古代史勉強家(小嶋浩毅)

仕事をしながら古代史を学ぶ自称「古代史勉強家」です。全国の遺跡や神社、歴史博物館を巡っ…

古代史勉強家(小嶋浩毅)

仕事をしながら古代史を学ぶ自称「古代史勉強家」です。全国の遺跡や神社、歴史博物館を巡っています。博物館好きが高じて学芸員資格を取りました。古代史の学びを通じて人生を充実させたいと思います。こちらも是非ご覧下さい→http://kodaishi-gakusyu.blog.jp/

マガジン

  • 物部氏を妄想する

    いまひとつ実態がよくわからない物部氏。素人発想で出したトンデモな答えに対して、その検証プロセスは意外なほどに真面目、丹念、緻密なものとなりました。専門家には出せない味があると自画自賛。

  • 天照大神の誕生と伊勢神宮の成立

    天照大神はいつ頃、どのように誕生したのか。その天照大神が祀られる伊勢神宮(皇大神宮)の成立はいつ頃なのか。「古代史構想学(実践編6)」で整理した専門家の論考をもとに熟考した末の見解を15回シリーズで紹介します。

  • 【学芸員課程】博物館学 レポート公開

    学芸員資格を取得するために単位取得が必要となる9科目のうち、博物館概論、博物館展示論、博物館資料論、博物館情報メディア論、博物館教育論、生涯学習論の6科目について、期中での2回の課題レポートと、科目修得レポートを公開します。先生の評価コメントと、わずかではあるものの私なりのノウハウも含んでいるので少しだけ対価をいただきます。

  • 古代史構想学(実践編6)

    天照大神はいつ頃、どのように誕生したのでしょうか。そして、その天照大神が祀られる伊勢神宮(皇大神宮)の誕生はいつ頃なのでしょうか。専門家の論考を読みながら考えてみようと思います。

  • 古代史構想学(実践編5)

    前方後円墳はどのようにして誕生したのだろう。なぜ前方後円墳と呼ぶのだろう。あの形にはどんな意味があるのだろう。長年抱いてきた疑問に答えを出すべく、調べてみました。

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自己紹介

一般企業で仕事をしながら古代史を学ぶ自称「古代史勉強家」です。全国各地の遺跡や神社の訪問、歴史博物館の見学を続けています。博物館好きが高じて学芸員資格を取得しました。古代史の学びを通じて人生を充実させたいと思います。また、そういう人々のお手伝いをしたいと思います。 たとえば、これまでに古代史実地踏査ツアーと称して、全国各地200か所以上の遺跡、古社、歴史博物館などを訪ね歩きましたが、ひとりで出かけることもあれば、数人から十数人の団体で行動することもあり、踏査地の選定や行程の

    • 18.物部氏と鎮魂祭

      物部の鎮魂が猿女の鎮魂に合体させられてその位置付けが低下、あるいはその存在が実質的に消滅してしまったとすれば、その背景として考えられるのは奈良時代になって以降、物部氏が没落してしまったことがあげられるのではないでしょうか。 当時、物部氏を代表していたのは石上朝臣麻呂(物部麻呂)でした。壬申の乱で大友皇子側についた麻呂は最後まで皇子に従った忠誠心を買われて乱後に天武天皇に重用されるようになります。天武天皇13年(684年)、物部連氏は多くの臣姓の氏族とともに朝臣の姓を与えられ

      • 17.石上神宮の祭祀

        石上神宮について触れている資料に『紀氏家牒』という紀氏の伝承や系譜がまとめられたものがあります。平安時代の編纂とされていますが、現在は逸文が残るのみです。それによると、蘇我馬子の子の蝦夷は葛城県豊浦里にいたので豊浦大臣と呼ばれ、また、多くの兵器を所蔵していたので武蔵大臣とも呼ばれました。蝦夷の母は物部守屋大連の妹である太姫で、彼女は守屋家の滅亡後に石上神宮の斎神の頭となります。それで蝦夷は物部族の神主家等を下僕にして物部首または神主首と称するようになりました。蝦夷の母が守屋の

        • 16.石上神宮と物部氏

          ここまで物部氏の職掌の変遷やヤマト王権内における政治的ポジションの推移を見てきました。弥生時代から古墳時代にかけて墳丘墓や古墳を舞台にした首長霊祭祀を担うことで王権との関係を築き、王権内で執政官として要職を担う中で警察や軍事、外交にまで役割を広げていきました。また、仏教信仰を巡る蘇我氏との争いでは祭祀一族としての一面を強く表出させました。しかしながら、その結果として王権内での力を弱めることになってしまいました。ここではその祭祀一族の側面について石上神宮との関係を確認します。

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        • 物部氏を妄想する
          18本
          ¥500
        • 天照大神の誕生と伊勢神宮の成立
          15本
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        • 【学芸員課程】博物館学 レポート公開
          26本
        • 古代史構想学(実践編6)
          21本
        • 古代史構想学(実践編5)
          16本
        • 古代史構想学(実践編4)
          3本

        記事

          15.物部本宗家の敗北

          欽明天皇13年(552年)に百済から仏像や経論などが伝えられた際、欽明天皇はその信仰を受容するか否かを自ら決めずに群臣に尋ねました。蘇我稲目は「西の諸国はどこも礼拝しています。日本だけが背くことができるでしょうか」と答えます。一方の物部尾輿と中臣鎌子は「天皇が天下に王であられるのは、天神地祇百八十神を春夏秋冬にお祀りされているからです。これを改めて蕃神を拝めば恐らく国つ神の怒りがあるでしょう」と反対しました。そこで天皇は蘇我稲目に試しに礼拝させることにしました。いわゆる「崇仏

          14.中臣氏の台頭

          祭祀や祭器製作に始まり、神宝管理や石上神宮の神官など祭祀に関わる職掌を担ってきた物部氏が宮中警護を含む一般政務に関与するようになり、雄略天皇の5世紀後半以降は采女の管理、さらには行刑、軍事、外交と職掌を広げる一方で、本来の職掌であった祭祀関係、とくに古墳築造を含む葬送に関する祭祀は土師氏に取って代わられます。ただ、畿内では6世紀後半になると前方後円墳の築造が減り、天皇陵の築造としても571年に崩御した第29代欽明天皇陵が最後の前方後円墳となり、それとともに埴輪の配列も衰退、土

          13.物部氏の職掌の変遷

          前稿に続いて『日本書紀』をもとに物部氏の職掌の変遷を確認します。応神紀、仁徳紀に物部氏は登場せず、続く履中紀から継体紀までを見てみます。5世紀中頃から6世紀前半、古墳時代中期中頃から後期前半の時代になります。 ⑧ 第17代履中天皇は即位前、羽田矢代宿禰の娘の黒媛を巡って同母弟の住吉仲皇子と争いになったとき、平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直祖阿知使主の三人の協力を得て石上振神宮に逃げ込んで難を逃れた。そして即位後は、平群木菟宿禰・蘇賀満智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主が共に国

          13.物部氏の職掌の変遷

          12.物部氏の台頭

          6世紀初めの継体天皇の時に部民制が始まり、中央では大王家の祭祀を取り仕切ってきた一族が物部連氏となり、地方では各地の豪族の祭祀を担ってきた一族が物部氏となります。『先代旧事本紀』に天物部二十五部として二田物部、当麻物部など「○○物部」と記される物部や、『新撰姓氏録』にある物部飛鳥や『続日本紀』に見られる物部多芸など「物部○○」として記される物部がそれにあたります。これらは複姓物部氏と呼ばれ、「物部」に地名や職業の名称が付随したパターンが見られます。 また、この6世紀はその後

          11.古墳祭祀と物部氏

          弥生時代中期以降、朱で染められた甕棺墓や朱を敷き詰めた埋葬施設をもつ墳丘墓を築き、神獣鏡や鳥形木製品を副葬し、墳丘上で壺形土器の供献や飲食用土器を用いた飲食儀礼を執り行うなど、神仙思想を反映した葬送儀礼が各地で行われました。その後、弥生時代終末期から古墳時代に入ると墳丘そのものを神仙界に見立てた壺形に変化させ、埋葬施設を丸太や円筒埴輪で囲んで聖域化し、その中で飲食儀礼あるいはそれを簡素化した飲食供献を行うようになり、さらに古墳時代中期以降は造り出し部や周堤上で飲食儀礼の様子を

          10.古墳を舞台にした儀礼

          前稿では古屋氏の論文をもとに弥生後期から終末期にかけての各地域における祭祀を整理しましたが、ここでは続いて古墳時代における埴輪の囲繞配列を整理します。 囲繞配列の最も古い例が、弥生時代終末期のホケノ山古墳(奈良県)における畿内系加飾壺による主体部方形囲繞配列で、次に都月坂1号墳(岡山市)での都月型特殊器台形埴輪の囲繞配列が想定されています。この埴輪の分布は吉備・播磨・大和・山城・近江に見られ、古墳時代前期最古段階にこれらの地域に共通した祭器を使用する囲繞配列の分布圏が出現し

          10.古墳を舞台にした儀礼

          9.古墳出現前後の祭祀

          弥生時代中期初め頃に中国から渡来した徐福集団が日本の各地に上陸して神仙思想を広めました。各地の王は不老不死、不老長生にあこがれて自ら神仙になることを望んだものの、現実は誰もが死を迎えます。後継者となった次代の王は亡き先代王を仙界に送り出すため、徐福集団の後裔たち(=各地の物部)とともに神仙思想を取り入れた埋葬や葬送の儀礼を営みました。甕棺墓や土器棺墓、朱に彩られた棺、壺形土器の供献、鳥形木製品の副葬などです。弥生時代後期から終末期になると大きな墳墓を築くようになり、仙界を描い

          9.古墳出現前後の祭祀

          8.壺形古墳の登場

          前稿において徐福伝承地と物部分布地が濃密に重なる地域において、甕棺墓という埋葬方法、壺形土器を用いた葬送儀礼、水銀朱を用いた埋葬施設や葬送儀礼などに神仙思想の痕跡が共通に認められることが確認できました。これは、徐福がもたらした神仙思想に基づく埋葬方法や葬送儀礼が行われた地域に物部(物部氏と呼ばれる前の各地の集団)が濃密に分布していたということです。「2.物部の由来」で考えたように、物部氏は祭祀を職掌とする氏族でしたが、その原点は徐福が各地で伝えた神仙思想に基づく祭祀を担ったこ

          7.弥生時代における神仙思想の痕跡

          先に見た徐福伝承地と物部分布域の重なる①北部九州一帯、➁瀬戸内海西側の沿岸部、③高知県高知市周辺、④丹後半島を中心にした一帯、⑤伊勢湾岸地域、のそれぞれにおいて、徐福が渡来した弥生時代中期から後期においてこれらの地域で神仙思想を想定しうる遺跡や遺物が見られるのか、を見ておきたいと思います。 まず「①北部九州一帯」を確認しますが、この地域は佐賀県を中心にとくに徐福伝承地が密集しています。その佐賀県に隣接する福岡県を中心とした一帯にある三雲南小路遺跡、吉武高木遺跡、立岩堀田遺跡

          7.弥生時代における神仙思想の痕跡

          6.徐福の渡来

          物部氏は神仙思想に基づく首長霊祭祀を担う祭祀氏族でした。この神仙思想を日本列島に持ち込んだのはほかでもない徐福です。徐福は中国の秦時代の方士で本名は徐市(じょふつ)といいます。中国においても伝説の人物とされていましたが、1982年に江蘇省で徐福生誕の地とされる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、現在では実在した人物とされています。方士(ほうし)とは、瞑想、占い、気功、錬丹術、静坐などの方術によって不老長寿、尸解(しかい=羽化すること)を成し遂げようとした、つまり神仙になる

          5.物部氏と神仙思想

          物部氏の東遷は、北部九州から瀬戸内海沿岸、さらには摂津、河内、大和にかけて存在した物部一族の支援を受けて実現したのか、あるいは逆に、東遷の際に各地に一族を残留させながら通過したのか、さらには各地の氏族を帰順させて一族に取り込んだ結果としてそこに物部一族が存在することになったのか。順序の違いはあれど、いずれにしても少なくとも3世紀よりも以前のことになります。鳥越氏はそれを弥生時代中期前半より以前(前2世紀頃か)、谷川氏は1〜2世紀のこととします。また、ここまで詳しく触れませんで

          5.物部氏と神仙思想

          4.物部氏の東遷

          『日本書紀』には、東にある青い山に囲まれた美し国(大和のこと)にニギハヤヒが降臨したこと、神武がその地を都にするために東征したこと、そしてニギハヤヒと戦って勝利し大和で即位したこと、そのニギハヤヒは物部氏の祖であること、が記されます。これは神武天皇に始まるヤマト王権よりも先にニギハヤヒが大和を治めていたことを表している、とされます。 民俗学者の谷川健一氏は「ニギハヤヒの降臨=物部氏の東遷」とし、ニギハヤヒを奉斎する物部氏がその故地である北部九州を出て河内、大和に東遷したと説