見出し画像

絶唱

 日本の都市部はいつになったら、朝の通勤ラッシュの解消に本腰を入れるのだろうか。狭い車内で人という名のお荷物に圧し潰されそうになりながら、俺は深い溜息を吐いた。

 目の前にいたおっさんが片方の眉を吊り上げて、こちらを睨んでくる。睨みたいのはこっちの方だ。しかし、ここで睨み返してトラブっても面白くない。こういう無遠慮な奴に限って、導火線が短いのだ。俺はつい、と視線を逸らして、窓の外を見る振りをする。

 視線の先には人の頭が並んでいる。窓の外など見えるはずもなく――それでも俺は窓のある方向に目を凝らした。

 午後七時半過ぎ。勤め先のある最寄りの駅まで一〇分あまり。急行列車は停車するたびに人が入れ替わるだけで、その数は減らない。人の出入りでもみくちゃにされるので、いっそ止まらないでくれ。そう願いながら、この通勤もかれこれ五年は続いていた。

 またもや漏れそうになる溜息を欠伸に乗せて、俺は大きく口を開いた。目の前にいたおっさんが迷惑そうな顔をしたが、今度はそちらの方には見向きもしなかった。

 ――今日はこいつにしようか。

 そう心に決め、俺は最寄りの駅に着くのを待った。

 特徴的な抑揚で、車掌が駅名をアナウンスする。俺は電車の扉が開くのと同時に、「降ります! すいません、降ります!」と叫んだ。周囲の迷惑そうな顔も無視して、人を掻き分ける。

 歩き出した瞬間、俺のことを睨んできたおっさんの位置を確認する。隙間なく並んでいる人の中を身を捩って進む振りをして、足元にある革靴の甲に、思い切り自分の踵を乗せた。

「いってえ!!」

 痛快な悲鳴を背中で聞きながら、俺は急いで電車から飛び降りた。その瞬間、空気の抜けるような音を立てながら、扉が閉まった。振り返ると、さっきの悲鳴を聞いていた乗客が訝しげに車内に視線を注いでいた。

 人のことを無遠慮に睨みつけるから、そんな目に遭うんだよ。心の中でほくそ笑んで、俺は軽やかな足取りで会社に向かった。



 ◆*◆*◆*◆



 その日の仕事も散々だった。先方の要望がころころと変わり、上司はそれにはいはいと頷くだけ。それに振り回されるのは俺たち下っ端だというのに、先方の顔色を伺うことしか考えていない。

 結局上司の持ち帰ってきたのは変更された要望と、それに伴う業務だけであった。誰もが大きく溜息を吐いて、呆れた返事をするだけであった。

「すまんな」

 上司は調子のいい笑みを浮かべて頭を掻いた。あんたはいつもそればっかりだ。

 返事もせずに仕事を受け取り、デスクに戻る。こっちがいくら困ると伝えても、奴は一向にそれがわからないらしい。いや、わかってはいるのだろうが、巧く交渉を進めることができないのだ。

 とんだ無能が昇進しちまったもんだ。奴よりも実績を上げている奴はたくさんいるのに、と心の中で愚痴を溢す。しかし、奴の昇進も当然だろう。ああいった人間がいてくれるおかげで、上の者は無理な仕事を押し付けやすくなるのだから。

 俺の会社では口が巧く、できる奴ほど出世が遠い。だからどんどん人が辞めていく。その代わり、年中求人を出しているから人はやってくる。優秀な人間が抜け、駄目な人間が補充されていくのだ。お先真っ暗もいいところだ。

「すいません、ちょっと来てもらっていいっすか?」

 二十そこそこの男が声を掛けてくる。俺は盛大に溜息を吐きながら、椅子をくるりとそちらに向けた。言葉遣いを正すのも疲れてくる。

「用件を言え。みんな時間がないんだから、余計なことを考えさせるな」

「ああ、はい。コピー手伝ってほしいんすよね」

「そんなもん、一人でやれ」

「あ、両面刷りで頼まれちゃってえ……俺、よくわかんないんすよね」

「そんなの設定いじれば終わるだろう。やってこい」

「じゃあ、もういいっす」

 そう言い残して、男は行ってしまった。入社して一週間だったか? 名前も思い出せん。

 次の日来てみると、男のデスクはすっかり綺麗になっていた。上司が困った顔でこちらに近寄ってきて、「コピーくらい教えてやれんのか?」と言ってきやがった。どうやら、俺のせいだと言いたいらしい。知るか。

 そんなストレスフルな日々の中で、唯一の楽しみが満員電車を降りる瞬間であった。あの混雑の中で思い切り足を踏んでやったって、俺がやったなんてバレやしない。毎日毎日、俺は見知らぬ誰かの足を踏み続けた。あるときは呻き、叫び、絶叫する。人によって反応はまちまちだ。声を殺して耐える奴もいれば、小さく舌打ちをする奴もいた。でもまだ、俺だとはバレていなかった。



 ◆*◆*◆*◆



 その日の夜、俺はいつものように苛立ちを抱えて、一人電車に揺られていた。腕時計は十一時半を指していた。今日は早めのご帰宅だ。そう自嘲しながら、俺は躰を前に屈めて、膝の上に肘を置いた。

 明日もまた、同じように満員電車に揺られるのかと思うと憂鬱な溜息が漏れる。また誰かの足を踏みつけてやる。そう心に決め、明日はどの位置に立とうかと頭の中でシミュレートする。

 そのときだ。

「痛っ!」

 誰かが俺の足を踏みつけやがった。眉間に皺を寄せ、面を上げる。まだ電車は止まっていない。俺の足を踏みつけた不届き者を睨みつけてやろうと、車内を見渡す。しかし、車内には俺一人。どこにも人影はない。

 ――そんな……。

 確かに俺の足を踏むスニーカーを見たはずだ。それに俺が座っているのは車内の丁度真ん中。隣の車両に移るには、早すぎる。

 訝しげに首を傾げると、またもや足に激痛が走った。思わず見下ろした足元には、俺の足の甲を踏むヒールの踵があった。

「おい、てめえ!」

 そう叫びながら顔を上げると、またもや誰もいなかった。頭の中に浮かんだ、意地の悪そうな女の顔がすっと消えていく。

「……何だ?」

 唖然とする俺の足に、三度目の激痛が走る。

 今度こそ、俺は見た。俺の足を踏みつける革靴と、膝から下しかない男の足――何だ、これは?

「ひっ……!」

 男の足は、霧のように消える。

「困りますよ、お客さん。そんなに騒がれちゃ」

「……!」

 気づけば目の前に、帽子を目深に被った車掌が立っていた。いつの間に――そんなことを考える間でもなく、その車掌がまた俺の足を踏みつけた。

「ああああああああああ!」

 刃物で貫かれたような激痛。俺は車内に響き渡るほど絶叫した。

「車内ではお静かにお願いしますよ?」

「お、まえが……足を……!」

「でも、皆様それでも声を押し殺して我慢なさっていましたよ」

「え……?」

「貴方に足を踏まれたお客様は皆、少なからず騒がずに耐えてらっしゃいましたよ?」

「何を言って……?」

「これまでの行いの報いだと思えば、この痛みもご納得なさるかとおもいますがね?」

 車掌の被った帽子の奥で、赤い光が煌いた。にたりと歪んだ口元に、小さな牙が覗いた。気づけば窓の外は真っ黒な闇に塗り潰されていた。聞こえるはずの風の音も、車輪が鳴らす固い音も消えていた。

「この車両には貴方しかおりませんので、存分に叫ぶなり怒鳴るなりなさるよろしい。それで償いとなることをお祈り申し上げます。それでは、ごゆっくり」

 車掌はそう言い残すと、俺の足を踏みにじって消えた。

 唖然とする俺に、更なる激痛が襲う。右足、左足の区別なく、次々に踏みつけられていく。革靴の固い底が圧し掛かったかと思えば、ピンヒールが無遠慮に甲を貫いた。スニーカーが踏みにじり、サッカーのスパイクがいくつも俺の足を踏みつけていった。

 どれも膝からしただけ。踏みつけては消えていった。

「ああああ……ああああああ、あああああああああああああああっ!!!!」

 もう形振り構っていられなかった。叫ばなければ耐えられない。踏みつけられるたびに俺は叫んだ。次第に声は嗄れ、空気だけが喉を通るようになっても激痛は終わらなかった。

 電車は走る。どこまで? わからない。この痛みは、いつまで続く? 終わりは、あるのか?

 それを訊ねる余裕もない。俺は叫び続けた。際限のない痛みを、少しでも和らげるために。

#小説 #短編小説 #短編 #物書き #長編小説 #ファンタジー

ここから先は

0字

¥ 100

つれづれなるままに物語を綴っております。何か心に留まるものがありましたら、ご支援くださいまし。