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「私」が見ている世界は「私」しか見えていない。よって「他人」の世界を「私」は全て見えていない。

私が見ている世界は、私しか知りません。朝起きて、なにを思って朝の準備をして、お昼ご飯に食べたもの、そのときに感じたこと、見たこと、夜寝るまでのこと、私は、私の全てを見ています。
それが、自分の世界であり、その自分の世界で起きたことや学んだこと、私の世界に登場した親や先生などに教えられたことなどによって、今持っているルール、考え、思考癖が作られてきました。それは、あくまで、「私」の世界で生成されたものであるので、他人とは違います。

他人には、他人の世界があり、世界に現れた人や経験した出来事、そこで学んだことは違います。
だから、考え方の違いがあっても当たり前だと思うと、少し楽になりませんか。むしろ、他人と私との違いを知ることによって、私の世界が新しい考えと出会い、私の世界に広がりが見えてくるのです。

 他人と共有している世界、例えば、日本人は、日本という国を共有しています。家に入るときは靴を脱いだり、公共交通機関が時間通りに運行していたり、箸を使って食事をするなど、多くの日本人が当たり前だと思っていることではないでしょうか。
しかし、国が違えば、その「当たり前」は変化しますよね。

人との意見の違いも同じ様なものなのです。

国、地域、職場、グループ、家族の中などそのコミュニティ内では、そのコミュニティの独自ルールというものがあり、その独自ルールに反すると異質なものに見え、変な人といった扱いや反発に合う人はいます。しかしその異質さが、そのコミュニティが廃れないために必要なものであることも多いにあるのです。

自分の職場やコミュニティに嫌いな人はいるでしょうか。
嫌いな人というのは、自分の世界の平和を乱す者であり、もっと本能に近い部分で言えば、生存を脅かす者だと無意識的に捉えています。
よって、自分の生存を守るべく、意識を嫌いな人の方に向けて警戒します。だからますます、嫌いな人の言動は目につくようになるのです。
職場などで、嫌いな人の些細なミスや失敗にアンテナを張って揚げ足取りのようなことをしてみたりする人と出会ったことはあるでしょうか。
職場内では、評価や成果がそのコミュニティ内での自分の居場所確保に関わることも多く、自分の居場所を守るために、他人の些細なミスを大事として騒ぎ立てたりするのです。
ちなみに、騒ぎ立てる人のターゲットになると、騒ぎ立てる人がそのコミュニティ内において優勢であり自分には味方がいないような気持ちに陥ってしまう人もいるようですが、大体の人が「大人な対応」なので、あえて何も言わなかったり、騒ぎ立てる人が悪口を言ってくると反論すると面倒だから「そうだよね。」と同調した振りをしたりしています。
騒ぎ立てる人は、「そうだよね。」という適当にされた返事に対して「みんなが言ってる。」と主張するので、ますますターゲットになった人が肩身の狭い思いをすることもあるのですが、ターゲットにされた人が本音を周囲の人に打ち明けると共感を得ることができたり、なにも対処しないように感じていた上司は、ターゲットにされた人からなにも申し出がないので、平気なのかと思っていたといったことやそもそも申し出がなければ動けない状況等もあるので、味方のいない世界だと自分でそう世界を見ていただけで、実際には仲間は多かったケースもありますし、むしろ、騒ぎ立てる人が仲間だと思っていた人が別に仲間として同じ考えを持っていなかったというケースも実際に多々ありました。

自分を嫌う人が目の前に現れたとき、相手の世界の中でなにかが適合していなかっただけで、別に自分を責める必要もないし、同じように相手を嫌いになって、嫌いの相思相愛的な関係になることもないのです。
たまたま、相手が自分のことを嫌いなようだ。で、終了でよく、そこに感情的に振り回される必要はありません。現実的被害を受けていたとするならば、現実的対処を淡々と進めればよいのです。

他人の言動の中で、自分の世界にとって不適切でも、他人の世界では正当な理論として成り立っていることも多いです。
だから「私」には理解できない主張を他人がしていても、他人には、他人の正当な理論が成り立っていて主張しているのです。
だから、「私」が理解できないからといって最初から頭ごなしに否定すると、トラブルになったりします。時間や余裕があるのであれば、相手の話を聞いてあげた上で、自分の思いとの調和点を探していければ平和的解決がなされやすいのですが、根気と忍耐が必要な部分でもあり業務を行いつつ対話時間も確保するとなると実際には難しいとなるので、理想論であることは理解しています。
ただ、会社の制度や決まりで対話がなされる職場なのであれば、ヒアリングを行う方はできるだけ相手を愛情を持って理解する試みをしてみると、問題の解決ややる気がないように思っていた人にやる気が出るなどの面白い結果を得られるかもしれません。言葉にせずとも内面の気持ちや本音が相手に伝わっているようだからです。

思考量と顕在意識と潜在意識をどの程度使って生きているかによるとはいえ、言葉や表情に出していない本音の方が伝わってしまう人が多いようだと私は感じています。

もちろん、人間関係において、逃げるという選択が最良であることもありますし、闘うことが最良である場合もあります。

結局、個々の世界の選択なので、答えは自分でしかなく、自分が選んだ答えに対して、はらをくくって行動し、自分の世界を自分で創り上げていっているのという現実を受け入れたいところです。
もちろん選択できない事柄もあるのですが、現実としてそれが起きたならば、そこからどう自分が動くか、考えるかを選択するのは、やはり自分です。

他人に相談をして、他人のアドバイスを受け入れると決めるのも自分なのです。
アドバイスを受け入れた結果、状況が悪化すると他人を責めたくなる気持ちも出てくるかもしれませんが、そのアドバイスを受け入れる選択を行ったのは自分です。

私たちは、自分の言葉や感情や気持ちやふるまいや行動を自分で選んでいます。

「私」は「私」の世界で人生を送っています。
だから、「私」の世界の平和と幸せを整えるべく、自分が自分の意志や意図で選択していくことで、「私」が他者と調和する世界を「私」の世界として創っていくことができるのです。


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