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京アニ事件の死刑判決→相模原の事件を思い出した

こんにちは、Hinaです。京アニ事件の被告に死刑判決が出たというニュースが出ていました。日本では死刑制度が残っていますが、世界を見ると死刑判決そのものが存在しない国や地域があります。非道な行いをした人に対する極刑が用意されているのは犯罪抑制につながるのでしょうが、その考え方は時に時代の風潮と矛盾します。



◇相模原障害者施設の事件について


私が学生の頃なのでもうだいぶ前の事件ですが、相模原の障害者施設で起きた殺人事件を覚えていますか?被告は「障害者は生きている意味がないから殺した」といった内容の供述をしており、その後死刑判決がおりています。この事件は「障害者にも生きている価値がある!」「どんな理由があっても殺すことはいけない!」と世間の批判的な注目を浴びました。ニュースでも連日大きく取り上げられていましたが、どの番組を見ても被告を肯定する意見はありませんでした(少なくともパブリックなコメントに関しては)。そして最終的に、死刑判決が出ています。

◇「どんな理由があってもいけない」


この判決について、私は素直に賛成できずにいました。「どんな理由があっても殺すことはいけない」と殺人の罪で捕まっているのに、最終的には被告の命を奪うことで罪の償いを求める。ここにある矛盾に納得できなかったのです。
退職していたとはいえ、被告は障害者支援に携わっていた支援者の一人です。障害者の生活を支えて命を守ってきた彼は、障害者のことをよく知ったうえで「生きている価値がない」と判断しました。生きている意味がない人を殺した彼にとって、「そんなひどいことをしたあなたは死刑です」という返答は、「やっぱり生きている意味がない人もいるんだな」というアンサーのようなものなのだと思うのです。
結局誰も、彼に対してきっちりと「誰にでも生きている価値があるんだよ」と説明できていないのではないでしょうか。

◇日本の死刑判決について思うこと


死刑が悪いことだとは言いません。被害者にとって、被告は言葉に表せないほどの憎しみを抱く存在です。命で償える罪はない、被告が死んだところで大切な人は帰ってこないとわかっていつつ、死刑という極刑があることで救われる人もいるかと思います。
しかしながら、「こんなひどいことをした人は死刑だ」という世間のコメントには少し不安な気持ちがあります。それは、「世間一般から外れたことをした人」に対して排除する精神に一歩近づいてしまう危険があるからです。
朝井リョウの正欲の紹介でも書きましたが、「いろんな人がいるのは素晴らしい」と「キチガイは嫌だ」が両立している今の社会。素晴らしい人とキチガイとの間にある差は、明確な基準もなく世間が決めています。その極限が死刑だと思うのです。

・朝井リョウ「正欲」↓


死刑判決を最終的に下すのも、その過程を審議するのも、実際に死刑を執り行うのも、すべて人間がやることです。その人に死刑を下していい理由を明確に説明でき人などいるのでしょうか。
今回の京アニ事件の判決を聞いて、「そりゃそうだよね〜」と話す同僚に少しだけ不安を覚えました。
きれいに「誰にでも生きる権利がある」とまとめることはできませんが、せめて「死刑になって当たり前だよね」と気軽に言うような人にはなりたくないな、なんて思いました。

ということで、楽しい話題ではありませんが、安易に推奨してほしくない「死刑」について考えてみました。

では、また🌷


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