで悟った時、身体中が跳ね上がりそうで、思わず、5月、満月が照らす夜の町を走り抜けてしまった。

朝方、海に辿り着いた。

青みがかった空に、さっきまで一緒にいた満月が骨みたいに白く、力を無くして静かに浮かんでいた。

ただただ美しかった。

海の向こうは朝焼けがその1000倍のインパクトで燃えていたが、そちらの方は、少しも僕の心に響かなかった。

この白く薄い静かな月は、一晩を一緒に過ごした満月だったから、ただただ僕の心に染み入った。

この美しさは、皆がキレイだと思う朝焼けとは全然違う。

僕の心の奥底に、僕だけに響く美しさだった。

「無」の思想のおかげで、僕は救われた、というお話。

















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