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僕は孤独に踊り続ける

一昨年はわりとよくクラブに行っていた。

当時付き合っていた彼がDJだったから連れられるままに、というのがクラブに行っていた主な理由だったのだが、彼と別れた後でも結構クラブのこと好きだな、となんとなく考えていた。
そして今ニューヨークにいて、ジャズの方のクラブに行くのに忙しくてこちらではまだいわゆるクラブに行ったことがないけれど、踊れるライブも好きだ。一体、集団の中で踊るときに何が起きているのだろう。

集団の中で踊ること

エーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本の中で、

「人々はどの時代のどんな社会においても、人間はひとつの問題の解決に迫られてきた。いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するか、いかに個人の生活を超越して他者と一体化するか、という問題である。」

とある。そしてフロムは

「個人の生活を超越して他者と一体化する」ために人間は祝祭的な融合(祭り、儀式、セックス)、集団への同調(国家、宗教、型にはまった仕事・娯楽)、生産的活動(芸術や工芸などの創造)、などをおこなうが、生産的活動で得られる一体感は、人間どうしの一体感ではない。祝祭的な融合から得られる一体感は一時的である。集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感にすぎない。」

と述べている。

クラブで踊るということは現代における祝祭的な融合と同義なのだと思っていて、一時的な一体感を得るための装置としてクラブが存在するのだと思っている。

そしてそれで孤独が解消されることはまず、ない。それでもたまにクラブで踊ると、フロムの言うように偽りではあるものの一体感を得ることができる。いわば「一体化の欲求へのインスタントな解消法」みたいなもので、それがインスタントだと分かって踊りに行くのと、そうでないのとでは雲泥の差がある。そして、人々と一体になっている感覚と同時に大勢の中で孤独を感じるアンビバレントな感覚に襲われる。アンビバレントとは矛盾する感情を孕むことであるので、本来人にとって不快なものだったり、違和感を感じるようなものだったり、ポジティブな感情ではない。しかし、その違和感、いわば集団にいるのにいないといったような浮遊感を楽しむマゾヒズム的な快感があることも確かである。

人と関わりたい、という人間が本来持っている欲求は厄介だ。人と関わりたいけど関わりすぎると疲れる人、本当は人と関わりたいくせにその欲求を無視して、他者を斜めな視点で見ることによってバランスを取っている人、いろんな人がいるけれど、この欲求はずっとずっと人を悩ませてきたのだろう。根本的な解決にはならないし、それは一時的なものでもあるけれどそういう時にガス抜き的に踊ると楽しい。そうでなければ、クラブなんて存在しないのだから。無理して人と話さなくてもいいし、踊って身体を動かすのは健康にもいい。踊るという行為は、音楽———歌うという行為と同じく、太古より人間が営んできた快楽へと向かう行為である。

そういえばアメリカでクラブに行ったことはないと先ほど書いたが、いわゆるみんなが想像するクラブじゃなくて、昔ながらのスウィングの生演奏で地元住人が踊りまくるダンスホール(クラブと言っていいのか)には行ったことがある。老若男女がみんな往年のジャズスタンダードで好き勝手踊る姿は見ていて気持ちがよかった。男女ペアで社交ダンスのように踊る人もいれば、一人で狂ったように踊る人もいた。わたしはフィリピン系の女の子に声をかけられて、「今からあたしの動きを真似して!」と突然誘われ、言われるがままにそのこの動きを真似したら「じゃあ今度はあなたの番!なんか動いて!」とダンスでコールアンドレスポンスのような遊びをした。名前も知らないしそのあと話すこともなかったけど、こういった人との関わりは気軽で楽しくて、好きだなあ。

最後に最近お気に入りのアルバムを紹介する。わたしは昔から踊ることが本当に苦手だった。小学校の運動会などで踊る機会があったのだが、お手本を示されてもどうやって身体を動かしたらいいのか全くわからなかった。多分、身体と脳を繋ぐ神経回路が何本か断線しているのだと思う。それでも、誰にも見られずに部屋の中で文字通り音楽に合わせて「孤独に踊る」のはとても楽しい。到底人に見せられるものではないし、宇宙人のような動きをしているので誰にも見つかりたくはないが。Carlos AguirreとYotam Silbersteinのこのアルバムを聴きながら、ヨガなのかストレッチなのか、はたまた軟体動物なのかよくわからない動きをして楽しんでいる。


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