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新しい道をつくるのはいつも「ホンの少しの勇気」

フリーライター&イラストレーターの陽菜ひなひよ子です。

出版で人生は変わるのか?と問われれば「Yes」とも「No」ともいえる。それは「その本次第」「その人次第」であるからだ。

2020年9月、わたしの3冊目の本『ナゴヤ愛』が発売された。この本は、出版までの経緯も出版後も、わたしの人生を根こそぎ変える存在となった。

※今日の記事は『わたしのお仕事・アーカイブ』に含まれます。


『ナゴヤ愛』のご紹介


この本は、わたしのインタビューとコラムからなるナゴヤ本(第7章のみ、本文・写真:宮田雄平)。「ガイドブック」ではなく「まちと人の魅力」に焦点を当てて書いている。

住みやすさNo.1、「カワイイ」のルーツ、クールジャパンの聖地、最も日本人らしい日本人が住む、パリにそっくりの街!それがナゴヤ。ナゴヤほど楽しい街はない。歴史と文化と遊び心に溢れた、郷土愛爆発の地元民に支えられた日本一愛すべき街、それがナゴヤ!

【章目次】
第1章 実はナゴヤって暮らしやすさNo.1
第2章 マンガと「カワイイ」のルーツはナゴヤ!
第3章 食べてみよまい名古屋めし
第4章 ナゴヤオススメ 意外と知らない名所旧跡
第5章 今のナゴヤをつくる人たち
第6章 古典が今も生きてるナゴヤ文化
第7章 街へ出て今のナゴヤを切り取ろう!

試し読みはコチラから(第1章~第3章より抜粋)

コチラからもどうぞ。

コラム(第1章・第3章・第4章より抜粋)

インタビュー(第5章・第6章より抜粋)

Amazonで購入できます


ほぼ初体験だったインタビュー


はじめてインタビューをしたのは2017年

何度かインタビューを受けたことはあるものの、インタビューをしたこともどこかで学んだこともない。そんなわたしが、ある出版社の社長から「ナゴヤのおもしろい人の話を聞いて本を出したい」というオファーを受けた。

実はこのオファーは2016年に続いて2度目だった。断った理由は「おもしろい人」にピンと来なかったからで、自分に書けないと思ったわけではない。結局、社長の熱意に負けて引き受けることにした。

あくまでもそれまでの自分は「イラストレーター」だった。ライターとして文章を書いたことが何度かある程度。それなのに「自分にできるだろうか」と迷うこともなく、誰を取材するかを決め、迷いなく決行した。

自分で立てた企画ではない。だから「どうしても伝えたい」といった「衝動に」に突き動かされたわけでもない。それなのに、このときなぜやれたのか。

もちろん不安がまったくなかったわけではない。でも不安よりもワクワクする気持ちの方が強かった。ホンの少しの勇気で、不安など乗り越えられたのだ。

今考えても不思議だが、結局のところ「そうなるようになっていた」としか思えない。「運命」と言ってしまえば陳腐だが、あらかじめ決まっていたように、気づけばそこへたどり着くようなことが、人生の中には何度かあるものなのだ。


記念すべきわたしの最初の取材相手は、瀬戸本業窯の水野雄介さん

瀬戸本業窯さんにて。2017年8月


今思えば、最初に雄介さんを取材できたことがラッキーだった。だって本当に楽しい取材だったからだ。雄介さんだけでなく、水野家の家族全員がユニークで素晴らしかった。

雄介さんの取材がうまくいったからこそ、わたしは「取材って楽しい」と思えたのだ。

瀬戸本業窯さんのインタビューはコチラで読める(再掲)
『セラミックワールド・ナゴヤ 瀬戸本業窯を嫁が斬る!』


インタビュー後3年越しで出版


その一週間後には、有松でcucuriというファッションブランドを立ち上げた山上正晃やまがみまさてるさんを取材。山上さんもすごくおもしろい方で、本にピッタリの楽しい話を聞かせてくださった。

有松の街並みにて(2017年8月)


ところが、その後出版社の社長と本の方向性がかみ合わなくなり、出版がとん挫してしまう。2019年春に秀和システムとの間で話が持ち上がるが、企画会議のために企画を進めていた編集さんが産休に入られてしまう・・・

出版が正式に決まったのは2020年2月。最初に取材をしてから3年の月日が経っていた。

今だから話せるが、わたしは当時取材を録音する習慣がなかった。特に雄介さんの取材は、工房を歩きながら。録音してもうまく録れてはいなかっただろう。

彼らの話はメモ書きのまま3年間放置されていたにもかかわらず、わたしは3年前の話をありありと思い出し、記事にまとめることができた。

このお2人の話をしっかりと記事に仕上げられたことが、わたしの中で大きな自信となったのだ。


満を持して出版、話題になる


2020年9月、コロナ禍の中で無事出版。名古屋市内の書店でランキング1位2位を取る店も出るなど、大きく扱われた。

新聞・テレビなどのメディアにも大きく取り上げられた。


出版後、職業が変わった


出版後、人生が変わる人は少なくない。わたしは一冊目の本でイラストレーターになったが、二冊目の出版後、自分の生活にほとんど変化がなかった。そのため、この本で自分の人生が変わるとは想像も期待もしていなかったのだ。

◎中日新聞広報誌の仕事


出版半年後の2021年4月より、中日新聞広報局からコラム連載のオファーが来た。『ナゴヤ愛』出版元の秀和システムと相談の上、デザインも本のイメージを引き継いだ。

新聞小説の挿絵担当は、イラストレーターにとって名誉な仕事だ。2019年にわたしも晴れて新聞にイラストを使用していただいた。しかし、まさか自分がコラムの連載をすることになろうとは。

ナゴヤ人にとって中日新聞は特別だ。かつては「野球はドラゴンズ、銀行は東海銀行(現・三菱UFJ)、新聞は中日」と揶揄されたこともあるほど、絶対的な存在なのだ。生粋のナゴヤ人である父が生きていたら、何より喜んでくれただろう。

◎中京テレビ番組ファンクラブの仕事


その後、着々と連載は増えていく。それも文章ばかり。

2022年秋には、東海地方で30年続く長寿番組である『PS純金』のファンクラブ限定コラムの仕事が舞い込む。

近所までプロデューサー以下5人もの方々がお越しくださった。『ナゴヤ愛』を読んで、ぜひわたしにと思ってくださったと・・・こんな名誉な話があるだろうか。

ちなみに『PS純金』は、日本テレビ系『オモウマい店』の元となった番組。『オモウマい店』は、『PS純金』のコンセプトを全国に広げたもので、中京テレビ制作なのだ。

これを断る人などいるのか?

話の流れでオットがカメラマンだと話すと、2人でロケに行くことが決定。2人分の仕事をゲットしてしまったのである。


ホンの少しの勇気で人生は変わる


わたしは連載6本を抱えるようになった。正直、コロナ禍でイラストの仕事は壊滅状態。あのままイラストレーターにしがみついていたら、我が家は路頭に迷っていたかもしれない。

「本を出す、ホンの少しの勇気で、我が家は救われたのだ」

もともとわたしは、「仕事は断らない」モットーでやって来た。やったことのない仕事でも、オファーが来たなら、それは自分にできるということ。

イラストを手放したわけではない。中京テレビさんからは会員向けの暑中見舞いのイラストの依頼も来た。ありがたや。

それにしても「ほんを出すホンの少しの勇気」って、うまいこと言うな、わたし、とニヤニヤしつつ、この文章を〆ることにする。



10/2(月)先週特にスキを集めた「#ライターの仕事」の記事だそうです❤
スキしてくださった方々、ありがとうございます!

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