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蝦蟇口を覗けば

 その日の雨は、夏の陽射しに温められていたのか、妙に温かった。太一は昇降口の下で立ち尽くし、もりもりと膨れ上がった雨雲を見上げていた。溜息を吐こうと大きく鼻から空気を吸い込むと、濡れたアスファルトから立ち込める何とも言えない匂いが抜けていった。

 一瞬、雨に降られるのも悪くないか、と考えたが、次の瞬間には自分が傘を忘れてきたことを思い出して、再び憂鬱な気分になるのだった。ここのところ、全くついてない。

 今日は朝から数学の小テストがあって、昨日の復習をしていなかったために散々な結果に終わった。体育では苦手なバレーボールとなり、何故だか自分にボールが集まってくるし、午後の古典の授業はうっかり居眠りを決めたのみならず、盛大な鼾までかましてしまったのだから、不幸もここに極まれりといったところか。

 そして、止めがこの大雨である。天気予報では快晴だと言っていたのに――。

 太一はやはり、盛大な溜息を吐き出すと、意を決して走り出した。校舎から正門まではグランドを横切らな変えればならない。濡れた砂は否応なく跳ね返って、太一の制服を汚した。

「何でグランドを突っ切らなきゃならないんだ!」

 通う高校の愚痴を吐きながら、太一はやっとの思いで正門を出た。すでにズボンもシャツも泥で斑模様に汚れてしまっていた。

 走ったところで結果が変わるわけもなく、全身ずぶ濡れ。太一は諦めて歩くことにした。道行く婦人が訝しげにこちらを見てくる。バス通学の連中が奇異の目を向けて通り過ぎていくのが横目に見えた。

 全く惨めなことこの上ない。

 項垂れながら自宅へ向かって歩いていく。

 太一は勢いよく流れていく茶色い水を眺めながら、途中にある長い坂を下りていった。その先には大きな貯水池があって、雨はそこへ流れ込んでいた。この辺りに敷かれた排水路を通って、池の畔ではその水が流れ込む轟音が響いている。

「湿気た面してんなあ」

「……!?」

 突然、どこからともなく声が聞こえて、太一はぎょっとした。思わず足を止め、辺りを見渡す。

「どこ見てんだよ。下だ、下。お前の足元」

「え……?」

 見下ろした先には大きな石が転がっていて、その上にでっぷり太った蟇蛙が太々しく腰を下ろしていた。

 気味の悪い目がじろり、と太一を睨んだかと思うと、蟇蛙は嗄れた声で言った。

「危うく踏まれるところだったぜ。最近の人間は周りのことをちっとも見やしねえんだからよ。この前なんざ、道を歩いてたらいきなり珍妙な箱に乗った男が前を横切りやがって……全く……土の上はみんな俺様のものだってか。ああ、なんて傲慢知己な奴らなんだ」

「……」

「何だよ?」

「喋った……」

「ああ? 蛙が喋るのを見るのは初めてかい? この池じゃみんな、あったかい日はいつもがあがあ喚いてるがな」

「いや、そうじゃなくて――」

 日本語を話していることに驚いているのだが、どうやらこちらの話は聞く気がないらしい。蟇蛙はまんまるとした腹を突き出して、太一を見上げて言った。

「それよりも人間、何だその顔は。地獄にでも落ちたみてえな面だなあ」

「まさに気分は地獄だよ」

 そうぼそりと呟くと、蟇蛙は怪訝な顔になって太一の顔をまじまじと覗き込んできた。その気味の悪い目から逃げるように、太一は体を仰け反るようにして距離を取る。

 そうしてしばらく太一のことを眺めていた蛙は、キャッキャと笑い始めた。

「そうかそうか! 坊主、そんなについてねえのか」

「……」

 蛙にすら笑われるなんて……。がっくりと項垂れていると、蟇蛙が言った。

「いいもんを見せてやろう」

「いいもの?」

 太一が訝しげに蟇蛙を睨むと、彼はあんぐりと口を開いた。その中に広がる景色に、太一は思わず目を瞠った。



 ◆*◆*◆*◆



 世界中のあらゆる場所が、そこにはあった。列を為しプラカードを掲げた人々、銃声や砲声の轟く戦場、崩れた礼拝堂の下で祈りを捧げる少女、コンテナに追い立てられていく少年。女、男、老人、赤子――。

 あらゆる人間がそこにはいた。皆、凄惨な境遇に置かれていた。まさにそこは、この世の地獄を凝縮した世界であった。

 ある国の処刑の様子が目の前を過った。十字架に磔にされた男に、いくつもの銃口が向けられている。その引き金が今まさに、引かれようとしたとき、それまで見ていた光景は消えて、今度は誰かの脚が降ってくる。宙づりになっているのか、爪先は床につかずに揺れている。その向こうに見えるのは、何の変哲もないリビングだった。ダイニングテーブルの上には食べかけの弁当と一枚の紙切れ。

 次に見えたのは雪山だった。猛烈な吹雪が視界を奪う。聳える岩肌に亀裂を見つけると、視界は一気に暗くなった。亀裂の中へと移動したのだ。

 そこには一人の男が息絶えようとしていた。岩と岩の間に辛うじて引っ掛かっているが、どうにも助けは望めそうにない。男の目は全てを悟っている。

「ああ、向かえに来てくれたのかい? マリー……」

 最期に男が口にした名は、一体誰のものだろうか。



 ◆*◆*◆*◆



 そこで蟇蛙は口を閉じた。同時に太一は大きく息を吸い込む。それまで呼吸すら忘れて、蟇蛙の口の中を覗き込んでいたらしい。酸欠だろうか、頭がぼうっとしてくる。

 いつの間にか、雨も止んでいた。辺りは薄闇に包まれ始め、遠くで夕餉の匂いがする。

「まあ、お前さんの今日がどんな一日だったか知らねえけどよ……雨に降られたくらいで落ち込めるんだ。まだまだ捨てたもんじゃねえと思うがね」

「……」

「ふん……いい面できるじゃねえかよ」

 蟇蛙はそう言い残すと、ぼちゃりと池の中に消えていった。

 残された太一はそっと立ち上がり、背筋を伸ばした。濡れた制服が肌に張り付いて冷たい。しかしもう、そんなことで落ち込みはしなかった。

 たまには思い切り、雨に濡れるのも悪くない。それから彼は、少し遠回りをして帰ったのだった。

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