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宿り

 真っ黒な棺の中には、色とりどりの花が鏤められていた。クレアもその中に、自分の持っていた一輪の花をそっと置いた。彼女のすぐ後ろにはクローディアが立っていた。彼女はまだ八歳の孫の肩をそっと抱き留めて、その耳元で囁いた。
「ほら、お母さんに最後の挨拶を」
 棺に横たわったモニカを覗き込むと、クレアは小さな手を伸ばした。すっかり冷たくなった頬に触れて、少女は目を瞬かせた。
 棺の縁から身を乗り出して、クレアは母の頬にそっと口づけを落とした。戻ってきたクレアの体を、クローディアはもう一度固く抱き締めた。クレアの青い瞳が潤み、静かに涙が流れた。
 その足元に、毛のない犬のような生き物が擦り寄った。
「オズワルド……」
 この得体の知れない生き物の名を呼ぶと、クレアは次々と涙を落とした。大粒の雫がオズワルドの滑らかな肌の上に落ちると、彼はそれを長い舌で舐め取った。
 大きな口が開くたびに、サメのように鋭い牙が覗く。何度もクレアを見上げる素振りを見せるが、その顔に目がなかった。犬であれば耳朶があるはずだが、それもなく、ただ頭の左右に孔が一つずつあるだけだった。
 モニカの見送りは家族だけで執り行った。彼女が罹患した病の感染を恐れて、誰も葬儀に来てくれなかったのだ。モニカが病に倒れてから、近隣の人間の態度は急変した。それを幼いクレアは肌で感じていたが、理由はわからなかった。
 幼い孫を憐れんで、クローディアはもう一重固く抱き締めてくれた。しかしクレアは、祖母の体温よりも足元でじゃれてくるオズワルドの生温さの方がホッとするのだった。
「ねえ、あれ見て」
「何してんの! 行くわよ!」
 墓地の外を通った親子が、足早に去っていく。冷ややかな視線を一家に向け、墓地の向こうにある角を曲がった。
 クローディアがそっと親子の消えた角を見てから、クレアの耳元で言った。
「気にしちゃいけないよ……。人の死は、そういうもんさ」
「ママは何も悪いことしてないわ」
「そうさ。悪いのは全部、病気のせい。モニカが悪いんじゃない」
 今度こそ、クレアは祖母の腕を固く掴んで離さなかった。

 モニカが病に倒れたのは、ひと月前のことだ。ちょうど我が家にオズワルドを迎えて三日目のことだった。
 初めは調子が悪い程度の病状が日を追うごとに悪化していった。肌は次第に紫に変色し、意識が混濁していった。時折幻覚が見えるのか、悲鳴を上げることもあった。
 幼いクレアの目に、その光景は悪魔が母の身に降りてきたように見えた。
 医者はお手上げだった。巷で流行っている、原因不明の病であることは分かったが、為す術もなかったのである。
 最期の一週間は声すら発することができず、モニカは息を引き取った。
 一家にとって、壮絶なひと月が終わりを告げた。
 そして、息つく間もなくクローディアが病に臥せた。

「おばあちゃん、ご飯持ってきたよ」
「ああ、ありがとうねえ……。オズワルドも一緒かい? 今日も元気だねえ」
「ご飯の匂いがするから、さっきから大はしゃぎなの」
 クレアは足元を走り回るオズワルドを器用に避けながら、ベッドの傍にある机の上に鍋を置いた。クローディアはそれを自分の腹の辺りに乗せると、震える手で蓋を取った。
 湯気が立ち込める。その蒸気を浴びながら、クローディアは柔和に破顔する。
「おいしそうだ。オズワルドがはしゃぐのも無理ないねえ」
「でも、オズワルドはご飯があるから駄目よ。おばあちゃん、ゆっくりね?」
 クレアはオズワルドを抱えて、ベッドから離れた。鼻先に薔薇のような上品な香りが漂う。オズワルドは見た目に反して、いい匂いがする。クレアは彼の躰に鼻を押し付け、目一杯息を吸った。
 そんなクレアを微笑みながら見ていたクローディアは、
「はいはい、ありがとうね」
と言って、小さく手を振った。
 クレアもそれに微笑みで答えて、寝室を後にした。
 翌朝、クローディアは冷たくなって見つかった。口から血の泡を吹き、体中を掻き毟った跡が残っていたそうだ。クレイグは、立て続けに家族を失った娘にはとても見せられないと、クレアを部屋には入れてくれなかった。
 クローディアの遺体は、クレイグとフィルの手によって、納棺された。残された家族は、近隣からまるで腫物のように扱われ始めた。
 悲劇は続く。
 今度はフィルが病に侵されたのだ。歳の離れた兄は、クレアに笑顔でこう言った。
「俺は大丈夫。妹の花嫁姿を見ずに、死ねるか」
 しかし、彼の言葉を嘲うかのように、病はその身を貪っていった。少し遅れて、クレイグも倒れた。一人残されたクレアを憐れむ者は、誰もいなかった。
 このまま、クレアも死ねばいいとさえいう者もいた。
 クレアは家に閉じこもるようになった。呻き声が聞こえてくる扉に背中を預け、彼女はオズワルドを抱き締めた。
「ねえ、オズワルド……貴方にだけ言うわ。私もこの頃、胸が苦しいの。私もお母さんやおばあちゃんみたいに、病気になっちゃったみたい。お兄ちゃんやお父さんみたいに、動物みたいに呻くようになるのかも……。どう思う?」
 キシャーっ!
 オズワルドは否定してくれているのか、奇妙な声で鳴いた。サメのような歯がギラリと煌き、涎が糸を引く。クレアはそっと微笑みを浮かべて、オズワルドの頭を撫でた。人よりも少し低い温もりが、クレアの手には心地よく感じられた。
「眠くなってきちゃった……。少し眠ったら、ご飯を作らなきゃ……二人とも、お腹空かせて……る……」
 朦朧とする意識の中で、最期にクレアが見たのは、大きく開いた咢とその中に整然と並ぶナイフにも似た牙であった。
 その後、血塗れになった家に住む一家の行方を知る者は、ついぞ現れなかったという。

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