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【ひのはら人#1】地域と調和しながら新しいことを仕掛ける、クリエイティブ百姓(N.Kさん)

「都心にいそうな、クリエイティブでお洒落な人」。それが、取材前に私が抱いていたKさんの印象だ。檜原村についてネットで検索すると、SNSの投稿やニュース記事でKさんの活動はよく見かけたし、それゆえにもともと都心で活躍していた方だということも分かっていた。そんな風に都心でバリバリやっていた人が、なぜ檜原村へ?そんな疑問を携えて、Kさんのご自宅にインタビューに伺った。

N.Kさん
福岡県生まれ。ライター、エディター、デザインディレクターとしてクリエイティブの現場で経験を積む。東京・青山でのファーマーズマーケットの運営に関わるなかで農業に興味を持ち、3.11後は東北の農家で5年間、復興支援活動に参加。2016年、家族で檜原村に移住。現在は都心での仕事も続けつつ、村内で複数の事業を立ち上げ、村に新たな産業を生み出す担い手として活躍中。

「東京都の村」である檜原村は、恵まれた田舎

表参道でカフェギャラリーを運営したのち、ライター、エディター、デザインディレクターとして都心で活躍──そんな華やかな経歴を持ち、自他共に認める"シティボーイ"だったKさん。そんな彼が田舎暮らしを志すようになったきっかけは、東日本大震災だった。

震災直後、都市機能がストップしたことを受け、生産現場とも遠く、地域のつながりも希薄な都市での生活の脆さや危うさを実感し、田舎への移住を考えるようになったという。その後、2016年に長男が生まれ、自然豊かな場所で子育てをしたいという思いも相まって、移住に踏み切った。

都心での仕事も続けるため、都心から50km圏内で移住先を探すなかで見つけたのが、檜原村だった。候補地は他にもあったが、最終的に檜原村を選んだのは、「東京都の村」であることに可能性を感じたからだという。

Kさん「『東京都の村』というのは、穴場だと思いましたね。東京都は、日本の自治体で一番お金がある都市。その恩恵を受けられる檜原村は、かなり恵まれた田舎だと思います。実際、檜原村は甲武トンネルで山梨県と繋がっていますが、トンネルを超えて山梨県に入ると、道路の整備状況がガラっと変わります。檜原村の道路の方が、断然綺麗に整備されているんですよね」

Kさんのご自宅の目の前の景色。少し小高い場所にあるお家は、最高の眺めだ

人口約2000人の山間地域にも関わらず、村内には医師2名が常駐する診療所があり、ほぼ全域に下水道が敷設されている。同じ規模の他自治体と比べると、確かに檜原村は「恵まれた田舎」だと言えるだろう。

移住の大きなきっかけになった子育て環境については、都会と比べて子どもを伸び伸び育てられる環境に満足しているという。また、移住前には予想していなかった利点として、Kさんは「余計な情報が入ってこなくなることで、精神的にも時間的にも余裕ができた」ことを挙げた。

Kさん「人との接触機会が減って、余計な情報も入ってこなくなるから、本来自分がやるべきことに集中できるようになったと思います。檜原村に来てからは、『自分にしかできないことは何か?』を、すごく考えるようになりましたね。情報も仕事の依頼もたくさん舞い込んでくるがゆえに流されてしまいやすい都会とは、そこが大きな違いだと思います。

とはいえ、檜原村は都心へのアクセスも良いから、人に会おうと思えば会えるし、日常のコミュニケーションはSNSがあるし。確かに都会を離れたんだけど、そんなに離れた気もしていないですね」

檜原村には、子供と遊べる沢がたくさんある

クリエイティブ百姓として、様々なジャンルの仕事に関わる

Kさんは移住後、まずは役場で非常勤職員として働き、その後、村内で複数の事業を立ち上げた。都心での仕事も多数ある状態で移住したKさんには、都心の仕事のみで生計を立てる選択肢もあったはずだが、なぜあえて村でも仕事をしようと思ったのだろうか。

Kさん「都心の仕事だけでやっていくことも可能ではあったけど、それはちょっと違うと思いましたね。地域の資源やインフラにフリーライドするのは搾取だと思ったし、自分の住んでいる場所をよくしようとするのは当然のことだと思ったんです。

檜原村に来た当初は、都心での仕事が8割、村での仕事が2割くらいでしたが、今は都心の仕事の方が若干多いくらいで、だいたい半々になってきています」

Kさんが村内で新たに立ち上げた事業は、檜原村産の小麦を使った「麦わらストロー」の生産・販売事業や、会員制のキャンプフィールドの運営事業、宿泊施設付きのコワーキングスペースの運営事業など。ディレクターやプロデューサー的な立場で多岐にわたるジャンルの事業に関わる自身のことを、Kさんは「クリエイティブ百姓」だと自称する。

Kさんが手掛ける、宿泊施設つきコワーキングスペース

Kさん「『百姓』という言葉には、百の姓(かばね)=職業を持っているという意味がありますよね。昔から村で暮らしてきた人たちは、みんなそういう意味での『百姓』だったと思うんです。農業、山仕事、大工仕事…なんでも自分でできちゃいますから。

彼らを百姓と呼ぶなら、僕は言わば『クリエイティブ百姓』というか。昔ながらの百姓の人たちのスキルに、今の時代に合った新しいスキルを加えて、いろいろなことができるようになりたいと思っていますね」

Kさんが生産・販売に関わる、麦わらストロー

人口が少ない地方では、一つ一つのマーケットが小さいため、単一の職能だけで食べていくのは至難の業だ。だからこそ、複数の仕事を持ったほうが生活を安定させやすい。また、地方ではあらゆる領域で人材が不足しているからこそ、自分の職能を広げやすいという一面もある。未経験の領域でも「これ、お願いできない?」と仕事の依頼が舞い込んでくることはザラにあるし、都心と比べて競合となる相手も少ない。そうした意味で、地方での暮らしと百姓的な働き方は、相性がいいと言えるかもしれない。

Kさん「僕が就活をしていた頃は、一つの職能に特化する『プロフェッショナル論』が持て囃されていたんですが、僕はそれにずっと違和感があって。一つの職能に特化してしまうと、市場動向が変わってその職能の需要がなくなったら終わりで、すごく脆弱だと思うんです。だからこそ、特に現代のような変化が激しい時代においては、ある一つがダメになっても他の選択肢を持てる、百姓的な生き方をしている人こそ強いんじゃないかと思います」

自宅は築100年超の古民家。補助金を活用し、洗練された内装に改修

そうやって存分にクリエイティビティを発揮して仕事をするKさんは、住まいもクリエイティブだった。

Kさんが暮らすのは、築100年を超える立派な古民家。檜原村でよく見かけるタイプの、昔ながらの木造住宅だ。しかし一歩中に入ると広がるのは、コンクリート打ちの床に都会のカフェのようなインテリアが並ぶ、モダンな空間。取材の際、外観と内装のいい意味でのギャップに、思わず感嘆の声をあげてしまった。

Kさんが暮らす古民家の外観

一方で、壁や天井が取り払われていることで、古民家ならではの太く立派な梁も目に入る。天井の高さと、そこから来る開放感も、最近の住宅では味わえないものだ。モダンなお洒落さと昔ながらの家の造りの魅力が調和した、とっても素敵なお家だった。

Kさん「購入当初は、こんなに片付いてなかったですけどね。3年間ぐらい空き家になっていたみたいで、床は半分以上抜けていたし、物の量もすごかったです。空き家活用事業として村から支給される補助金も活用しつつ、家財道具の処分や改修をしていきました」

Kさんのご自宅の内側

Kさんは、移住当初は賃貸の村営住宅に入居したが、人づてに空き家の情報を得て、現在の家を購入したという。地方では都会とは違って、表には出てこない空き家の情報がたくさんある。地域のつながりが濃いからこそ、空き家の持ち主が「自分の物件に入居した人が、地域と良い関係を築いてくれるかどうか」を懸念して、見知らぬ人に売り貸しするのをためらうケースが多いからだ。Kさんが今の家の情報に出会ったのも、約2年間村で暮らしてからだった。

Kさん「この家の情報は、役場の中にあるカフェ『せせらぎ』のマスターがくれたんです。当時、マスターとは観光協会の仕事を一緒にやっていて、仲良くなって。村の人はみんななんだかんだ役場に来るから、あのカフェは村の情報が集まる場所の一つだと思います」

改修中のKさんのご自宅の様子

田舎には、非常時に助け合えるつながりがある

そんなKさんの自宅が位置するのは、役場がある村の中心地や、Kさんのお子さんが通う保育園からほど近い「下元郷(しももとごう)」エリア。都市生活の脆弱性に危機感を持って移住を決めたからこそ、Kさんはご近所づきあいを大切にし、地域の消防団にも所属している。その結果、気軽に相談できる関係性を築くことができ、暮らしやすさを感じているそうだ。

Kさん「近所で仲良くしてもらってるおじいちゃんは、よくマムシをくれるんです(笑)。それに僕らもお返しをしたりと、いろいろなものを贈り合っています。マムシ、美味しいですよ」

おじいちゃんが持ってきたマムシ(皮むき済み)

そうした関係性をつくることは、日々の生活の豊かさに繋がることはもちろん、非常時には互いに協力し、助け合えるという安心感にも繋がる。東日本大震災の後、5年間に亘って現地に通い、復興支援をしていたKさんは、助け合える関係性が残っている田舎の強さを実感したのだという。

Kさん「被災した方々はもちろん大変ですが、みんなで助け合えるからこそ、都会の人たちが想像するほどは困っていないんです。2016年の熊本地震で被災した友人も、同じようなことを言っていました。だから僕は、首都直下型の地震が一番怖いと思っていて。果たして都会の人たちは助け合いができるのかな?って。

『災害が起きても、お金があればどうにでもなる』と考えている人が一番危ないと思うし、そういう人は多分、檜原村には来ない方がいいと思います(笑)。お金では解決できないことがたくさんあるから、面倒くささを感じちゃうと思いますね」

Kさんの家の下の畑で、みんなで農作業を行う様子

移住は、世を捨てるためではなく、地域と関わるためにするもの

村でも仕事をつくり、ご近所づきあいを大切にし、消防団にも所属する。Kさんの話から感じたのは、「地域を大事にし、ちゃんと関係性を築く姿勢を持つ」というKさんの信念だ。

Kさん「3.11の後、福島県にある、1970年代から続いているコミューンを取材する機会がありました。コミューンの創設者の方は、既存の社会システムから逃れて、山奥に自分の理想郷を作ったのですが、結局そのコミューンは福島第一原発の20km圏内エリアになってしまったんです。その時にその人が言った、『逃げてきたけど、結局逃げられなかった』という言葉が、すごく印象的で。やっぱりこの社会で生きている以上、社会からは逃げられないんですよね。絶対繋がっているし、繋がらないと生きていけない。

だからこそ、既存のシステムや、住民の方々、地域とちゃんとコミュニケーションしながら新しいことをやっていかないと、ずっと続く取り組みにはならないと思うんです。何かから逃げようとして田舎に来ても、結局逃げられないんですよね」

現在、檜原村で地域おこし協力隊として働いている筆者も、移住先を探すために全国各地を回った過去がある。その経験を踏まえて感じる、他の地域と比べた檜原村の特徴は、バランス感覚のいい人が多いということだ。都心とも近い土地柄ゆえだろうか、都心を中心とした「多数派の社会」とも、上手にバランスを取って生きている人が多い印象がある。世を捨てるのではなく、うまくバランスを取りながら、自分のやりたいことを実現していく。Kさんがまさに、そういう人だった。

最後に、檜原村への移住を検討している人に向けてのメッセージを伺うと、「新しいことをやろう」と力強いメッセージをくれた。

Kさん「新しいことをやるのが、移住者の役割だと思っています。村で生まれ育って、死ぬまでここで生きていこうって人は、どうしてもチャレンジしにくいと思うんです。何かあったら、帰る場所がなくなっちゃいますから。だから失敗したら出ていくぐらいの気持ちで(笑)、僕ら移住者がやるしかない。それぐらいのつもりで、僕もやっています」

まさに村内での新しい挑戦となる、Kさんが手掛けた滞在型サテライトオフィス&コワーキングスペースは、2022年10月中に開業予定だ。筆者も、檜原村に来た移住者の1人として、大先輩のKさんの背中から学ばせていただきながら、新たなチャレンジをしていきたいと思う。

【ライタープロフィール】
高野 優海 note
早稲田大学文化構想学部出身。都心のベンチャー企業勤務、栃木県・非電化工房での自給自足の修行を経て、2022年8月より東京都檜原村地域おこし協力隊に着任。副業でフリーのライターをしつつ、村の情報発信を担当する。