水底の姫

 深い、深い、海の底――冷たい海水に晒されながら、彼女は待っていた。自分と添い遂げるべき相手を。

 水面は激しい波に白んでいたが、海中深くは穏やかであった。海流に身を任せ、彼女は尾鰭を優美に漂わせていた。豊かな髪は緩やかに波打ち、彼女の周囲に広がっていた。青白い肌には、波間に象られた光が斑に落ちていた。

 うっすらと瞼を開け、彼女は先の尖った耳で海の歌声を聞いていた。

 星の自転に呼応して流れる海水や気泡が水面へ登る音、鯨の唄が遠く聞こえたかと思えば、すぐ傍で大きな魚が獲物を追って身を翻す気配を感じた。

 今日も海は穏やかさと激しさを繰り返しながら、生きていた。

 その命の波動を一身に感じながら、彼女はそっと瞼を閉じる。今日もまた、彼女の待つ者は現れなかった。

 遥か遠い記憶に残る、仄かな温もりを抱きながら、彼女は微睡みの中へと落ちていった。



 ドボンっ――。



 水面を割る音に、彼女は目覚めた。表情は変わらないが、どこか期待に満ちているようにも見える顔を遥か水面へ向ける。

 いつもは波間から漏れる陽の光や夜の闇が広がっている。しかし今、彼女の目に見えているのは、一つの小さな影であった。魚影でもない。狩りのために潜水した海鳥でもない。

 あれは――。

 人の子供が彼女のいる海底に向かって沈んでくる。人の子は鰓も持たないのに苦しんでいる様子はない。不思議に思い、彼女はその子供が落ちてくるのを待った。

 人の子――それも幼い男の子だ。

 すでに肺腑は海水に満たされ、目は朧気だった。しかし、まだ死んではいない。

 おかしい。落ちてくる少年を抱き留めながら、彼女は思った。普通、子供が海に落ちたら、大人の人間が飛び込んでくるはずだ。子供は命あるものにとって、かけがえのない存在だ。人もまた、それは同じなはずだ。

 それなのに、彼には助けがこなかった。

 すでに冷たくなった体をひし、と抱きながら、彼女は水面を見つめる。相変わらず波が揺れ、光が歪な模様となって煌いていた。

「……」

 彼女は何を思うでもなく気泡を吐き出してみる。もしかしたら、水上にいる誰かが少年の落ちたことに気づくかもしれない。

 彼女は続けざまに泡を吐き出していく。

 ぶく……。

 ぶくぶく……。

 ぽこ……ぽこ……。

 幾重にも連なった白い泡は水上へ浮かぶとたちまち消えてしまう。それでも彼女は泡を吐き続けた。

 ――気づけ。

 ――――気づけ。

 ――――――――気づいて。



   ◆*◆*◆*◆



 彼女のそんな努力も虚しく、誰も少年を助けにはこなかった。来たとしても返しはしなかったが。

 彼女に抱き締められた少年の周りには魚やタコ、貝が集まり始めた。皆、久々のご馳走に喜んでいる。しかし、彼女は身を捩って、それらから少年の躰を遠ざけた。まだ、彼らに渡すには早すぎる。

 もっと抱き締め、もっと口づけし、もっと撫でて――もっと愛してからでなければ。

 彼女は少年の骸を抱き締めて、さらに深い海底へと沈んでいった。

 冷たい、冷たい水の底には、魚も貝もいない。旅の途中の鯨の群れが、互いの居場所を確かめるために鳴いている声しか聞こえてこなかった。彼らは巨大だが、人の死肉をわざわざ漁りにこないから安心だ。

 彼女は少年をひし、と抱きながら、長らく開いたままになっていた心の孔を埋めた。少年の肌と自分の肌を擦り合わせ、自分だけのものとでも言いたげに彼の頬に接吻を落とした。

 細やかな髪を手櫛で漉き、纏っている衣服を脱がせていく。

 一糸纏わぬ二つの命が、海の底に浮かんでいた。一方がもう一方の手足に絡みつき、頬を擦り寄せたり、鼻先や掌で撫でたりした。

 どれだけの時間、そうしていただろう。一日二日ではない。ひと月、ふた月、それとも半年? 否、少年の骸を手に入れてから、早くも数年が過ぎようとしていた。

 肉はすでに腐って削げ落ち、臓腑もまた海流に攫われていった。残るは真っ白な骨だけだが、それも次々と欠落していった。

 それでも彼女は、“少年”を放さなかった。

 久しく感じていなかった、己が内から湧き立つ愛を、彼女は手放したくなかったのだ。前に愛を失ったのは、もう数百年も前だった。また同じだけの時を待たねばならないのか、と思うと、どうしても手放すことはできなかったのだ。

 四肢の骨はすでに逸した。腰の骨も、背中も骨も、どこかへ流されてしまっていた。

 残されたのは頭骨のみ。ぽっかりと開いた眼窩を見つめ、彼女はそっと溜息を吐いた。そのとき、頭骨の顎が外れて、沈んでいった。彼女がそれを目で追うと、顎から外れた小さな歯が、イルカの吐き出す泡のように閃いていた。

 ――何と、美しい……。

 小さな歯の閃きは、すぐに海底の闇に呑まれて消えた。

 残る頭骨も、ボロボロであった。右の眼窩の縁から大きくひびが走り、後頭部に達したところで孔になっていた。

 終わりが近い。

 突き付けられた現実を前にして、彼女は寂しく、悲しくなった。

 持っていた頭骨を両手で包み、額のところに唇を寄せた。そのときである。

 一際速い流れが彼女を攫った。巨大な海水の動きは彼女でも抗うことは叶わず、躰が大きく流された。と、同時に両手に持っていた頭骨が崩れ始めた。あっと声を上げる間もなく、少年の骨はばらばらと崩れて、海流に乗って遠くへいってしまった。

 残された彼女は、少年の消えていった暗い海を眺めていた。しばらくそうして、彼女は大きく鰭を動かすと、自分が以前までいた場所へと帰っていった。

 誰もいなくなった海底に、白い破片が漂っていた。


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