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noteを読みたくないときもある、そして書きたくないときもある。

最近「読む」ということに関して多く語られている。丁寧に読み感情移入しその世界に入り込む。読んでその感想を丁寧に伝えることは本当に簡単ではない。私は語彙力がない人のように「すごい」「感動した」と一言しか伝えることができない。きっと読むということは技術ではなく心で感じることであり、私はそれができていないのだと思う。だから自分の作品をそんな風に読んでもらえたら幸せだと思う。そして読むことを丁寧にできる人は書くことに関してもとても情緒があったり引き込ませるそんな作品を生み出している。

noteに限らず書籍、また仕事のメールもそうだけれど読みたくないときがある。それは疲れていると忙しいという理由ではなく「なんとなく」という表現が合っている。その「なんとなく」という感覚はあまりに曖昧だけれど本人にとっては重大なことなんだろうと思う。読んでみるもののどうも頭に入ってこない。それは理解する力なのか、それとも気力や体力なのか。

読むことは心の体力が「ある程度」必要なのだと思う。そして心の体力は身体と一体化している。だから肉体疲労しているときはやはり読むことができない。ただ「ある程度」と書いたのは心の隙間とか弱さは、人の思いを感じる部分でもあるからだと思うから。正直今の私にはその体力が少し足りていない。淡々と読むことはできるが、その作品の思いを感じることができないことがある。

そして書くことも一緒。

ただ、体力が足りていないということは言い訳でしかすぎない。途中まで書くものの筆力や表現力に絶望することもあり、また誰かの作品を読んでは嫉妬した。だから誰かとつながることもどこか躊躇することもあった。これが正直な気持ちなんだと思う。ただ私は何か努力をしたかと言われればほとんどせず、計画性もなくほぼ思いつきで書いている。そういうときはほぼ楽しんで書いていることが多く、それは決して悪いことではないと思っている。ただ文章を仕事にしていないことを言い訳にして努力もしていないのに絶望や嫉妬していることは滑稽でしかない。

丁寧に作品と向き合う。
読むことも、そして書くことも。

そして、読めないとき、書けないときには、その心に従う。

改めてここから始めようと思う。

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