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「そういうもの」には、そうじゃなくてもいいものも多い。

最近、剃刀やシェーバーの進化ってすごいなぁとよく思う。
イヤホンケースなんじゃないかというくらいコンパクトなものがあったり、柄の部分が竹や紙でできていて環境問題を意識した商品もある。

普段それらにあまり用がなくじっくり見たことがなかった私は、ふと興味が沸いて店頭やネットで色々な商品を眺めてみた。そしてあることに気がついた。それは「色」である。


男性用の剃刀はどれも概ねボディは黒やシルバーが多く、デザインも力強いイメージを彷彿とさせる。カラーバリエーションが豊富な商品でもブルー、グレー、グリーンなどが主流で、暖色系の色はあまり存在しない。

対して女性用の剃刀はというと、こちらはピンクや紫、黄色などの色がほとんどで、ブルーやグリーンでもパステルカラーだったり、全体的にやわらかい印象のものが多い。
まるで赤ちゃん用品でよく遭遇する「男の子は青の車柄」「女の子はピンクのお花柄」と同じような現象だ。


今まで私は「まぁそういうものなのだろう」と特に気にせず捉えていた。
だがもしかするとこの区別が、「そういうもの」という概念があるからこそ「そうじゃないもの」という感覚を生んでいるのではないかと思った。

もちろん剃刀や赤ちゃん用品を作っている人にその意図はないと思う。区別をすることにそもそも悪意などない。
しかし、差別もまた根本は悪意のないところから生まれるものだと私は思っている。


色や形、性格、考え方。私たちの世界には「そういうもの」を根付かせる要素がいくつも潜んでいる。
日常のほんの些細なことや、自ら判断したりコントロールができないような時点から、知らず知らずのうちに「そういうもの」は形成されていく。そしてそれに共感したり、そうではないものを不思議に思ったり。

そこに心のねじれが生じていくと偏見が生まれて、エスカレートすると否定行為や除外行為になっていくのではないだろうか。


差別とは、特定の属性を有する個人や集団に対して、異なる扱いをする行為であるとされる。
ではなぜ「異なる扱い」をするのか。そこを掘り下げていくと、先ほどの「そういうもの」という無意識のうちに形成された感覚が潜んでいるようにも思う。

自分の感覚に「なぜ」を常に向けてみること、それを一人一人が感じ、考えることで、私たちはもっと自分らしく生きることができるし、その人らしく生きている人をフラットに受け止めることができる気がする。

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日野笙 / Sou Hino
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