慈愛
「殺してあげよっか?」
何とも穏やかな笑顔で彼は言った。私は顔を上げて、その穏やかで優しい笑みを見た。湯を一杯に張った浴槽に浸かりながら、言葉とは裏腹ないけ好かない顔に向かって、吐き捨てる。
「できもしないくせに」
「できるさ」
「嘘」
「本当だ。何てったって、僕は優しいからね」
甘く囁くように彼は言う。いつもそうやって人を誑かしてきたのだろう。私は彼を睨んだまま、言い返す。
「悪魔が優しいのは言葉だけ。嘘しか言わないのよ」
「嘘なんか言わないよ。ただ人間が勝手に期待して、その結果に嘆くだけだよ」
「それを人間の言葉で騙すっていうのよ」
「じゃあ、騙される人間が悪い」
「……!」
何も言い返せない。
彼の言うことは本当だ。彼は嘘など一つも吐かない。彼は悪魔だった。望まれたことを叶え、それに見合う対価をもらう。人間は望みが叶ったことを喜び、彼が要求する対価に絶望するのだ。
自分勝手な人間の思考回路を巧みに利用し、彼は望ませ、奪う。
「ほら、どうだい? 君は今、死を望んでいる。違うかい?」
「……」
一人暮らしのアパートの一室。湯を張った浴槽の中、私は剃刀の刃を片手に逡巡していた。そこへ彼はやってきた。
黒く長い、不潔な髪。青白い肌に、黒い衣服を身に纏って、浴室の天井近くを漂っている。
私はさして驚かなかった。驚く余力すら残っていなかった、と言った方がいいのかもしれない。何かに心を動かすことに、ほとほと疲れていた。突然現れた彼が強姦魔だろうと強盗だろうと、どうでもよかった。殺すなら殺せ。その方が自分で命を絶つよりも幾分かましだろう。そんなことさえ考えていた。
剃刀を握った私に、彼は悪魔だと名乗った。私は鼻で笑った。
剃刀の刃に気づいた彼が放った言葉が、「殺してあげよっか?」だった。
「望みを叶えてやるのが悪魔の仕事さ」
「でも、対価が要るんでしょう? 死んでしまったら、対価は払えないじゃない」
「それは君の心配することではないよ。それ相応の対価を頂いていくから」
「対価が明かされないから心配なのよ」
「これから死ぬのに、何を心配するのさ」
「だから、残された人たちに迷惑が掛かるようなものがなくなったりしたら、困るでしょ」
「誰が?」
話のわからない悪魔だ。私は大きな溜息を吐きながら、答える。
「残った人たちが困るでしょう? それに、私も困る」
「君が困っているのは今だけだよ。死んでしまえば、困ることすらできないんだから」
「……」
悪魔の言葉を聞いて、私は口を噤んだ。いや、何も言えなくなってしまったのだ。死んだ後の、私自身のことを想像して――。
どうして悪魔が私の心配ごとを不思議がるのか、だんだんと掴めてきた。悪魔は私の死んだ後のことを知っている。死んだ私の意識がどこへ行くのか、彼は知っているのだ。その口ぶりから察するに、死んでしまった私という意識は、その瞬間に消えてしまうのではなかろうか。
だから、今ここで私を悩ませている心配事の数々は、悪魔にとってみれば悩む価値すらない些事なのだ。死んでしまえば何を対価に支払ったのか、そしてそれで誰がどのように困るのかを見ることもできない。
誰かが困る姿を見ることができないのだから、その姿に心痛めることも――そもそも痛める心すら消えてしまうのだ。
ゾッ――。
私の背中を何かが這い上がり、首筋を撫で上げた。鳥肌が立ち、寒気がしてくる。
「どうしたんだい?」
悪魔が不思議そうに首を傾げる。
私は両腕で己の身を抱きながら、不敵な笑みを見上げた。天井から結露した雫が垂れて、静かに音を立てた。水面に広がる波紋を感じながら、私が一層深く湯の中に躰を浸した。
「寒いのよ」
「そうかい」
「あなたが変なことを言うから、寒いの」
「変なこと?」
「……黙って」
私はさっき頭に過った考えを振り払うべく、小さく首を振った。
浴槽のへりに置いた手を――その指先に摘ままれた小さな刃を見つめて、大きく息を吐く。これを手首に当てがって、滑らせるだけだ。横ではなく、縦に。
躊躇い傷なんて作らない。ぐっと手の甲の方向に手首を曲げると、青白い血管がいくつも見えた。その中の一つを切り裂けば、きっとすぐに楽になる。
「……僕に頼れば、そんな怖い思いをせずとも済むのに」
「怖くなんかない! いいから黙っててよ!」
思わず叫んでいた。タイル張りの浴室に、悲痛な声が響く。悪魔は全く動じず、私の目を真っ直ぐに見ていた。
湯船の中で震えるもう一方の手。私はそれをそっと見つめた。ゆらゆらと揺れる水面の向こうで、像を歪めていた。
カラン――。
固い音を響かせて、剃刀の刃が指から滑り落ちた。そして、浴槽の縁に私は額を押し付けた。一粒の雫が睫毛から滴り、水面に波紋を作った。唇を噛み締め、肩を小刻みに震わせる。
意図せず、喉から嗚咽が漏れた。男の気配はとうに消えていた。
私が本当に望んだのは、死ではなかった。悪魔は勝手に、私の望みを叶え、その代償を私に払わせた。
生きたい。それが私の願いだ。
永遠とも思われる、生の苦しみ。それが私の、一生涯を掛けて払う代償だった。
安いものだ。そう思えている自分に、思わず笑みが零れた。
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